独白

全くの独白

人間と戦い#2

2017-06-30 15:29:48 | 日記
人間は生まれてから死ぬ迄戦い続ける事を余儀無くされていると云って良いかも知れない。
その為に下意識には戦闘というものが蟠って居て、武器への不可思議な興味の源泉と成って居るのであろうか。
赤ん坊と雖も病原体としての細菌と闘い、胎内で受け継いでしまった病と闘い、空腹や暑さ寒さや屎尿に依る不快感と闘っている。
座禅をすれば覆い被さって来る煩悩と闘う事に成ろう。野原に寝転んで漫然と青空に浮かぶ雲や、遊ぶ雲雀を眺めていても、藪蚊や蜂とは戦わずに居られない。
私等も常に何かと戦って居り、今朝も自身と闘って来た。
何年も走っているルートを走って来た。他に所用が無く数日続けて走って居ると、膝等の痛み始める事がある。何年経ってもそうである。
翻って何年続けて居ても、一向に楽には成らない。
山旅なども同様である。幾ら経験を積んでも初日には、始めた頃より楽に成って来つつあると思った事が無い。
重いザックを背負い、急坂を上る時等は、此の一歩で力が尽き、次の一歩は出せまいと思うが、不思議と又力は湧いて来る。
どこが辛いのであろうかと省みてみる。息苦しいような気はするが、肺や心臓に然程負担が掛かって居るような感じでもない。
喘息持ちで、吸入器と共に山歩きをしている友人もいる。
足は疲れているが、僅か一歩の為に然程の力が筋肉や関節を苦しめている様にも思われない。
まだ何時間も歩かなければならないとの心理的苦痛もあるが、細やかなものであり、どうしても厭なら登山等しなければ良いだけの話である。
すると登山やジョギングの苦痛は局部ではなく、心身の全体から少しづつ発して居るもの共の総体であるらしい。
だからこそ、一歩の為に全力を出し切った様でも、次の一歩を踏み出す事が出来るのであろう。
骨折等の為に局部に激痛が在ったのでは、出来ない事である。
山旅も含んだ旅と、人生とは良く相互に例えられるが、似た処ばかりでは無さそうである。
人生では時間が待ってくれない、人間は常に時間に追われている。
一方旅で待ってくれないのは空間であり、立ち止まって居る限り目的地には着かないのに対して時間の方は、
当事者が好きで設定したものであるに過ぎず、厭なら旅に等出なければ良いだけである。(因にこれは飽迄、拙い乍らレトリックである。
旅に於いても実際に吾人を追い立てるものは時間の方であって、立ち止まって居る時、時間の方も進むのを已めてくれるのであれば問題は無い。
実際は、立ち止まっている間にも時間は容赦なく過ぎて行き、暗く成っても目的地に辿り着けないからこそ困るのである。
畢竟は旅も後述のように、人生の一駒であるに過ぎず、従って旅と人生とが異質である事等在りはしない。)
併し相互に似通っている点も確かに在って、どちらに在っても人間は、何かと戦い続けて居るのである。
旅も人間の営為の一つであり、至極尤もな事ではあるが。

 人間と戦い

2017-06-29 14:52:38 | 日記
西部劇が好きでよく見たものである。
イーストウッドなどが纏っていたポンチョの値を調べてみると、数万円する。
無理に買っても使う機会はあまり無さそうである。
あれを纏ってただ歩いてみても、只のペルー人である。
ペルー人でも悪くは無いが、イーストウッドに成るには馬とテンガロンハット、それに何よりガンベルトに挿した拳銃が足りない。
勢い良くポンチョを捲って肩に掛けると同時に、腰の銃を引き抜くのでなければ成らない。
引き摺る程丈の長いレインコートに、テンガロンハットのジョン・ウェインも様になっていた。
併し使い勝手は良く無さそうである。鞍に跨れば足は濡れ放題であろう。カウボーイも楽ではない。
カウボーイが只、牛を追ってする旅を描くだけなら、あれ程多くの西部劇は作られなかったろう。
カウボーイや賞金稼ぎや保安官の腰の銃こそが西部劇を創ったのである。
西部劇でも他の映画でも、芝居でも文学でもそこに争いや戦いの登場しないものは無いと言って良かろう。
愛の与からない作品が無いのと同様である。
恋人同士の愛は登場せずとも、故郷への、国家への、人類への愛、芸術への学問への家族間の愛等のうちどれかは必ず描かれる。
撃ち合いや決闘や戦争は登場せずとも、自身との、時間との自然との、嵐との親との戦い等の内のいずれかは必ず描かれていると言って良かろう。
映画も芝居も仮想現実であり、現実との関係は極めて密接である。言葉の上では半ば現実ですらある。
映画館から出て来る者は皆、登場人物に成り切っている。
文学でも、私小説であろうとなかろうと、読者と言うものは作品の中に自身を投影させてしまっている。
これらの作品は一見荒唐無稽に見えても、現実界の真実をそれぞれの方法で、捉えて見せてくれているからこそ吾人を納得させ、その気にさせるのであろう。
すると詰まり現実界では、愛がそうである様に、争いや諍いや戦いと吾人とは、切っても切れない間柄にあるという事に成ろう。
確かに私の様な平和愛好者でも、銃や刀剣にはえも言わず惹かれるのである。
平和への愛が滅びないように、戦争も無くならない訳である。
私の今日等も、朝の睡魔との闘いから始まった。

介護と言う職種#1

2017-06-19 15:32:43 | 日記
何であったか忘れたが、ある職に就いている時に、この仕事は卑しいと思った事がある。
其の時私は、他の幾つかの職業を、少なくとも自身の職業より尊いと思っていた訳である。
詰まり私の考えでは職業に貴賤はある。
又あまりに圧倒的で否定しようにも仕様が無く、尊敬させられてしまうような人が、世の中には居る。
詰まり少なくとも何らかの点で、自身はその人より卑小であると、その時私は自認している。
即ち私の考えでは人間にも貴賤がある。
すると私の考えでは、
「職業に貴賤は無く、其れに就いている人間に貴賤があるのである」とも
「人間に貴賤は無く、其の人の就いている職業に貴賤があるのである」とも又、
「職業に貴賤は在っても、其れに就いている人間に貴賤は無い」とも
「人間に貴賤は在っても、其の人の就いている職業に貴賤は無い」とも
言えないという事に成る。
併し当然、他の人にはその人なりの考え方がある。
更にそもそも、私の解釈も他の人の解釈も、如何様の見地に立つかに依って、変わる。
詰まり職業でも人間でも、其れに就いての貴賤などと言うものは極めて相対的な概念であるに過ぎず、
天上から見ている何者かが在るとすれば、そのものにとっては嘸無意味な事であろう。
吾人が女王蟻を見て、他の蟻より大きいとは見て取っても、尊いとは思わないようなものである。
すると即ち「職業に貴賤は無い」と言った人も「天は人の上に人を造らず云々」と言った人も、
天上的な見地に立つ事が出来ていたのであるという事に成ろうか。(続く)

テロ等準備罪

2017-06-13 14:42:08 | 日記
テロ等準備罪に就いて安倍さんの語る事は、悪徳商人を思わせる。
「相手は素人、なんでも適当な事を言い繕って、取り敢えず丸め込んでしまう事さえ出来れば良い」と言う心根が感じられるのである。
「心配無い」と言うが、心配であるから聞いている相手に徒「心配無い」と答えて澄ました顔をしているのは論点先取の虚偽の典型である。
因にこれは、彼の常套手段であり、自信過剰と強引さの現われであろう。
又「恣意的な運用など在り得ない」との強弁は、二つの意味で「有為転変は世の常」と言う事に敢えて目を瞑っている。
先ず自身が去って、恣意的運用をする人物が取って代わると言う変化が、「在り得ない」と考えられる蓋然性は、それこそ「在り得ない」。
次に自身がそのような人物になってしまうという変化も在り得る。
例えば泥棒には多くの場合「泥棒に成る」と言う事が在り得る。
寧ろ生来の泥棒こそ、在り得ないと言って良かろう。
多くの場合思い掛け無い或時に、何かの切掛を得て泥棒紛いの事をしてしまい、何かの理由で繰り返している内に、
当人も気付かぬ儘真正の泥棒と成ってしまうのであろう。
そして一旦そうなってしまったからには、幾ら心配しても引き返せないから、
早い内から過剰と言われる位に、心配しなければならないのである。

子は親の鏡

2017-06-10 15:49:18 | 日記
此の辺りの子は、歩く時に左を通り、自転車では右を走る事が多い。
見るたびに苦々しく、常々理由を考えている。
今朝いつものように自転車歩行者専用道を走っていると、三流サーファーの車が来る。テクニックではなく人格が三流だというのである。
進入禁止の札だらけの道に車で乗り入れるような事をしなければ、テクニックは三流でも、一流サーファーという事にして置いて遣るのであるが。
三流釣師も入って来る。幾らか増しな方は、流石に低速で、人と擦れ違う時には更に落とす。万一接触でもしたら自身にとって大変な事に成ると知り乍ら遣っている、軽薄の極みである。
ここで当たり屋をすれば荒稼ぎ出来よう等と、ふと思う。
頭を下げて行くのもいる。悪いと解って居るなら入って来るな、と思う。そういう連中にも腹が立つのに、全く普通に走って行く者さえいる。頭が沸騰する。
土曜日であり、今日の三流の一人は、横に子供を乗せている。冒頭の理由が解った。
此の辺りの親は、法規もマナーも踏みにじる為に在ると、子供に教えて居たのである。
そう云えば、子供達を車に乗せて交番の前を、電話しながら笑顔で通り過ぎるような光景も、有り触れている。
尤も私も速度違反はするので、人の事は言えない。私淑するソクラテスにあの世で会わせる顔がない。
矢張り凡人に法規を守らせる為には、厳しい罰則を以てするに限る。速度違反でも懲役、禁錮という事に成れば、私等は犯さない。詰まり総体としては減る事に成る。
併しそれでは息が詰まる。間を取って罰金を十倍、二十倍にするが良かろう。苦しい国庫も潤う。