ゆっくりと世界が沈む水辺で

きしの字間漫遊記。読んでも読んでも、まだ読みたい。

『アンドリューNDR114』をDVDで観ました。

2008-08-18 | 観るものにまつわる日々のあれこれ
 
映画館では観た覚えがありません。
観る!絶対観る!と意気込んでいたはずなのに。
で、結局数年後にTVで観たのだったと思います。
今回はI先輩にお借りしたDVDで。
人間と触れ合うことで本来の機能を超えた個性を持ち始め、人間として認められることを願い、それにむかって自分を作り変えていくアンドロイドの物語。
原作はアシモフと思っていたら、アイザック・アシモフとロバート・シルヴァーバーグでした。
共著というわけではなく、最初にアシモフが短編として発表し、それをシルヴァーバーグが長編にしたのだそうです。
両方とも未読。

clickでAmazonへ。
 アンドリューNDR114
 発売元:ソニー・ピクチャーズエンタテイメント
 Amazonで詳細をみる


観るたびに泣いてしまいます。
お約束のように。

アンドリューの「人格」と才能を最初に認めたマーティン家の主リチャードが、それでも、自由な存在であることを求めるアンドリューをあたたかくは送り出してやれないところなどは何度観ても切ない場面です。
他の誰が変わっても、アンドリューだけは変わらずにそばにいて仕えてくれると信じていたリチャードにとって、アンドリューが自由を求めることは裏切りとしか思えない。
そして、そう思うことは、誰よりもアンドリューを認めていると自認していた自分自身が、結局「ただのロボットではないロボット」としてのアンドリューを認めていたにすぎなかったからだと気がついてしまう。
彼の苛立ちと失望は、リトル・ミスのアンドリューへの共感よりもずっと理解しやすいものです。
自由な存在としてのアンドリューを受け入れるまでにその後16年かかることも。
アンドリュー自身が、世紀を超えるほどの長い時間、世間に認められることにこだわり続け、ありのままの自分を受け入れられなかったことを考えれば、16年は短いのかもしれないとも思います。

最後の泣きどころは、ポーシャの延命装置のスイッチが切られるところ。
通常、人間とアンドロイドの恋といえば、老いていく人間の恋人を、まったく姿の変わらぬままのアンドロイドがこれまた変わらぬ愛情で愛し続けて、その死をみとるというものですが、この作品では逆転。
潔くアンドリューを受け入れ、愛したリトル・ミスの孫ポーシャが、彼の死を看取ります。
アンドリューのビジネス・パートナーであり、彼の改造を請け負ったルパートと、アンドリューを夫として選んだ彼女だけが、本当の意味でアンドリューの存在を受け入れた人間。
アンドリューがアンドロイドであるという側面に目をつぶることなく、それをも(それこそが)アンドリューをかたちづくるものであることを知っていて、何もそこまで人間として認められることにこだわらなくてもいいじゃないのと思っていただろうポーシャはいいのです。
愛する存在と共に逝こうというのですから、大ハッピーエンド。
ついに「人間」と認められたことを知らずに逝ったアンドリューの死も、アンドロイドでも人間でもない、アンドリューとして逝ったのだと思えば、ある意味良いことのようにも思えます。

ツボはガラテアです。
「これは命令よ。」とポーシャに言われて、延命装置を切るガラテア。
命令という言葉をあえて使うことがポーシャの優しさであり、その願いが切なるものであることまで理解しうるようにまでなっているガラテアが泣きのツボ。
この先、彼女はどうなっていくのだろうと気になって仕方ありません。
幸せになってほしいなぁ。ガラテア。





映画ブログポータルへ
にほんブログ村 映画ブログへ


 
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« お昼の風景。 | トップ | 王道…なのに…。 田中啓文【... »

コメントを投稿

観るものにまつわる日々のあれこれ」カテゴリの最新記事