人は死んだらどうなるか。
この作品の中で、死者たちはどこともしれない街にたどり着いていました。
終わりの街の終わり
著者:ケヴィン・ブロックマイヤー
訳者:金子ゆき子
発行:ランダムハウス講談社
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そのあと、死者たちは死んだときの年齢のまま、何年、何十年と暮らし、やがて、その街からもいなくなるのです。
そういった、自分たちの状況を説明するために仮説を立てる死者たち。
人に本当の死がやってくるのは、生きている人々に忘れ去られたときだと言うではないか。
ここは、それまでの間を過ごす街、記憶に支えられた街なのだろう、たぶん。
生者の世界の誰かが覚えていてくれるかぎり、人類が生き延びている限り、この世界には誰かが残り、続いていくのだろうと、漠然とながら信じられていたこの街に、やがて変化が訪れます。
この作品『第七階層からの眺め』の著者の長編です。
終末を描いた作品だというのに、なんだかするすると読めてしまいました。
ほんとうに終わってしまうという寂寥感と静けさに満ちていたネヴィル・シュートの『渚にて』などの作品と違って、死者たちが生前から連続している意識のままで過ごす猶予期間は、無為といえば無為、優雅といえば優雅な、第2の人生の様相を呈しているからかもしれません。
今までどおりの生活をしていても、死んだときの年齢から変化せず、心臓はもう動いていないのだから、これまでの意味での「死」もない街。
生きていた時に夢見ていたことを叶えたりすることもできれば、死に別れた家族もやがてはこの街にやってきて、再会できたりもします。
生前は会うこともなかった人と新たに関係を結ぶこともある。
そんななかには、絶対に忘れられることのない存在、生まれてさほど経たぬうちに命をなくしてしまった赤ん坊が、街のなかのだれかが抱き上げられ、愛されつづけたこともあったかもしれません。
死者の世界である街の風景は過ぎるほどに日常的で、並行して描かれる生者の世界の極限状態(南極でたったひとり!)と比べると、死者たちの世界のほうがずっと身近に感じられます。
終わりが来ることは漠然と知っているけれど実感できないまま、不安だけが確かなものとしてあるなかで、昨日と同じように今日を過ごす世界。
定まった世界が、知られた約束事に沿って動いているだけなら、どれだけ安心でしょう。
やってくるはずの明日、変化の予感は不安の種でもあります。
現実も、人の寿命に比しての猶予期間の長さから忘れたように生きていけますが、太陽にも、地球にも寿命があり、やがて終わりは訪れるのです。
「人類の」とした場合には、長い時間の先には、SFっぽい可能性がいろいろあると考えるのかもしれませんが。
作品の最後、生きる者の世界で南極にたったひとりのローラは、きらきらと転がっていくものを追いかけて、氷原を渡っていきます。
最後のひとりの生者として、終わりの街を支えたローラが渡っていく先は?
それは、死者たちが街に渡ってきたときの様子にも似て、また作品の始まりにつながるようでもあります。
終わっては始まる世界。
それとも、ひとつが終わると、また新たな世界がひとつが始まる?
そんなことを考えていると、さて、ここはいくつめの世界?という気分になります。
もしかしたら、どこかの終わりから渡って、この世界に来たら、赤ん坊から成長しなおしで、しかも、前とは違う道筋になるきまり、とか。
覚えていなければ、前があるかどうかなんてわかりませんものね。
[読了:2012-04-19]
参加しています。地味に…。
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