独白

全くの独白

猛禽の宿命

2017-02-21 14:56:17 | 日記
朝、いつものように海辺の林間のプロムナードを走っていた。前方に鷲(?)が居る。この辺りでも猛禽は良く見るが、悠然と飛んでいたり、路辺のハンドレールなどに止まっているばかりで、路上に下りてじっとして居るのは初めて見た。猶も近付くと飛び立ったので、怪我をしている訳でも無いらしい。
軈て綿毛の様な物が散らかっているのが見えた。血痕等は見当たらないが、何か食って居たのであろう。肉片も無い、しっかり咥えて行ったらしい。羽の形はして居ない、獣の様でもない、短く丸まっていて淡いグレーである。
はっとして厭な心持がした。雛では無かろうか、そう思うと一瞬あの鷲が憎く思われたが、吾人にしても犢や子羊を嬉々として食べているのである。就中鶏卵などは草でも毟るように無造作に親から取り上げて毎日のように食べている、生で食べる人も多かろう。
極め付きは踊り食いで、生きた蝦の足を毟り殻を剥がして、口中で動けば活きが良いと言って喜んでいる。而も猛禽にとっての小動物は、パンダの笹やコアラのユーカリの様なもので、猛禽はそういう物を食うように出来ており否でも応でもそれに縋る以外に生きる術が無いのに比して、吾人は他に幾らも食べられる物があるのに、偏に貪欲に依って選んでいるに過ぎず、あの鷲を憎む資格等有りはしないので在る。

植物と動物(関係と選択の⑩、結び)

2017-02-14 14:59:01 | 日記
人間は動物、動く物の一種である。植物から発展する過程でその属性を手に入れた為に、大きな自由と共に大きな被拘束性をも帯びる事に成ってしまった。
動物としての動きの中には、内部の臓器などの自律的であるだけに不随意なものや、成長等といったこれも不随意で、極めて緩慢なものがあるが、それらは植物にも属している動きであり動物固有の属性ではない。
動物固有の属性である動きとここで云うのは、外部から吾人が明らかに視認できるような身体のそれと、視認できない内面的精神的なそれである。動物は四六時中動いて居り休む事ができない。四肢を動かして居ない時も内面は働かせている。睡眠中でさえレム睡眠とノンレム睡眠とを問わず夢は見るらしいし、身体をさえ動かして居る。
動く際には方向が決まって居なければ成らない。闇雲に動く事も在るが、予めそう決めて初めて闇雲に動いている訳である。
詰まり動く前にはその方向が選択されている。その為には環境や自身の内外の様々な事物の関係性、詰まり関係の有無や妥当性を考慮し見極めなければならない。即ち凡ゆる局面で人間に関わる「関係」は、動物たる人間と不可分の「動き」の基たるものであり、人間の敏感で在らざるを得ない事物と云えよう。従って「全く無関係なもの同士に実は関係がある」という事態の、人間にとって刺戟的であるのも当然である。
人間以外の動物に於いて同様の事があるか否かは今のところ断定のしようも無く、私が観察し推測する限りでは無さそうである。又人間に於いては時に不適当な関係を選択して敢えて不利な方角を選ぶ事もある。レミング等でも、増え過ぎると自ら按配しようと集団自死すると以前は考えられていたが、人間的視点に立ち過ぎた事に依る誤解であったらしい。これらの点で矢張り人間以外の動物はいまだ植物と人間との間にあり、それが進歩であるとすれば今のところ人間に一日の長があると言えよう。(完)

片付かぬ問題(トランプ大統領の入国禁止策)

2017-02-09 14:53:43 | 日記
トランプ大統領の入国禁止策が世界を騒がせている。
私も良いと思わないが、米国民の半分近くが支持するからにはそれなりの理由があろう。とも思われるが同時に戦時中のナチズムに似た集団的ヒステリーの匂いもする。この二つと相俟って半数近くという数字は、ネオナチと言う少数派が戦時中のほとんど総てのドイツ国民を席捲したナチズムの勢いに近付きつつある様な不快な事態を連想させて、私のようの者でも無関心では居られない。そこで一人問答をしてみた。

晋二首相「あれは不味いんじゃないの?建国の精神に鑑みても。君自身近い先祖はドイツからの移民だって言うじゃない?」
トラ大統領「歌の文句にも『昔は昔、今は今』って言うのがあるでしょう。何でも際限無く遡ってデンデン(『うんぬん』の誤読)されたくは無いよ。そういう事をし出したら君の所も困ったことに成るんじゃないの?尖閣に竹島に慰安婦、最近では盗まれた仏像問題もあるでしょう。時代に合わなくなった法は変えて当然じゃない?君だってそれで憲法を変えようとしてるんじゃないの?第一キャパってものがあるでしょ、物理的にこれ以上は受け容れられないんだってば。」
晋「でも、うちと違って君の所はだだっ広いんだからさ、何とかならない?」
ト「物理的といっても地勢だけじゃないよ、国土と社会との間にそれほど直截な関係は無いさ、人の住める場所は限られてる、働ける場所もね、言ってみれば社会的物理性の問題もあるといった処かな。第一君に言われたくは無いね。うちじゃ君の所より遙かに多くの他国民を受け容れてるんだからさ。」
晋「でもうちはヨーロッパやアフリカから離れ過ぎてるし。」
ト「うちだって同じだろう、大西洋に隔てられてるじゃないか。人手不足で困ってるって聞いてるよ。難民だけでも積極的に受け容れて介護職とかに就くように誘導すれば一石二鳥じゃ無いのかい。積極的に世界に関わって来たしその姿勢は今後も変わる事は無い云々って近頃はよく言ってる様でもあるしさ。」

最期に言及された策は悪くないと思う。但し気は進まない。近頃外国人特有の凶悪事件が増えているように思うからでも在る。併し思えば日本人にも凶悪な者は幾らも居るし、IS裸足の事を已めてからまだ七十余年が過ぎたに過ぎないのである。外国人を非難する資格など無い。
と言う訳で誰が幾ら考えても結論は出ない。
指導者たるもの最後には、後世に評価を待つ覚悟を定めて、一か八かで断行するしか手は無い。
漱石も「道草」で健三に言わせている。「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」

人間も自身の属性に拘束されている(関係と選択の⑧)

2017-02-07 15:11:37 | 日記
無論人間も例外ではない。
黄金の色は高性能の顕微鏡の様な物で見ると、赤みが勝っており肉眼の下の黄金色とは違うそうである。黄金のそのような色を嘗ての人間は知らなかった事に成るが、将来、より性能の良い顕微鏡が出来た時どのように見えるかを現代の吾人が知ることも又無い。
「宇宙」には幾つかの意味がある。その中で通常何気無く言及される時の「宇宙」は、百五十億年弱前に誕生したと今では考えられて居り、今のところは考えられている「宇宙」である。ではその「宇宙」はどのような場で誕生したのであろうか?誕生して現に見えているからには「果て」が在ると思うのが自然であるが、その「果て」の外はどのように成っているのであろうか?結構妥当な名に、「宇宙」の意味の一つでもある「万物を包容する空間」があるが、これは単なる「名」でしかない上に異なる範疇の用語である。通常の「宇宙」を対象とする「天文学」等では「名」さえ無かろう。有るのかも知れないが衆知の外である。敢えて名付けるなら「宇宙の外に在って吾人の全く知らないところ」とでもするしか無い。
そして名に現われた様に、そこに就いての何かをさえ知っている者は現代の吾人の中には一人も在るまい。
事程然様に、どのような形ででも認識と言うような事をし得ない事物に就いて人間は、名を称して言及する事すら出来はしない。
地上の主を自認するかの如き吾人にして猶、何処まで行っても畢竟は、自身の掌で右往左往しているに過ぎないと言ってよかろう。(続く)

限定(関係と選択の⑦)

2017-02-05 15:38:50 | 日記
而してトンボと人間とは互いに交代できないように、例えば日本人と白人とが互いに交代する事も出来ない。
物心付いた頃日本人に於いては基本的な日本語での会話ができるように成っている様に、例えば英国人は英語で会話できるように成っている。そして各国人にとっての自国語は、針で皮膚を刺した時の「痛い」と言う感覚のように、まるで生まれつき持っているかの如き自然で不可分のものであると言って良かろう。吾人が英語の勉強の際「何故彼等はわざわざあんな複雑な舌の動かし方をするのかな、とても真似出来ないじゃないか」等と思うように外国人の日本語は何十年日本に住んで居ても例え日本人と結婚していようとも、又碩学ドナルド・キーン氏にして尚、完璧なものではない。
骨格の所為もあろう、日本人の顔がどちらかというと前後から挟んだ感じであるに対して、白人のそれは横から踏ん付けた感じに出来ている。
併し白人同士なら全く同じという訳でもなく、例えば英語のネイティヴスピーカーの中でも米国人の発する声音は独特で、特に真似し難い。骨格ばかりが原因でもなさそうである。詰まり英国人と米国人の交代も又不可能と考えるべきであろう。
言葉に限らず音楽等でも、ラジオから流れる曲の感じが「どこと無く日本風だな」と思っていると終わってから「武満徹の~でした」等と言う事は良くある。ラジオではモーツァルトが良く流れるのでラジオの好きな私等の耳には馴染んで居り、生まれて初めて聞く曲でも彼のものであると感じてそう推定すると殆ど当たる。好んで聴くシベリウス等もそうである。そして例えばシベリウスを好んで聞くのはシベリウス独自の味わいを好むが故であるが、もしその総ての曲に彼らしさが感じられるとすれば魅力的ではあっても、その事は同時に彼の限界を現前させている事にもなる訳である。
要するに言葉や音楽に限らず総ての事物は、各の属性のうち低劣なものは勿論、優れた属性に依ってさえ限定されて居るものであると言って良かろう。(続く)