社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

杉森滉一「R.A.フィッシャーの統計的推論」高崎禎夫・長屋政勝編著『統計的方法の生成と展開(経済学と数理統計学Ⅰ)』産業統計研究社,1982年3月

2016-10-17 20:01:13 | 4-3.統計学史(英米派)
杉森滉一「R.A.フィッシャーの統計的推論」高崎禎夫・長屋政勝編著『統計的方法の生成と展開(経済学と数理統計学Ⅰ)』産業統計研究社,1982年3月

 本稿は,以下の8節で構成されている。「1.標本分布論」「2.推定量をえらぶ基準」「3.最尤法」「4.確信区間推定」「5.有意性検定」「6.統計的推論の特色」「7.確率と帰納法」「8.フィッシャー理論の位置」。付録に「フィッシャー理論の周辺」があり,「点推定」と「区間推定」の解説がついている。

要約者であるわたしの関心は,「8.フィッシャー理論の位置」に重点がある。この節にいたる各節では,フィッシャーがどのように標本分布論を確立したのか,推定・検定の際の統計量の基準をいかに設定したのか,最尤法の契機は何か,確信区間推定とはどのようなものか,などが分析されている。「フィッシャー理論の周辺」では,フィッシャーとピアソンの科学論次元での関係,フィッシャーの優生学への傾倒,優位性検定の流行の背景について解説されている。

 内容に入る。重点を,上記のように,「8.フィッシャー理論の位置」におき,キーセンテンスをセレクトして要約していきたい。最初に本稿の課題が限定されている。それによると,課題は数理統計学の科学的認識方法としての特質を把握する作業の一環として,近代的な統計的推論の創始者であるR.A.フィッシャーの理論の性格とその理論の歴史的位置づけの解明である。それは学史としてのフィッシャーの研究ではなく,その所説を発生史的に考察して,必要な部分だけ取り上げる。
フィッシャーの学説は記述統計学から推測統計学への大きな変革を担った統計学者として知られるが,筆者によると統計学はフィッシャー以前も以後も,手続き的には推測,認識論的には記述を行っている点で変りはないと言う。彼を境に記述統計学が推測統計学に転化したとする通説は誤解である,と断定している。彼の学説の歴史的意義は,推測という記述の手段を精密化し,体系化したことである。

 上記の通説は,その内容として,フィッシャーが(1)標本分布論を精密化したこと,(2)標本と母集団とを概念的に区別し,後者から前者を求める方法として統計的方法を体系化したこと,(3)記述を目的とする観察の論理から,仮説の検証を目的とする実験の論理に向かったこと,(4)現象の記述から,その分析と本質の把握に進んだこと,をあげる。

 以下にみるように,フィッシャーの業績は,従来の標本分布論に正確化と一般化を行ったこと,そして統計量の分布を正確にもとめるというその後の研究の方向を示したことである。しかし,それはそれとして上記の4点は,果たして妥当な指摘なのだろうか。 (2)の指摘は,フィッシャー以前に,母集団・標本を問う概念がなかったか,あっても混同されていたかのような印象を与えるが,その認識は誤りで,エッジワースやピアソンの推論は,母集団・標本図式の上に成立していた。もっともフィッシャー以前には大標本が前提とされていたので,その意味では標本と母数を区別する必要性が弱かったと言える。大標本という前提のゆえに,標本・母集団という図式は潜在化していた。フィッシャーは標本分布論の正確化と一般化により,小標本の場合の推理を可能にし,大標本の場合の推理も正確化をはかった。フィッシャー理論の意義は,統計的推論の緻密化にある。

 フィッシャーの統計的推論の意義は,従来の漠然としていた統計的推論の原理を明らかにし,それを推定量選択の諸基準や最尤法として示したことである。フィッシャーは最尤法の考え方を強調したが,獲得された最尤推定量がその分布からみて適切であることを証明し,この方法を正当化した。この意味でフィッシャーの推定論の意義は,正確な分布論にもとづいて推定法を比較する一般理論の構築である。このことは区間推定論また検定論にも言える。さらにフィッシャーは尤度的な考え方や確率概念を再解釈することによって,それまでのいくつかの推理法の論理構成を明確にし,それらを帰納推理として統一的に展開した。その直接的手続きとしては,統計的推論の論議を統計量の正確な分布の議論に帰着させ,方法論としては統計的推論を帰納法的に理解する立場から統一した。

 帰納法的理解そのものは,イギリスの統計学や論理学の世界に伝統的である。フィッシャーはそれを継承しただけでなく,特殊な方向に先鋭化させた。フィッシャーが主張したことは統計的推論を,帰納推理の一部分(一形態)ととらえ,帰納推理それ自体の具体的精密化であるとしたことである。

 またフィッシャーの確率論解釈は,一方では確率をある標識の相対出現度数の極限値とみなす頻度説にたちながら(客観的確率解釈),他方で推定と検定の場合の確率では合理的確信の尺度とみなした(主観的確率解釈)。筆者によれば,フィッシャーは推定の場面では前者が後者に転化すると考えていたのではないか,と推測している。看過できないのは,この理解が行きすぎて,統計的推論が主観的な判断の不確実性をめぐるものとして,その後展開されるようになってしまったことである。

 フィッシャーを境に統計学が記述的なものから推測的なものへと変わったという評価に,筆者は一言している。記述統計学は標本・母集団を前提せず,データを単なる変数の度数関数と見做しその特性量を表す尺度を工夫する。推測統計学はこの図式を前提とし,データを標本とみなし,その分布の特性量から母集団の特性値をもとめる。このような理解にたてば,フィッシャー理論が記述統計学から推測統計学への移行の契機となったとは言えない。フィッシャーは彼以前の記述統計学にあった推測という契機(モーメント法,確率誤差による誤差の評価,仮説性検定など)を継承し,その発展をはかったにすぎない。むしろこの側面でのピアソンからフィッシャーへの継承は,推測統計学の中での発展とみるべきである。
記述統計学と推測統計学の上記の相違は,対象とする集団の性質の違いによる。記述統計学は母集団でも標本でもない,単なる事例としての集団を表すデータを対象とする。推測統計学の扱うデータは,標本である。2つの統計学はそれらの対象の違いによるものである。そうである限り,一方が他方に転化するという考え方はもともと成り立たない。両者は並存的関係にある。

 くわえて重要なことは,推測の結果は記述であるという点である。すなわちデータが非常に大きな標本あるいは母集団自体を表しているときに記述的方法によって与えられるものが,データが比較的小さな標本であるときには推測的方法で与えられる。記述的方法で与えられるものは,当該データの表わす集団の要約的記述である。それゆえに推測的方法が果たす役割は,記述である。データに特殊な限定がある場合には,その記述のために推測という手続きがさらに必要になる。フィッシャーが行ったことは,統計学を記述的なものから推測的なそれに移行させたのではなく,記述の範囲で推測の方法をより一般化し,精緻化したことである。

 推測の結果が記述に他ならないことは,母集団が標本の有限または無限の単なる集まりにすぎないことからも明らかである。認識論の次元で言えば,母集団についての言明は,標本についてのそれを超えない。母集団はもともと確率現象(特殊な集団現象)であり,標本の集まり全体でひとつの事実と考えられるべきもので,標本はこの事実の一部である。母集団と標本との関係は一般と個別ではなく,全体と部分である。推測的方法で部分から全体が復元されれば,一般がではなく,一つの個別が得られる。一つの個別を得ることは,その記述の遂行に他ならない。

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