社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

杉森滉一「現代経済学と数学的方法」是永純弘編『現代経済学の方法と特質(講座・現代経済学批判Ⅰ)』日本評論社,1975年

2016-10-18 11:23:08 | 12-1.社会科学方法論(経済学と方法)
杉森滉一「現代経済学と数学的方法」是永純弘編『現代経済学の方法と特質(講座・現代経済学批判Ⅰ)』日本評論社,1975年

 現代経済学では,数学利用が支配的である。それも単に理論を補助する手段として数学が利用されているのではなく,方法として使われる。この論文は現代経済学における数学的方法のもつ意味をさぐることであるが,現代経済学が数学利用を正当化する論拠の主要なものをとりあげ,それに即して構造と問題点を明らかにするという手続きをとっている。正当化の根拠として,経済現象は量的であるがゆえに経済現象の科学的研究である経済学は数学的でなければならないとする見解(「数量的,ゆえに数学的」説),経済理論は経済諸量間の相互依存関係を研究するべきであり,これらは関数関係でもっとも精密に表現されるので経済学は関数を通して数学化せざるをえないとする見解(関数関係説),経済理論の論理構造を厳密化すればそれは数学で示されているものと同じになる,ゆえに経済学は厳密な科学たろうとすれば数学的にならざるをえないとする見解(公理主義的利用論),数学利用の根拠を,数学が理論を厳密に進めうることに求める見解(「数学=論理」説)である。筆者は本論でこれらを一つひとつ丁寧に分析していく。

 「数量的,ゆえに数学的」説ではパレートの文言がまず引用されているが,枚挙にいとまない。古くは数学=数量の科学とする見解もあったが,それほど素朴な考え方は今はなく,量的な現象(主観の働く余地のない確固たるもの)の究明に不可欠なのが数学というのがこの考え方である。この考え方の背景には,質的側面の軽視,経済現象全体を力学(古典的な静力学)の均衡体系に擬する発想,経験(感覚的経験)を究極的なものとみなし,経験の背後にあって経験を起こさせるもの(客観的な存在,物質)の存在を認めないとする哲学がある。

 経済現象の多くが数量的側面をもつのは,確かである。しかし,ここからただちに経済学が数学化すべきとする帰結はありえない。経済現象の数量的側面はその質的側面との連関によりなりたち,質的側面に規定されている。これに対し,数学が扱う量は,質に無関与である。数学的方法はこの意味で,質的規定を前提とし,それに従属する副次的方法と位置づけられなければならない。このこととの関連で,筆者は経済学における数学的方法の実際の形態として,質的なものが数学的方法を限定するという場合があることを示している。その例として,筆者は連関分析における「サイモン=ホーキンスの条件」をあげている。しかしこの場合,質的限定性といってもそれが意味しているのは「生産される財の数量が負でない」といった程度の物理的(技術的)意味のものでしかない。

 「関数関係説」はどうだろうか。例としてパレート,シュンペーターの文言が引用されている。経済現象に相互依存関係があるから数学の利用が不可避であるとパレートは引用された文章のなかで言っている。ここで言われている相互依存関係は量的依存関係である(質的依存関係もあるはずであるが,パレートはそれには言及していない)。また,相互依存関係をかれらが強調する場合,そこには予定されているのは均衡概念である。相互依存関係と均衡とは別の次元の概念であるが,それが一体のものと混同されている。この説は「数量的,ゆえに数学的」説のように素朴ではないが,しかし発想として,後者は前者の延長線上にある。後者は一般均衡論と部分均衡論,微視的と巨視的,静学と動学といったように精緻化がはかられ,多様な展開をとっているように見えるものの,経済諸数量を関数関係で表現し,これに均衡条件を入れて各変数の水準と動きを分析するという方法は変わることなく,保持されている。古典力学だけでは満足できず,エントロピー法則を導入し,従来の一義規定性の代わりに確率的決定性をおく考え方が登場したが,そこで古典力学の代わりに推奨されているのは熱力学であり,依然として力学的類推で経済現象を解こうとしている点で変わらない。この説を基盤に経済学を構想するものは,当然,経験主義の立場にたち,因果関係の存在を否定する。要するに,彼らの思想は経験を存在の反映とみず,それを究極視する経験主義に立脚する。科学の形態としては,経験の分析ではなく,経験の記述を設定し,したがって因果関係ではなく関数関係を設定する方法論である。関連して,筆者は数学的な意味での関数関係,また因果関係と関数関係について,細かく説明を行っている。

 次にとりあげているのが,公理主義的利用論である。この説は,経済理論の論理構造は,数学で示されているそれと同じであるというところにポイントがある。経済学が過去から解明してきたものは,理論の核心を取り出すこと,それが数学,あるいは数学上の定理によって実現されるというわけである。この数学利用論は,メンガー,モルゲンシュテルンによって唱えられた。公理主義的見解によれば,数学体系自体は記号間の形式であり,ある関係を仮定すればある結果が得られることにすぎない。この体系は現実の関係とは無縁であるが,それが具体的現実と対応づけられればその現実の説明が可能である。ある具体的現実とある公理系が対応していれば前者を後者でおきかえ,前者の内容構成を公理系で厳密に提示できる。構造的同型性がその前提にある。公理系は要素間のさまざまな関係を呈示したもので,現実の諸事物はそこから具体性を捨象すれば公理系であらわされるものと同一の構造になる。この見解によれば,厳密な理論化を行うためには,対象を既存の公理系と対応させることで数学化しなければならないことになる。筆者は以上のことを確認して,公理主義的利用論の詳細な批判的分析を行い(そのプラトン主義的性格,プラグマ主義的性格),公理的方法の意義(科学一般の方法の一形態としての有効性)と限界(ゲーデルの不完全性定理による証明)を検討している。著者は次のように結論付けている,「・・・経済学が公理的方法を最上の方法として信奉するというようなことは,自らの対象そのものに忠実たるべき科学としての行き方に背反するとともに,対象をより深く把握することによって方法をも豊富化するという機会を自ら放棄するもの」にならざるを得ない,と(p.141)。

 最後に「数学=論理」説の批判的検討である。ごく一般的には,この主張は事実内容とそれを組み合わせていく推理とを相互に独立させうるものとして峻別し,数学を後者のみに関わらせる。数学は事実内容に言及しないで,それについて妥当な推理を行うための規則体系であり,そのようなものとして経済理論を科学的にするための道具である。ここでは数学は論理であり,数学の利用は論理の利用である。これを実際に行ったのは,数学基礎論における論理実証主義である。筆者はここから論理主義の解説を始める(公理主義との相違を意識しながら)。論理主義は論理的分析の徹底化を図り,原理的に数学を論理学に還元する。論理主義における数学の導出は,記号論理学の,とくに述語論理から,命題関数の形をとって自然数とその算法を定義することによって行われる。この基礎としての述語論理は,トートロジーによって成立している。
論理主義的見解では,数学は経験的内容にかかわらない限りで成立し機能するという意味での「形式」,そのような形式としての論理である。公理主義でも数学は記号間の形式的関係であるが,この場合の形式性は抽象性と同義で無内容ということではない。これに対し,論理主義では数学はまったくの無内容性において,内容に対する言語的表現形式として規定されている。論理主義にもとづく数学利用論は,論理実証主義によって展開された。論理実証主義は,最初から経験主義を標榜し,それと矛盾しないように論理学や数学を取り入れる。経験は表現にもたらされた次元での表現,すなわち言語(言語的経験)としてとらえられている。

 数学が科学の発展を牽引した時代があった。ガリレオ,ラプラス,コンドルセなどにも数学主義の片鱗が見出される。しかし,それには理由があり,この当時は数学の発達に比し,自然科学はその後塵を拝していた。未発達だった自然科学の諸分野が,すでに科学の体裁を整えていた数学を範とし,諸科学の進歩が数学化をもって代弁された。しかし,現在では事情は異なる。自然科学,社会科学は実質的な発展をとげ,その成果の蓄積は豊かである。このことによって科学の対象となる物質は,多様な形態,重層的な構造をもつにいたった。数学的法則ないし必然性は,合法則性一般ではなく,その一形態にすぎない。このような時に,数学を絶対視し,信奉することは,科学の発展とは逆行する。筆者は次のようなまとめを与えている,「かつての数学主義は多少とも唯物論的性格をもっていた。つまり,それは,客観的対象の客観的合法則性を追求して数学にいたったのであり,したがってわれわれはそこから,客観的対象に忠実たらんとする態度を学ぶべきであるのに,現代の数学主義は・・・数学という結果的形態のみを学び,数学をまず前提してそれで対象を処理するという倒錯をおかしている。この倒錯を正当化しようとする結果,現代の数学主義派は,かつてのそれとは反対に数学の対象反映性を否定する諸々の観念論哲学におちこんでいるのである」と。(p.161)

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