吉田忠「統計調査論ノート-統計調査・標本調査・実態調査-」『經濟論集』(関西大學經濟學會)第26巻第4・5合併号(高木秀玄博士還暦記念特輯),1977年1月(『数理統計の方法-批判的検討』農林統計協会, 1981年)
筆者は本稿でとりあげる3つの問題を最初に提示している。第一はいわゆる大屋理論(「統計調査=上部構造説」)とそれに対する社会科学方法論からの批判,第二は標本調査をめぐって示された木下滋の見解(標本統計資料の批判的利用の基準を明らかにするべきとする見解)と是永純弘の見解(社会認識のための統計利用の全体のうちに標本調査を位置づける見解)との対比,第三は非統計的事実資料とりわけ実態調査資料と統計調査・統計資料との関連付けの問題である。最初の問題にかかわる論争整理のなかから得られた分析視角で,第二,第三の問題点に対する論点整理を行おうというのが筆者の意図である。
「統計調査過程の歴史的規定性とその主体的契機」に関する節は,「いわゆる『統計調査=上部構造説』をめぐる論点について」と「統計調査論の対象規定における主体的契機について」に分節している。前段の「いわゆる『統計調査=上部構造説』をめぐる論点について」では大屋祐雪が自らの所説を,「統計,統計調査統計利用を,社会的に特殊な役割と形態をもった一種の歴史的,社会的現象としてとらえる立場」とした問題提起について,社会科学方法論説の立場から,この見解が「統計調査=上部構造説」であり,統計科学を歴史学の一分野に還元しかねないものであり,これでは統計調査を社会認識方法のなかに位置づけることができなくなる,統計の信頼性,正確性の吟味という課題がとりあげられなくなる,数理形式主義の横行を是認することになる,批判する。それにもかかわらず,大屋理論が社会統計学研究者のなかで影響力をもったのは,自らの理論を体系的に「統計学=上部構造説」として展開したこと,また社会科学方法論説が実証分析の分野で方法論そのものとして積極的成果をあげえなかった,社会的条件の急速な悪化のなかで統計批判を具体的に展開し,その方向性を示す指針がでなかったからである。大屋自身は上記の対立について,これが統計調査を社会認識のための一契機としてとらえるか,社会的事実をとらえる社会的過程とみるかの,統計研究社の「視座」の相違と理解した。しかし,筆者は,是永と同様に,この問題を視座の相違としてとらえるべきでなく,統計調査論に於いて主体的契機をどう把握するかの問題であるとした。
後段の「統計調査論の対象規定における主体的契機について」では,統計調査論におけるこの主体的契機に論点を移して議論がなされている。大屋理論では,主体的契機は「指導的統計家の統計的労働過程,すなわち調査計画」としてとらえられている。大屋理論の批判者においても,統計調査論における主体は統計調査の社会的歴史的過程の外部にもとめている。そこでは,批判的な統計利用者の側から指導的統計家の調査企画を中心とした調査過程をわがものにする立場が,主体として前提されており,統計の理論的過程が官庁統計の指導的統計家の行っている過程と,批判的立場からのあるべき過程との対比でとらえられ,前者によって統計の信頼性がゆがめられているときには,後者の統計批判が際立つことになる。
しかし,信頼性の問題は指導的統計家の意志に規定されるだけでなく,現実の統計調査機構によっても規定される。統計調査の社会的歴史的過程を,矛盾対立する社会的主体を中心にすえて理論的に把握することは,統計批判にとっても統計利用にとっても強くもとめられるはずである。
「標本調査過程の歴史的規定性とその標本誤差」に関する節は,「社会的歴史的過程としての標本調査」と「標本誤差における確率の問題」とに分節している。前段の「社会的歴史的過程としての標本調査」では木下滋「標本調査法の諸問題」への疑問から出発している。木下はこの論文で標本統計の批判的利用の基準を明らかにするという問題提起を行っているが,これは具体的現実から切り離された標本調査の有効性を論じる姿勢であり,これではこの問題を確率の解釈に限定することになってしまう。筆者によれば,標本誤差は統計調査の正確性の問題であり,しかもその範囲におけるウェイトはきわめて小さい。統計調査で重要なのは,回答拒否を含む回収不能,調査員の回答誘導やでっちあげ,代理回答や虚偽の回答である。標本調査の正確性の問題は,その調査の社会的過程において把握することで明らかになる。そこでは,社会的存在ないし社会的過程である主体の実践が基本的内的契機の役割を果たす。
標本調査の信頼性の問題に関する考察では,ビデオリサーチ社の視聴率調査,選挙予測を含む政治意識に関する世論調査が例に取り上げられている。重要なのは調査の一連の社会的過程のなかに標本調査の信頼性の問題をみつことであり,標本調査の結果を事実資料で補充して利用することである。とくに政治意識に関する世論調査では,調査の信頼性と正確性が社会的存在としての調査機関と調査機構,それらが行う調査の社会的過程によって規定されていることをしっかり見なければならない。
後段の「標本誤差における確率の問題」では,標本調査を社会科学で利用することが可能であるか論議がマイナーな問題であることが述べられ,これを受けて標本調査論のベースにある確率的評価に関わって,その有効性に触れている。筆者の主張によれば,確率的評価の解釈に関して,客観確率を唱える立場と主観確率を主張する立場との間で対立があるが,反復事象で次回の試行に対して与える予想としての「主観確率」は一定の客観的意義を有するものの,それは「たんなる気休め」にすぎず,標本調査の「有効性」を支える根拠にならない。「確率現象」は人為的な繰り返し操作によって作り出せるもので,一回生起的な偶然事象そのものの属性としての生起可能性(その大きさ)をあらわすものではない。この議論をふまえると,標本誤差の正確性の問題は,標本調査論の枠組みだけで考えてはならず,官庁エコノミストを中心とした統計調査担当者の経験の蓄積とともに具体的に分析し,社会的歴史過程としての標本調査をその主体的契機とともに分析し,把握しなければならない。
最後の「事実資料の利用過程における統計資料と実態調査」に関する節は,非統計的資料としての実態調査(事例的ないし典型的実態調査)の問題を,統計資料を含む事実資料の社会的組織的な利用形態との関連で検討している。筆者によるここでの主張は,社会科学研究で統計資料が一定の限界をもつこと,その限界は種々の事実資料と結合させて統計資料を整理加工することで打破できること,そのことによって統計の正確性,信頼性をたかめうること,あるいは事例的典型調査を典型的なものにたかめうること,である。(他に計量経済学批判の在り方と課題,農業理論における実証的方法における事実資料の利用過程の検討,典型的実態調査の典型性の理解などが間説されているが,それぞれ傾聴に値する)
筆者は本稿でとりあげる3つの問題を最初に提示している。第一はいわゆる大屋理論(「統計調査=上部構造説」)とそれに対する社会科学方法論からの批判,第二は標本調査をめぐって示された木下滋の見解(標本統計資料の批判的利用の基準を明らかにするべきとする見解)と是永純弘の見解(社会認識のための統計利用の全体のうちに標本調査を位置づける見解)との対比,第三は非統計的事実資料とりわけ実態調査資料と統計調査・統計資料との関連付けの問題である。最初の問題にかかわる論争整理のなかから得られた分析視角で,第二,第三の問題点に対する論点整理を行おうというのが筆者の意図である。
「統計調査過程の歴史的規定性とその主体的契機」に関する節は,「いわゆる『統計調査=上部構造説』をめぐる論点について」と「統計調査論の対象規定における主体的契機について」に分節している。前段の「いわゆる『統計調査=上部構造説』をめぐる論点について」では大屋祐雪が自らの所説を,「統計,統計調査統計利用を,社会的に特殊な役割と形態をもった一種の歴史的,社会的現象としてとらえる立場」とした問題提起について,社会科学方法論説の立場から,この見解が「統計調査=上部構造説」であり,統計科学を歴史学の一分野に還元しかねないものであり,これでは統計調査を社会認識方法のなかに位置づけることができなくなる,統計の信頼性,正確性の吟味という課題がとりあげられなくなる,数理形式主義の横行を是認することになる,批判する。それにもかかわらず,大屋理論が社会統計学研究者のなかで影響力をもったのは,自らの理論を体系的に「統計学=上部構造説」として展開したこと,また社会科学方法論説が実証分析の分野で方法論そのものとして積極的成果をあげえなかった,社会的条件の急速な悪化のなかで統計批判を具体的に展開し,その方向性を示す指針がでなかったからである。大屋自身は上記の対立について,これが統計調査を社会認識のための一契機としてとらえるか,社会的事実をとらえる社会的過程とみるかの,統計研究社の「視座」の相違と理解した。しかし,筆者は,是永と同様に,この問題を視座の相違としてとらえるべきでなく,統計調査論に於いて主体的契機をどう把握するかの問題であるとした。
後段の「統計調査論の対象規定における主体的契機について」では,統計調査論におけるこの主体的契機に論点を移して議論がなされている。大屋理論では,主体的契機は「指導的統計家の統計的労働過程,すなわち調査計画」としてとらえられている。大屋理論の批判者においても,統計調査論における主体は統計調査の社会的歴史的過程の外部にもとめている。そこでは,批判的な統計利用者の側から指導的統計家の調査企画を中心とした調査過程をわがものにする立場が,主体として前提されており,統計の理論的過程が官庁統計の指導的統計家の行っている過程と,批判的立場からのあるべき過程との対比でとらえられ,前者によって統計の信頼性がゆがめられているときには,後者の統計批判が際立つことになる。
しかし,信頼性の問題は指導的統計家の意志に規定されるだけでなく,現実の統計調査機構によっても規定される。統計調査の社会的歴史的過程を,矛盾対立する社会的主体を中心にすえて理論的に把握することは,統計批判にとっても統計利用にとっても強くもとめられるはずである。
「標本調査過程の歴史的規定性とその標本誤差」に関する節は,「社会的歴史的過程としての標本調査」と「標本誤差における確率の問題」とに分節している。前段の「社会的歴史的過程としての標本調査」では木下滋「標本調査法の諸問題」への疑問から出発している。木下はこの論文で標本統計の批判的利用の基準を明らかにするという問題提起を行っているが,これは具体的現実から切り離された標本調査の有効性を論じる姿勢であり,これではこの問題を確率の解釈に限定することになってしまう。筆者によれば,標本誤差は統計調査の正確性の問題であり,しかもその範囲におけるウェイトはきわめて小さい。統計調査で重要なのは,回答拒否を含む回収不能,調査員の回答誘導やでっちあげ,代理回答や虚偽の回答である。標本調査の正確性の問題は,その調査の社会的過程において把握することで明らかになる。そこでは,社会的存在ないし社会的過程である主体の実践が基本的内的契機の役割を果たす。
標本調査の信頼性の問題に関する考察では,ビデオリサーチ社の視聴率調査,選挙予測を含む政治意識に関する世論調査が例に取り上げられている。重要なのは調査の一連の社会的過程のなかに標本調査の信頼性の問題をみつことであり,標本調査の結果を事実資料で補充して利用することである。とくに政治意識に関する世論調査では,調査の信頼性と正確性が社会的存在としての調査機関と調査機構,それらが行う調査の社会的過程によって規定されていることをしっかり見なければならない。
後段の「標本誤差における確率の問題」では,標本調査を社会科学で利用することが可能であるか論議がマイナーな問題であることが述べられ,これを受けて標本調査論のベースにある確率的評価に関わって,その有効性に触れている。筆者の主張によれば,確率的評価の解釈に関して,客観確率を唱える立場と主観確率を主張する立場との間で対立があるが,反復事象で次回の試行に対して与える予想としての「主観確率」は一定の客観的意義を有するものの,それは「たんなる気休め」にすぎず,標本調査の「有効性」を支える根拠にならない。「確率現象」は人為的な繰り返し操作によって作り出せるもので,一回生起的な偶然事象そのものの属性としての生起可能性(その大きさ)をあらわすものではない。この議論をふまえると,標本誤差の正確性の問題は,標本調査論の枠組みだけで考えてはならず,官庁エコノミストを中心とした統計調査担当者の経験の蓄積とともに具体的に分析し,社会的歴史過程としての標本調査をその主体的契機とともに分析し,把握しなければならない。
最後の「事実資料の利用過程における統計資料と実態調査」に関する節は,非統計的資料としての実態調査(事例的ないし典型的実態調査)の問題を,統計資料を含む事実資料の社会的組織的な利用形態との関連で検討している。筆者によるここでの主張は,社会科学研究で統計資料が一定の限界をもつこと,その限界は種々の事実資料と結合させて統計資料を整理加工することで打破できること,そのことによって統計の正確性,信頼性をたかめうること,あるいは事例的典型調査を典型的なものにたかめうること,である。(他に計量経済学批判の在り方と課題,農業理論における実証的方法における事実資料の利用過程の検討,典型的実態調査の典型性の理解などが間説されているが,それぞれ傾聴に値する)