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社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

濱砂敬郎「統計環境の地域分析(第2章)」『統計調査環境の実証的研究』産業統計研究社,1990年

2016-10-06 11:12:07 | 3.統計調査論
濱砂敬郎「統計環境の地域分析(第2章)」『統計調査環境の実証的研究』産業統計研究社,1990年(『研究所報』[法政大学日本統計研究所]第4号,1979年3月;『経済学研究』[九州大学]第46巻第1・2号,1981年)

 統計環境の悪化という事態の詳細を研究する目的で,九州大学経済学部統計学研究室は
1978年に「統計環境にかんする実態調査」を行った。この調査は,資本主義の発展が都市と農村との矛盾を顕在化させたことを反映し,都市化の波こそが統計調査に対する非協力を進行させたという認識の下に設計された。したがって,調査にあたって,地域類型が考慮され,調査対象地点に大都市団地(町田市山崎団地),地方都市(北九州市八幡地区と福岡市全域),農山村(熊本県矢部町と鹿児島県知覧町),遠隔地離島(長崎県五島富江町)が選抜された。本稿はその調査結果である。構成は以下のとおり。
1.統計環境の悪化傾向
2.統計環境の比較分析:大都市:町田と遠隔離島:富江
3.統計環境の比較分析:都市福岡と農村矢部
4.小括

最初に大都市(町田)と遠隔離島(富江)との対比で統計調査環境の悪化状況を観察している。筆者は町田と富江との対比の結論を,次のようにまとめている。

1.調査協力意識は富江では血縁・地縁共同体の要因が残存し,住民のなかにはプライバシー意識の薄い層,申告義務を共同体規制として意識する層が少なからず存在する。統計調査員の選択志向も公的権威主義や共同体意識によるところがかなりある。町田はプライバシー意識の滲透が飽和状態にあり,私的市民意識が調査における非協力心理となって表出し,調査拒否意識が頭をもたげている。

2.政治と統計の関連でみると,富江では両者の関連性が「わからない」とする不明層が少なくない。町田では統計の政治的役割を意識する層がある。

3.住民の統計心象に関して,富江では無連想回答の比率が高いが,町田では政府統計および統計調査とは無縁な計数思考型(「統計という言葉を聞いたとき」に「計算・数学」「図・表」のように数量的データを合理的に処理する方法とみなす考え方)の比重が大きい。

4.富江では統計調査が従来,統計調査員と被調査者の日常的な地縁・血縁関係を足掛かりとして実施されてきたが,町田では共同体意識は不毛化しているので,統計調査のなり手の確保が不安定である。統計調査に対する住民の関心は否定的批判的である。

 もう少し詳しく,筆者の説明を聞いてみよう。
調査拒否の3つの要因(「個人の秘密を知られたくないから」「調査の結果が悪用されるから」「めんどうくさいから」)では,回答比率がほとんどの属性別階層で傾斜的地点差を示す。調査拒否のこれらの要因は,住民の意識に表出している。とくに町田では若年齢,高学歴および長期居住の各層で「個人の秘密」をあげる割合が大きい。富江では調査環境問題はそれほど表面化していない。しかし,環境の悪化傾向が進行していることは,「個人の秘密」について回答比率の年齢差および学歴差が町田より大きいことから知ることができる。

統計と政治の関連性では,属性別階層について一様な規則性はみられないものの,4つの質問(「世論調査の結果は総理の政治的態度に影響しない」「物価統計の結果は物価に影響しない」「統計は政府の都合ためのみに作成される」「政治は統計がなくてもやっていける」)についての回答比率を分析すると,富江の高年齢,低学歴および長期居住層から,町田の若年齢および高学歴へ,統計と政治の関連性ついての住民の心象が,「無理解」→「統計が国民のために政治に生かされていない」→「国民不在の一般の政治にとって,統計が必要である」と,重層的に変容する対応関係がある。

 住民の統計意識では,離島住民の統計心象は鮮明でない。調査申告の義務意識は希薄でないが,前近代的日常意識に規定されたもので統計教育にもとづく統計精神に裏打ちされたものではない。社会経済的条件が変化するなかで,若年齢層の統計心象は「計数型」に傾斜しつつあり,申告意識は希薄化し,調査拒否意識が芽生えつつある。町田市においては,住民の統計心象は国の統計調査を軽視する「計数思考型」である。プライバシー意識や政治不信に刺激され,統計調査に対する住民の関心は,拒否意識の顕在化にみられるように,批判的否定的方向に向かっている。

 統計調査におけるプライバシーの具体的中身は,住民の経済的地位,政治的利害および社会的感情に深く関係する。富江では,回答比率の順はプライバシー保持の高い項目から「収入額」→「支持政党」→「初婚か再婚か」→「年齢」→「学歴」→「職歴」→「勤め先の名前」である。町田では「収入額」→「支持政党」→「学歴」→「初婚か再婚か」→「勤め先の名前」=「年齢」→「職歴」の順で微妙に異なる。

 統計調査における守秘義務にいたっては,それが守られていないと考えている住民は非常に多い。この感覚は戦前から根強くあったが,戦後の統計法の施行のもとでも和らぐことがない感情である。統計公務員の守秘義務行為に対する不信感が強いことは,調査全体にかかわる重大な問題である。

 筆者は次に統計調査における調査員と被調査者との関係にメスを入れている。分析のために住民サイドからみた調査員の類型を「公的権威型(市町村役場の人)」「地縁型(町内会・自治会の世話人)」「近隣型(近所の主婦)」「未知型(学生・アルバイト)」に分類している。分析の結果,確認できたことは富江と町田の両地域での統計調査は旧来の共同体的意識や公的権威主義のもとで,いわば前近代的社会土壌のなかで行われていた。とくに富江の状況は,それが色濃い。しかし,社会経済の発展とともに,このような関係は消滅の方向に向かう。富江にそれが萌芽的に,町田ではそれが際立った様相で露呈している。

次に都市(福岡)と農山村(矢部)の統計調査環境を対比している。上記の調査では福岡と富江という対立的差異性をもつ地域が選択されたが,福岡と矢部は地域特性(統計環境変容の中間地帯)の連続性が配慮されて選ばれた。町田と富江との分析結果と重なる部分もあるが,それと異なる部分もある。筆者はそれらを「調査拒否の要因」「政治と統計の関連性」「住民の統計心象」「調査項目に対する懸念」「被調査者の調査員に対する姿勢」について詳しく結果説明を示している。福岡と矢部の分析結果は,統計環境の悪化が連続的に変容する社会的現象であること,またプライバシー意識が徐々に高まる傾向にあることが観察される,としている。

 筆者は最後に,分析全体を次のように総括している。「これまでの分析から,(1)統計調査環境問題が,局部的な突発事象ではなく,全体的現象であって,歴史的必然性をもっていること,(2)現代的な統計環境は,基本的には,統計精神の育成,守秘義務の広報,および統計の政治的活用によって保全されるが,わが国においては,環境の悪化が進行するままに放置されてきたこと,(3)これまでの政府統計調査は,前近代的な社会的土壌を足場として行われてきたが,それは急速に崩壊しつつあること,および(4)統計環境の悪化が進行するなかで,政府統計にたいする住民の関心は,プライバシー問題や政治不信に触発されて,消極的批判的にではあるが高まっている」と(p.61)。

政府はこのような事態に直面して手を拱いているわけではなく,施策を講じているが,対症療法的で,長期的根治策になっていない。現代的な統計環境は統計調査者,被調査者および統計利用者が三者三様に環境づくりに取り組まなければならない。

濱砂敬郎「統計調査の現状(第3章)」『統計調査環境の実証的研究』産業統計研究社,1990年

2016-10-06 11:10:08 | 3.統計調査論
濱砂敬郎「統計調査の現状(第3章)」『統計調査環境の実証的研究』産業統計研究社,1990年(『研究所報』[法政大学日本統計研究所]第5号,1980年3月)

 統計調査における調査拒否,非協力が顕著になってきている理由に関して,筆者の見解は,一つには被調査者のプライバシー意識の高まりがあり,もう一つには統計の社会的評価が低いことがあげられる。本稿では,こうした現状を受け,調査員の側についての実状を分析している。すなわち,調査での回収の頻度,調査参加の動機の分析である。当該の調査では,調査票回収の頻度に関して,「世帯を対象とする調査」で「配布済の調査表の回収に要した訪問回数別の世帯数」を「1回で済み」「2回」「3回以上」の選択肢が設けられ,集計された。調査地域は,従業人口にしめる第一次産業就業者比率を基準に区分された。また,調査員の属性分類で,性別および年齢別で女性および中高年齢層を「都市型調査員」とし,男性と若年齢層が「農村型調査員」としている。居住年数別では,5-9年,10-14年を「都市型調査員」,30年以上を「農村型調査員」としている。その他,「きっかけ」別で,「自発型」「たのまれ型」「職務型」,動機別で「収入A型」「収入B型」(以上,都市型),「仕方なく型」「仕方なく収入型」(以上農村型),調査経験回数別で「初めて」(農村型),「6-10回」「11-15回」「16回以上」(以上都市型)とされている。

 筆者は以上の内容での調査結果から,農村地域では調査員経験が少なく,かつ「自発性に乏しい」層が調査実査の担い手であるが,実査そのものは比較的容易に遂行されていること,都市地域では統計調査員の「資質」に恵まれたものが多いにもかかわらず,都市化の進展で調査が困難になっていると結論付けている。

 この後,「統計実査の困難状況」「『調査拒否』説得の実態」が考察される。「統計実査の困難状況」では,留守世帯の急増が実査を困難にする原因として最初にあげられている。都市での「単身世帯」「共働き世帯」の増加がその原因である。次に社会経済の変容が引きおこすプライバシー意識の浸透と政治環境の悪化が被調査者の非協力心理を強める原因として取りあげられている。これらと関連して,「夜間調査」をせざるをえない状況がある。「夜間調査」をする調査員は,農村地域のほうが都市地域よりも高い。
ところで統計調査では調査員のなり手がいないことが問題となる。統計調査員の選任難問題である。実査業務の困難にもとづく精神的肉体的疲労がその理由として取り沙汰されている。「夜間調査」を余儀なくされる,手当が少ないと言った問題である。夜間訪問の困難を選任難の大きな理由としてあげているのは,夜間訪問世帯の比率が高い「職務型」・「公務員」の「農村型調査員」よりも「自発型」・「無職・女性」の「都市型調査員」のほうである。都市地域の調査員の「選任難」の「大きな理由」は,この他に「非協力世帯」の存在がある。「非協力世帯」の存在には,種々の属性をもった統計調査員が一様に苦しんでいる。

 一般国民の間での統計意識がかなり低いことは,つとに知られている。その原因は日常の「統計思想普及」活動,さらには統計教育の在り方と関連がある。筆者は関わったこの調査でも,確かに統計調査時のPR活動の浸透度は低く,それは統計実施時の「疑問」や「苦情」となって表出し,統計調査員の精神的肉体的負担になる。事実,調査結果からわかるように,都市化が進んだ地域ほど「申告義務の存在」や「申告不安」に関する被調査世帯の「疑問」や「苦情」は増加している。都市化の進展とともに,「税金等への統計利用」に対する被調査世帯の「疑問」「苦情」は相対的に減少傾向にあるが,「自営業種」の割合が高い農村地域では税制との関連で,被調査世帯のなかに「不安」「危惧感」を表明する世帯があり,その説明から蒙る調査員の精神的負担が目立つ。

 「標本に選ばれたための申告不安」と「調査項目からくる申告不安」に関して,前者が農村地域で40%前後の調査員の,都市地域で50-70%の調査員が「しばしば質問される」と答えており,後者ではその比率が全地域で20%台と地域差がない。しかし,説明の困難を感ずる調査員の比率は,全地域で,後者の「調査項目からくる申告不安」のほうが,前者の「標本に選ばれたための申告不安」よりも高い。とくに後者は,「申告義務の存在」とならび調査員が最も説明に苦慮する事柄である。

 「申告義務の存在」は,都市化が進むほど,被調査世帯の質問頻度が急速に増大し,どの地域でも多くの(都市地域ほど)調査員が説明の困難を訴えている。要するに,申告行為としての統計実査そのものの存立基盤が問われている。都市化現象が住民の意識に反映すればするほど,被調査世帯の「苦情・疑問」は,「調査目的」や「統計目的外利用」の項目よりも「申告義務」「標本設定や調査項目」に対してより多く,強く発せられる傾向にある。
統計調査の申告に対する被調査者の不安,危惧,抵抗が強まる中,調査員はこれらにどのように対応しているのだろうか。調査結果から言えることは,農村地域では調査非協力に対しては「立場依頼型」志向が高く,調査担当区として「顔見知りが多い地域」をのぞむ調査員が過半数を超える。しかし,ここでも住民の非協力行為が増えつつある。

他方,大都市および隣接都市では,調査担当区として「顔見知りが少ない地域」をのぞむ調査員が多い。東京では,実に70%を超える。説得の方法では,「立場依頼型」(農村地域で45-47%,東京全域で25.8%),「指導員交代型」(農村地域で20-23%,東京全域で18.1%)ではなく,「申告義務強調型」(大都市で30%前後,農村地域で25-6%)の割合が大きい。

 全体として,統計環境の悪化現象は色濃い。都市地域ではプライバシー意識の浸透が顕著で,飽和状態に達している。農村地域では,この傾向を後追いしている。被調査世帯は一般に統計教育を受けていず,日常的な統計思想普及に浴していないこともあり,統計調査に非協力的であり,これを忌避し,抵抗する傾向さえあらわれている。さらに,夜間調査が増えつつあり,統計調査員の負担は増えている。

 しかし,調査員の多くは概して,仕事を継続したいと表明している。このことを勘案すると,統計実査および統計調査員をとりまく環境の現代的条件を保全する諸要件が問われているとみるべきである。それらは(1)統計調査における守秘義務の広報,(2)統計が生かされる政治環境の形成,(3)統計精神の組織的育成(統計教育)に他ならない。

木村太郎「典型調査論考」『統計学あれこれ』産業統計研究社,1998年

2016-10-06 11:07:39 | 3.統計調査論
木村太郎「典型調査論考」『統計学あれこれ』産業統計研究社,1998年(『大学院紀要』[國學院大學]第10輯,1979年)

 典型調査の意義についての論稿。構成は,以下のとおり。「(1)典型調査をめぐる諸見解」「(2)統計生産における典型設定の意義」「(3)典型調査・一部調査・有意抽出法」。

「(1)典型調査をめぐる諸見解」。典型調査の評価は,統計学の領域で定まっていない。社会統計学の分野でもそうである。社会統計学の系譜においてその評価で両極端を成すのは,マイヤーとフラスケンパーの見解である。マイヤーは典型評価を個体の観察から出発する標本詳査であるとし,このような標本を設定することが困難であり危険であるとし,この種の調査に批判的である。マイヤーにあっては,典型調査は統計調査の一形態からも峻別される。この見解に対し,フラスケンパーは一部調査をその抽出が有意な方法によって行われる場合とおさえ,有意抽出法と典型調査の間に区別がないとみる。蜷川虎三の典型調査理解は,典型調査が一部調査であるとしながらも,実質的には標本詳査である面を強調する点でマイヤー見解に近い。第二次世界大戦前の統計学では,フラスケンパーのそれを例外として,典型調査は一部調査とは異質な方法であるとするか,あるいは一部調査に属しながら有意な抽出標本調査とは区別している。

 戦後のこの関係の議論として,筆者は佐藤博,三潴信邦による見解を紹介しているが,それらはむしろフラスケンパー見解に近く,典型調査を有意抽出法の一形態ととらえる。両者は有意抽出法即典型調査とする点で共通するが,典型の規定には差がある。すなわち,佐藤は典型調査が社会科学の知識にもとづいて選択された調査対象を調査する一部調査の特定のものであるが,三潴は典型が代表的値をもった単位であるとしている。

「(2)統計生産における典型設定の意義」。筆者によれば,典型という概念は,諸種の型(類型)の存在を前提とし,この型として模範的なもの,代表的なものを指す。したがって,典型という概念は,社会現象にも自然現象にも存在する。ここで重要なのは,典型が特定の類型について模範的か代表的であるというのは,その単位が類型としてもつべき特定の諸性質あるいは代表的に備えている,という意味である。統計生産において,典型的な単位を抽出するのは抽出される単位が類型を代表する単位すなわち典型であるからであるが,この単位について観察・測定すべき具体的な対象は基本的にこの単位を典型的なものたらしめている諸属性ではなく,それ以外の特定の諸性質である。

 筆者はこのことを,家計調査におけるケースで説明している。家計調査で典型的都市労働者家計は大企業,中小企業などの類型において勤務先の業種,規模,雇用労働条件,年齢,家族数,居住地などに関して代表的家計として捉え得る。この世帯を典型的世帯たらしめるものは,これらの諸指標であるが,測定課題である家計収支そのものではない。家計収支そのものが代表的であるからその世帯が典型的なのではなく,世帯を規定するその他の属性において典型的世帯であるがゆえに,その家計収支が類型を代表するものとみなしうる。関連させて,筆者はここで典型調査が適切な典型の設定によって,社会経済的構造の総体を静態的面で反映する統計生産機能をもちうることの,さらにそれを動態的面でその典型の変動の測定をとれる機能をあわせもつことの重要性を強調している。いずれにしても典型である標本を抽出するのは(典型標本の設定),個体の詳査のためではなく,統計生産のためである(個体の単位の特定属性が類型総体としていかなる代表的大きさをもち,いかに変動するか)。

「(3)典型調査・一部調査・有意抽出法」。ここでは典型調査と他の一部調査との関連が整理されている。一部調査は,統計調査の対象である社会集団の観察を,あるいはその全数的統計調査によって獲得されるだろう諸結果(構成比率,代表値)を,社会集団の構成要素の一部を抽出することで捕捉する方法と理解されている。そのような意味で,それは大量観察の代用法として位置づけられてきた。構成比率をもとめる場合には,有為抽出法は論理的に成立しない。このため統計生産のためには,実際には,社会集団の構成要素である単位を直接抽出するのではなく,この単位が属する事業体あるいは地域を抽出し,これらに属する集団を標本とし,この部分集団の全数観察にもとづいて構成比をもとめるというのが一般的である。量的標識の代表値をもとめる場合には,このような問題は生じない。一般に一部調査としての有意抽出法とは,このようなものを言う。ここで有為な方法で抽出される単位の通常の値とみられる量的標識が統計調査の結果として得られる最頻値階層の範囲内に属するものであれば,これらの平均値,最頻値をもって,代表値とみなしうる。しかし,この方法の困難性は特定の量的標識に関する通常の値をいかに確定し得るかである。このような有為抽出法が典型調査と同一視されることであるが,この同一視は,これは誤りである。

有意抽出法は本来,全数的統計調査によって得られるだろう量的標識の代表値を,有意な方法によって抽出された集団の一部(標本抽出集団)の調査で,獲得することが目的である。これに対し,典型調査は全数的調査によって得られるべき代表値を課題とするのではなく,類的代表性をもった個体すなわち典型がどのような量的標識をもつかが問題とされる。ここで得られた諸結果が全数的統計調査として得られるべき諸結果と一致するか否かは,第二義的問題にすぎない。

 一部調査は無作為,有為のいずれかの抽出方法をとるにしても標本集団の抽出方法であり,その限りで大量観察代用法である。これに対し,典型調査は同じ意味で大量観察代用法とは言えない。このことの強調は,典型調査の独自性を明確にするというだけでなく,大量観察法ではなし得ない社会科学的認識を典型調査によって獲得できることを示す意味でも重要である。(蜷川は一部調査,標本詳査[典型調査],推計,アンケートを一括して大量観察代用法としている。)

木村太郎「統計=統計調査結果説批判」『統計学あれこれ』産業統計研究社,1998年

2016-10-06 11:04:13 | 3.統計調査論
木村太郎「統計=統計調査結果説批判」『統計学あれこれ』産業統計研究社,1998年(「統計・統計調査・社会集団-統計=統計調査結果説批判再論-」『國學院経済学』第27巻3・4号,1979年)

 筆者は本稿で,統計=統計調査結果,統計=社会集団とする見解を批判的に論じている。構成は次のとおりである。「1.統計学と統計首座説」「2.統計を見る者の立場からの統計規定」「3.標識和の統計と社会集団」「4.収穫高統計と統計調査法」「5.表式調査と統計調査法」。

「1.統計学と統計首座説」。統計学という学問を,数字資料である統計に関する学問と考えることは自明である。しかし,現実には英米数理統計学もドイツ社会統計学もそうでなく,前者ではその出発点を統計方法とし,後者はそれを統計調査法とした。統計学を統計に関する知識を与える学問とし,そのために統計という数字資料から出発して統計学を構想したのは蜷川虎三である。統計を初めて統計学の首座の位置においた統計学者の名は,他ならぬは蜷川に与えられる。その蜷川は統計学を,統計を作成する側の立場からではなく,それを使う側の立場から構築するべきと考えた。しかし,蜷川にあっては本来的には,統計の規定はそれを使う側の立場からなすべきであったが,実際には統計=統計調査結果,統計=社会集団の規定にとどまった。

「2.統計を見る者の立場からの統計規定」。筆者の統計の定義は,「統計とは社会経済の特定局面を,地域総体として具体的には総量的かまたは代表的に反映する数字資料である」というものである。ここに込められているのは,統計が反映する社会経済過程には集団的存在や現象もあれば,そうでないものもあるということである(記録,計量値,推計値)。諸結果が統計であるのは,それが社会集団の総体としての大きさや代表的な性質を語るからである。しかし,従来の社会統計学では,統計は社会集団を対象とする数字資料に限定される。したがって,その作成のされ方が吟味される場合の基礎は,社会集団を対象とする統計調査法におかれる以外にないことになる。社会経済の数量的認識手段である統計を,統計調査の結果である数字資料に限定し,その対象を社会集団に限局してはならない。そのような限定は統計調査によらない統計に対する評価を誤らせ,社会集団の数量的観察法としての統計調査の独自的意義を曖昧にし,それを超歴史的統計生産法とすることで,過去の統計の生産法である表式調査の評価を鈍らせることになる。

「3.標識和の統計と社会集団」。「標識和の統計」とは,工場統計調査を例にとると,社会集団である全国の工場のうちの一つひとつの統計単位である工場の量的標識である工場従業者数,年間工場出荷額,期末在庫高などを全工場について合算した量として作成される統計を指す。この種の「標識和の統計」はその数が多く,経済統計の領域で目につく統計の大部分がこの統計であると言っても過言でない。「標識和の統計」にとって重要なのは,その作成の基礎となった社会集団すなわち統計調査の対象である社会集団であり,上記の例では従業員数,出荷額などの標識の担い手である工場の集団である。この「標識和の統計」がどのような工場集団の標識和として作成されるのかがまず問題とされなければならず,またそれは一定の制約をもつものである,統計利用に際して重要なのは,むしろそのことの認識である。

「4.収穫高統計と統計調査法」。日本の作物統計すなわち農産物の収穫高統計は,他計主義的外見調査によって作成されてきた。今日では,調査員による見積方式から精密な実測標本調査方式に切り替えられているが,外見調査法であることには変わりない。この種の外見調査法は基本的に測量によるので,社会集団が前提とされているわけではない。日本だけでなく,欧米諸国でもほとんどの国の収穫高統計は,他計主義的推計に依存して発展してきている。なぜ,そうなっているのかと言うと,この統計に対して要求される社会的課題が,特定作物についての毎年の需要状況の迅速な把握にあるからである。ここで必要なのは,何よりも当該農業生産物の現物としての生産総量の推計である。生産総量の推計は,単位面積当たりの平均収量×作付面積あるいは総収穫面積によってもとめられる。このうち単位面積当たりの平均収量は,目測あるいは実測による多計主義的推計にもとづく。他方,作付面積あるいは総収穫面積は,他計主義的に測量を基礎に推計される。収穫高統計は,その観察課題に応えるために他計主義的計測によって作成され,また任意抽出標本調査の適用の場になっているが,その固有の対象は単位面積当たり収量という測定値,その平均値を獲得するためのものである。この種の他計主義的方法によって作成される統計は,事柄の性質上,そこに何らかの社会科学的認識をもとめると,その内容たるや平板な統計であるが,それにも関わらず実際の食糧需給の把握には重要な統計であることは疑いない。

「5.表式調査と統計調査法」。表式調査とは,調査者である政府機関が統計表様式の表を地方行政機関に委託し,その末端から記入を行って積み上げて集計する方法である。その本質は,地域を単位とする属地主義と末端調査員の見積記入に基礎をおく他計主義である。表式調査によって得られた統計は,いわゆる統計調査によって得られたそれに比べると見劣りがするし,不完全である。しかし,日本農業の分野で長くこの統計作成方法が採用されたのは,それが封建的な生産構造に規定されていたからである。この段階では対象が独立自営の農家からなる社会集団となりえないことによって,近代的な統計調査法による調査をなしえなかったのである。統計=統計調査結果説による統計の規定は,このような表式調査の結果である統計の歴史的性格を無視したものである。

 筆者は自身で本稿の要約をしている。第一に,統計学は社会経済の数量的認識手段である統計についての知識を与える学問でなければならず,そうであるかぎりその端緒は統計の特質を明らかにすることとすべきである。この統計を首座におく統計学の構想は,蜷川虎三統計学の骨格をなす。蜷川は統計学の体系を,それを見る側から構築しようと試みたが,実際には首座においた統計については統計を作る者のための統計学とするドイツ社会統計学による規定を踏襲した。結局,統計=統計調査結果,統計=社会集団という規定の枠内にとどまった。第二に,筆者は統計を見る者の立場から,その社会経済の数量的認識手段としての認識課題との関係で考えるべきとし,統計=社会経済総体説をとった。この説に対しては批判があり,批判の内容はこの説では社会経済の構造的認識の側面を欠落させているというものである。統計=統計調査結果,統計=社会集団という統計規定に立脚した批判である。第三に,この規定の最大の問題は,統計対象を全て社会集団とすることから,観察対象から無関係な社会集団をもちだし,統計調査の対象である社会集団の特質を見失ってしまうことである(統計調査と標識和の問題)。第四に,この規定では統計は統計調査結果でなければならないので,測量あるいは推計によって獲得された統計もその観点からのみ評価し,それらに固有の問題をとらえきれないことである。第五に,統計=統計調査結果という統計規定は,近代社会において成立した統計調査法をもって超歴史的統計生産方法とする。だが,歴史的統計の一生産形態である表式統計を検討すると,統計調査法は一定の歴史的基礎の上にのみ成立し得るのである。

 筆者は統計調査の対象が社会集団であることは疑いなく,統計調査の結果が統計であることも認め得るが,そこからどうして結果たる統計そのものが社会集団でなければならないのか,その論理が不明と述べている。統計調査の対象である社会集団の観察を通じて得られた統計でも,統計そのものは調査対象である社会集団それ自体である場合もあれば,そうでない場合もある。統計が集団であるか否かは,統計調査の対象が社会集団であることとは,別個に説明されるべき問題である,というのが筆者の結論である。


木村和範「任意抽出標本理論をめぐる若干の問題について」『統計学』第33号,1977年9月

2016-10-06 11:01:00 | 3.統計調査論
木村和範「任意抽出標本理論をめぐる若干の問題について」『統計学』第33号,1977年9月(『統計的推論とその応用』梓出版社,1992年,所収)

筆者の立場は,任意抽出標本調査論にもとづく統計調査が唯一科学的調査であるとは言えないという考え方である。その理解にたって,本稿では標本調査法の正しい評価と位置づけを確立する意図をもち(野澤正徳),このテーマに取り組んでいる。

 全体は次の2節に分かれている。「Ⅰ.統計調査論としての任意抽出標本理論」「Ⅱ.統計利用論としての任意抽出標本理論」。

 「Ⅰ.統計調査論としての任意抽出標本理論」。任意抽出標本調査は,その実施形態に2とおりある。(i)全数調査を伴わない場合と(ii)全数調査を伴う場合である。筆者はこれらを分けて考察している。前者の場合とは,任意抽出標本調査が行える社会的基盤がない場合である。途上国では,しばしばそのような事態に直面している。筆者はS.S.ザルコビッチ(国連食糧農業機構)の見解を示し,このような場合が少なくないことを紹介している。

後者の場合を筆者は,総理府統計局(当時)の見解,再びザルコビッチの見解を挙げている。総理府統計局によると,全数調査を伴う場合の任意抽出標本調査の目的は第一に「基本的事項」に関する統計の早期利用であり,第二に「基本集計結果の補充」である。

確率計算の前提は,測定値が確率変数であることである。確率変数が社会調査の場面でも成立するとする代表的考え方は,津村善郎によって定式化された。津村見解によれば,無作為抽出という操作によって抽出単位の数量的側面が確率を付与され,確率変数に転化する。その結果,確率変数に関する算法の体系が適用可能になる。この見解によれば,個々の確率は特定単位が抽出される可能性の度量である。確率を1回限りの抽出において特定単位が抽出されるかいなかの可能性の度量と解釈することで,その確率の集合と発現可能な集合との対応が保証される。

 筆者はこの見解に対し,1回の抽出で特定単位が抽出されるかどうかは偶然性に委ねられ,その可能性は確率で秤量できない。なぜなら確率とは相対頻度の極限値(ミーゼス)だからである。1回の抽出において頻度は成立しない。もし1回の抽出の可能性の度量として確率を規定するとなると,その確率は実体的基礎から遊離しているので,あらゆる統計調査が任意抽出標本調査になってしまう。結局,任意抽出標本理論が統計調査過程でなしていることは,調査対象の無作為的指定だけである。換言すれば,無作為抽出による部分調査が強制されるのは,統計調査のいわゆる理論的過程がない場合である(この点で,自然科学における無作為化[=確率化]とは異なる)。抽出された部分が全体を縮図的に再現するとの保証があるから無作為抽出をするのではなく,そのような理論がないがゆえにそうするのである。もっとも調査結果は,調査した限りでの事前の確認という意義がある。次のよりよい調査における調査単位指定のために,理論的規定を受けることまでは否定されない。

任意抽出標本理論では,上記の難点を回避するために,しばしば層別抽出が行われる。層別化の目的は,推定値の精度の向上である。しかし,この精度は標本誤差にのみ関わる概念であり,厳密に言えば抽出の無作為性による確率の導入という考え方の否定である。このような層別化はグループ分けとは異なる。グループ分けの目的は,異質な社会集団から構成される社会の構造を,その実態に即して把握する手だてである。これに対し,層別化では最終的に各層(特定標識をもつ単位の副次的標識である量的それの大小にもとづく)が合併されるので,得られる統計は社会構造の把握という点で,きわめて平板なものである。

 筆者は次に「Ⅱ.統計利用論としての任意抽出標本理論」で任意抽出標本理論における推計値の利用の指針となる数学的条件(標本統計の利用基準)の考察を行っている。議論は具体的になされ,1970年国勢調査の抽出結果(「職業・従業上の地位別・15歳以上就業者数」)が使われている。論点は標本誤差率,抽出推計結果の近似性である。

 標本誤差率は,それだけで推計値の近似の程度を示す尺度ではなく,確率付きでそれがなされるところにポイントがあるとされる。このような区間推定は,フィッシャー流の方法によるものある。フィッシャーは「信頼区間」「確信確率」の概念を用いたこの方法を,「確信確率による論法」と名付けた。

 筆者によれば,「確信確率」を標本統計(抽出集計結果を含む)の利用基準とすることはできない。「確信確率による論法」による命題の真偽に関しては,否定も肯定もできないからである。標本統計を利用するときには,それを確率付きではなく,近似値そのものとして利用すべきで,このような利用の方向が原則である。

 それでは抽出集計結果の近似性の基準は何によって与えられるのか。筆者は札幌市の完全失業者(1970年国勢調査)の「1%抽出集計」と「20%抽出集計」の「誤差(抽出集計結果-全数集計結果)」と「誤差率(誤差の絶対値÷全数集計結果)」を示している。この資料を使いながら筆者は,「誤差率」と「標本誤差率」とは全く異なる概念であること,抽出集計の近似性の尺度となりうるのは「誤差率」であることを指摘している。

 筆者によれば,完全失業数の抽出集計結果(1%抽出集計,20%抽出集計)の誤差率を独自に計算し,近似性の検討を進めた結果,近似性を高める手段は第一に抽出率を高めること,第二に推算すべき部分大量の大いさが大であること,である。その根拠を知るには抽出方法と推算式の検討が必要になるが,例を示してこの両者が抽出推計の近似性に影響を与えることが確認されている。近似性を第一義的に決定するのは,抽出方法(調査方法)である。とくに推算値の正確さを高めるには,抽出される標本の大いさが決定的役割を果たす。他方,部分大量の大いさが大となるにつれ,近似度が高まることも,標本の大きさの増加から説明できる。系統抽出法も推算値の近似性に関わりをもつ。しかし,それだけで近似度を高めることはできない。系統抽出法を採用するにしても標本の大いさが大でなければ近似度が高まらない。この方式を維持して完全失業者の数を推算するには,抽出率20%(調査票にしておよそ550万枚)という膨大な標本をとらなければならない。ということは,標本理論の有用性に疑問を抱かせるに充分である。

 筆者は最後に本稿のまとめ(結論)を,次のように与えている。
(1)任意抽出標本理論を統計調査論としてみると,それは調査対象を無作為に抽出する方法であるということにとどまる。抽出の無作為性は,抽出単位の量的規定性を確率変数に転化しえないと考えられる。したがって,その応用は調査単位指定のための理論的規定をもたない場合だけに限るべきである。
(2)任意抽出標本理論は統計利用の過程で,数学的条件が利用基準を与えると教える。しかし,その数学的条件の実体的基礎には疑問がある。標本統計を含む一切の統計利用の基準は社会科学の理論によって与えられる。