ゆっくりと世界が沈む水辺で

きしの字間漫遊記。読んでも読んでも、まだ読みたい。

本を読むことの醍醐味か。 辻原 登【枯葉の中の青い炎】

2008-06-21 | 新潮社
 
現実と虚構。常識と非常識。過去と現在。
どの境界をも軽々と自在に行き来する、今どこにいるのかを見失ってしまいそうな物語ばかりだ。
途中、用心しなければと思うが、見失うその一瞬は文章の中に入ってしまっている。
ある意味、それは本を読むことの醍醐味かと思う。

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 枯葉の中の青い炎
 著者:辻原 登
 発行:新潮社
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『ちょっと歪んだわたしのブローチ』、『水いらず』、『日付のある物語』。
『ザーサイの甕』、『野球王』、『枯葉の中の青い炎』の6篇が収められた短編集。
1冊の本の印象としては、とても静かだ。
騒がしさを感じない物語であり、文章である。
その印象とは裏腹に、描かれるのは変わった物語。

ひとつめの『ちょっと歪んだわたしのブローチ』は、連れ立って歩く、結婚して10年ほどの夫婦の姿から始まる。
もうすぐ家に着くというその道の途中で、夫は妻に確認をするのだ。
何を、か。
自分が明日から若い愛人と同棲をするために、1ヶ月の間、家を空けることを承知しているかどうかを、である。
「いったい何だ、こいつは。」と思う。
浮気というのは隠れ気味にしてこそではないのか?
これがフツウなのか?
夫の若い愛人は1ヶ月後には結婚をするために帰郷する。その前にとねだられたという夫の申し出を、妻は受けいれて、明日から送り出そうというのだ。
「いったい何だ、こいつは。」が、「いったい何だ、こいつらは。」に変わる。(最近、私の感想はミもフタもないと自分でも思う。)
結末はある程度予想がつく。
ハッピーエンドとはさすがに考えにくい。
それでも飽きずに読まされてしまうのは、物語が入れ子になっているからだ。
夫は愛人への寝物語に絵の中に入り込んでしまう男の話をする。
その男はそのまま夫である。
小さな家の居間から絵の中の館への移行は、妻のいる生活から愛人との生活への移行。
夫の物語は絵の中に行った男の物語の歪んだ変奏となる。
絵の中から男を呼び戻した女の声は、妻の薄気味悪い行動にすり替わり、いつの間にか、歪みはさらに大きくなる。
登場人物に違和感があるもの道理だ。
現実であったはずの小説の中での現実にはすでに別の世界が混じりこんでいるようで、入れ子の器の真ん中を読んでいるような気分。
この物語のさらに外側があるとしたらどのようなものだろうかと、つい考えてしまう。

6つの短編は失速することなく、最後のページまで続く。
一見まともかと思われた男は匂いに欲情する男だったという『水入らず』。
銀行強盗がひそかに観察される『日付のある物語』、蛙のような金魚の長い旅の話の『ザーサイの甕』。
『野球王』と『枯葉の中の青い炎』は、一見つながりのないようなことから記憶の中の物語が紡がれ、語られる。
波乱万丈というようなものではないはずなのに、とても起伏に富んだ物語を読んだように感じるのは、現実的なようでいて実は非現実的な登場人物の語りに、私が右往左往させられていたからかもしれない。
それでいて、思いかえせばどたばたした印象ではないのだから、不思議な1冊だ。





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