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社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

森博美「現行『統計法』の特質とその課題」『統計法規と統計体系』法政大学出版局,1991年

2016-10-08 21:57:54 | 11.日本の統計・統計学
森博美「現行『統計法』の特質とその課題」『統計法規と統計体系』法政大学出版局,1991年

 標題のなかに「現行」とあるが,ここでいう現行「統計法」とは,現在の統計法(2007年[平成19年]公布)のことではなく,戦後からこの論稿が執筆された頃までに機能していた「統計法」を指す。

 この「統計法」は,昭和22年3月26日,法律第18号として公布され5月1日から施行された。当初19の条文から成っていたが,本論が書かれた40年ほどの間に多くの条文が改正された。本稿では法改正の契機,改正の内容が記され,これらを受けその特質が論じられている。

 改正の回数は第15次までに及んだ。法改正とその契機が「表」の形にまとまられている。そこでは改正が「形式的契機」によるものと,「実質的契機」のそれとに区分され,前者には「単独改正」「関連改正(「統計法規」と「他の法規」)のそれぞれにともなう改正が,後者には「組織の再編」「業務内容の変更」「法的な整備」のそれぞれにともなう改正が記されている。

 「形式的契機」による改正は,「統計法」の法律そのものとしての側面に着目した改正で,当該法規の単独改正(第7次改正,第8次改正)と他の諸法規の改正を契機とするものがある。実際,「統計法」の改正は,「国家行政組織法」「地方自治法」「地方財政法」(以上昭和22年),「教育委員会法」「統計報告調整法」(昭和27年),「学校教育法」(昭和36年)など,他の法案の成立ないし一部改正との関連で,余儀なくされたものが多い(第1次から第6次改正,第10次改正から第15次改正)。「実質的契機」は,法律変更の必要をもたらした現実過程そのものの変化による。そうした契機としては,行政組織そのものの変更,その遂行業務内容の変更あるいは組織や業務内容の法規面での整備がある。これらのなかでは,行政機構の簡素合理化にともなって行われた改正が目立つ(第11次改正から第14次改正)。

 改正の内容はどのようなものだったのだろうか。筆者は条文を法体系に位置づけて,改正の内容を整理している。「目的条項」「制度条項」「調査企画条項」「統計作成関連条項」「罰則規定」がこれである。

 「目的条項」は,法の目的を掲げた第1条に関連する。第1条には,統計の真実性の確保,統計の重複の除去,統計体系の整備そして統計制度の改善発達がうたわれ,この条文の改正は一度もなかった。このことは法の基本原理の普遍性の証であると同時に,法の目的をこのような理想として掲げたことが目的規定と他の諸規定との間に埋めつくせない溝を当初から内在させていたことを意味した。

「制度条項」に関しては,第1次改正と第4次改正では,統計委員会の権限などを規定した第6条を中心に,その後は行政機構改革を受けで実施された第12次改正,第14次改正では統計官,統計主事といった統計事務従事者の職務,配置,身分保証を規定していた第10条,11条を中心に本質的な変更がなされた。

「調査企画条項」に関しては,第1次改正で大幅な項目の再編,修正が(統計委員会の所掌事務や権限などを規定した第6条の新設,それまで統計委員会の各種権限を定めていた第9条の整理,再編),第6次改正で第8項に部分的修正(「統計報告調整法」制定にともない,その適用を受ける承認統計について「統計法」による届出義務の免除)が加えられた。

 「統計作成関連条項」に関しては,次のとおりである。第1次改正では制度条項と調査企画に関する諸規定に大幅な修正がなされ(統計作成についての諸規定はほとんど手が加えられていない),第3次改正では「教育委員会法」の改正にともなう調査実施系統の変更がなされた。第4次改正,第13次改正では若干の修正があったが,それらは統計作成に関する条文の規定内容そのもの変更ではなく,統計調整機関の移管にともなって実施された名称変更にすぎなかった。第15次改正では,「個人情報保護法」の制定にともなう改正で,統計作成に関する諸規定に大幅な内容面での修正が施された。指定統計調査に限定されていた秘密保護条項(第14条)の届出統計,承認統計への適用拡大,目的外使用禁止規定の届出統計,承認統計への適用拡大,調査実施者,地方公共団体への調査票等の調査関係資料の管理義務の規定がその主な内容である。
「罰則規定」では,その内容面での変更はなされたことがない。

筆者は以上の整理,検討をふまえて,「統計法」の特質を論じている。要約すれば,その法規の目的自体に異論はないものの,目的規定の制度化にあたっては各行政機関が保有する種々の統計権益と抵触と軋轢を生みだした。それは統計委員会を舞台に展開された,統計委員会と各行政機関との統計権益をめぐる攻防にみられた。統計委員会が第1次改正のおりにその調整権限を強化しようとした意図がつぶされたのはその一例である。他方,統計機構の整備では,部分的な前進があった。第1次改正の折に,地方公共団体で指定統計調整事務に従事する者に統計主事の名称が付与され,その資格要件とともに条文に掲げられたこと,1952年に新たな統計調整の専門法規として「統計報告調整法」が制定されたこと,承認統計を新しいカテゴリーと根拠づける法律が制定されたこと,などである。

しかし,最大の不幸は,統計委員会が行政改革の範を示すべき行政管理庁に所属していたことであった。このため「統計法」の制度条項は行政事務簡素化による組織の縮小再編のなかで制定当初の規定内容から大きく変質し,統計調整機関は同法が根拠づけていた制度面での諸権限を喪失することになった。筆者はこうした事態を招いた要因がすでに「統計法」の成立したさいにあったとみている。

 最後に筆者は,この「統計法」の課題として統計の国際的基準化ならびにそれを受けて進められてきた統計の体系化のための統計環境の整備,そして情報技術の革命的進歩に対応したプラバイバシー保護をあげ,業務統計の重要性と位置づけにも触れている。

森博美「『統計法』の法体系とその特質」『統計法規と統計体系』法政大学出版局,1991年

2016-10-08 21:56:27 | 11.日本の統計・統計学
森博美「『統計法』の法体系とその特質」『統計法規と統計体系』法政大学出版局,1991年

 2007年(平成19年),戦後すぐに公布された「統計法」(1947年[昭和22年])が全部改訂された。本稿はその旧統計法がまだ生きていた頃に書かれ,この法律の特質を戦前の統計三法(「国勢調査ニ関スル法律」「統計資料実地調査ニ関スル法律」「資源調査法」)との対比で浮き彫りにしたもの。

 最初に「統計法」が公布されるまでの経緯が書かれ,次に「統計法」を戦前の統計三法と条文比較を行って,継承された部分と新たに規定された部分とを明確にし,最後にこの「統計法」の二面性が論じられている。

 「統計法」公布までの経緯の説明では,統計制度改善に関する委員会(大内委員会)の「改善案」と統計法案要綱の立案作業のプロセスの紹介があり,要綱案の変遷が「改善案」の交替とみるか(大屋見解),現実的な選択と評価するか(森田見解)で見解が分かれているとの紹介があり,筆者はその指摘だけにとどめ,議論への深入りを避け,本題に入っている。本題は日本の統計行政の中に「統計法」を位置づけ,統計行政法規という視角から同法の特徴を明らかにすることである。

 「統計法」は附則第21条で,統計三法の廃止を規定した。筆者は「統計法」と統計三法の条文を対比すると,条文ないしその内容が継承された部分(両方に共通する条文)と,あらたに規定された部分(「統計法」に固有の条文)とがあるとして,条文ごとの比較検討を行っている。その結果明らかになったことは,「統計法」の条文のうち実査を中心とした統計の作成過程に関する諸規定,すなわち申告義務や立入調査権限さらには秘密取得と関連した調査票の目的外使用禁止や調査従事者の守秘義務はそれぞれに対応する罰則規定とともに,「統計資料実地調査ニ関スル法律」「資源調査法」の中に存在していた。このタイプの条文は,「統計法」の「統計三法」との継承関係が明瞭である。(p.64)

 それでは「統計法」に固有の条文とは何だったのだろうか。筆者が列挙しているのは,次のとおりである。それらはまず「統計法」の目的規定であり,他にも指定統計の定義,指定統計の調整に関する条文としての制度化,統計調整機能の明文化,統計作成の担い手の権限や資格要件の規定,統計の公表規定がある。以上の諸点から,筆者は「統計法」の特徴として,その適用対象が基本的に指定統計調査に限定されていること,指定統計という限定内であるが,実査を中心とした統計作成過程と関連した申告義務や立入調査権,目的外使用禁止,守秘義務といった秘密保護規定を「統計三法」から継承していること,そして「統計三法」に全く存在しなかった統計調整に関わる権限,義務,さらに統計機構に関する諸規定が,目的規定とともに条文に加えられたことをあげている。

 筆者は「統計法」をこのように特徴づけ,次にその二面性を論じている。二面性とは「統計行政の基本法規」という側面と「指定統計の根拠法規」という側面である。前者は戦前の統計三法が個別調査法規であったのに対し,その枠を超えた普遍性をもった統計基本法規という性格である。しかし,「統計法」の条文の大部分は指定統計調査に限定した形で(結果的に厳選された一部の重要統計に限定された調査),一連の統計作成過程,調査の実施組織,統計官等の調査従事者の資格並びに権限,さらには統計調整機関としての統計委員会の権限を規定していたことも事実である。筆者はこの事情を(1)調査企画,(2)調査実施,(3)公表のそれぞれの次元で,条文がどのように対応しているかを要約している。

 筆者のまとめを引用する,「このように,わが国唯一の統計基本法規として制定された「統計法」は,その適用が事実上指定統計に限定され,現実には「指定統計法」としての性格を色濃く持つものであった。同法のこのような法体系の性格から,それが統計基本法規として実質的に機能しうるためには,まず指定統計がわが国の統計体系の中でも名実とともに支配的地位を確立しうることが何よりも前提であった。それがもし一国の統計体系の単なる一分肢の地位に甘んずる場合,「統計法」は,信頼できる統計獲得の根拠法規としても,また実効ある統計調整の根拠法規としても所期の役割を果たすことが困難となる。これらは,現実の統計に対してはその無秩序状態の再現の危険性をはらむものであると同時に,統計調整行政の実行組織としての統計委員会に対してはその存在根拠そのものを脅かしかねないものである。事実,統計委員会は「統計法」の施行に引き続き,同法の枠外で新たにそれへの対応を迫られることになる。」(p.77)

森博美「川島孝彦と中央統計庁構想」『統計法規と統計体系』法政大学出版局,1991年

2016-10-08 21:54:55 | 11.日本の統計・統計学
森博美「川島孝彦と中央統計庁構想」『統計法規と統計体系』法政大学出版局,1991年

戦前の「統計三法」は体系性がなく,統計調査の調整がきかず,重複調査が氾濫し,法律としての機能も実態も欠いた。この状況を打開すべく,内閣統計局長・川島孝彦は昭和17年中央統計庁の構想を提案した。この構想は,川島による昭和15年8月付の内閣総理大臣への上申書「統計事務刷新ニ関スル意見書」がもとにあった。本論文はこの「意見書」の内容,さらに制度改革提言としての中央統計庁構想の検討である。

「意見書」は統計の重要性,現状の問題点,改革の必要性について書かれた前文と統計機構の一元化,統計機関と企画機関との関係調整,集計・製表機構の整備といった統計事務刷新上の根本的事項,これら以外の整備改善事項,他省庁や地方を含めた統計機構案,行政と統計の関連を論じた部分,そして結語の8部構成であった。背景にあった時代認識は国家総力戦の時代,列強に拮抗する時代というものであり,要所に国家の総力を傾注すること,強力な防諜体制をしかねばならないというものであった。しかし,統計組織のおかれている状況は不十分で,混乱している,統計従事者に志気の低下がみられる。それが統計の質の低下の原因になっている。統計事務の刷新整備が喫緊との課題意識は,こうした時代認識,現状認識に由来するものであった。

 「意見書」は具体的課題として(1)統計機構の一元化,(2)統計機関と企画機関の関係調整,(3)集計製表の整備をあげ,それぞれの解決策を提言している。筆者はそのなかから次の論点をとりあげ,解説している。(1)[調査企画・予算]統計体系の観点にたつ統計行政の欠如。調査票,集計表での項目の不統一,調査時期の不統一。各省庁内部での調整の不充分性。(2)[実査]多数の重複調査の存在。(3)[集計]集計機械の奪い合い,収集した統計が未集計のまま放置。(4)[統計の発表,利用]統計発表の統制の必要性と促進策。(5)[制度]調査員問題,統計職員の訓練,統計機構と行政機構との関連強化。

 上記の課題は中央統計機関の権限強化がなければ抜本的に解決にされない。そう考えた川島は一元的統計制度の確立を強く提案する。それは具体的には,(1)統計調査の統制,(2)調査結果の監査,(3)各省庁の統計需要への対応,(4)統計職員の管理。一口に言えば,「『意見書』が提唱する一元的統計統制とは,各種の強力な統制権限を有する中央統計機関を中央に据え,統制による統計の一元化を目指す機構改革に他ならな」かった。(p.16)

 「意見書」に言う制度改革が最初に具体的改革構想として提示されたのは,昭和17年7月の内閣統計局文書「行政簡素化ニ関スル件」であった。そこには,国の統計事務の中央機関として中央統計庁(仮称)の設置がもとめられていた。それによると,中央統計庁の行政機関としての位置づけは,内閣総理大臣の下に置かれ,企画院と同列の行政組織とされた。中央統計庁の任務と権限は,「意見書」におけるそれと基本的に同じであった。その後,中央統計庁管制案(「行政簡素化ニ関スル件」をさらに具体化した「行政簡素化実施ニ関スル件」に盛り込まれた案)ならびに統計職員に関する勅令案が出され,「意見書」の改善案が制度規定として具体化されていった。その延長での要請の下で準備されたのが,昭和17年統計法案であった。この「17年法案は,統計調査の統制,調査結果の発表・利用に対する統制,さらには,政府による民間保有統計の提示命令権,と統計調査の企画から作成,利用の全般にわたる中央統計庁による一元的統制を条文化したものであり,中央統計庁の行政機関としての任務や国家行政組織上の位置づけを与える管制(統計職員に関する勅令はそれを人的側面から補強)とともに中央統計庁構想の法律的,制度的根拠をなすもの」であった(p.40),と筆者はまとめている。

 こうした川島の中央統計庁構想の特徴は,どこにあったのだろうか。筆者はこの川島案を,大正9年に統計調整機関として設置された中央統計委員会が内閣総理大臣原敬からの諮問「統計整理統一ニ関スル件」への「答申」の内容と対比して,前者の特徴を浮き彫りにしている。ひとことで言えば,川島の構想した中央統計庁は,調査機関であると同時に日本の統計行政全般にわたる中央機関であり,その統制権限が調査から作成,利用にいたる全過程におよぶ統計の全面統制に他ならなかった。そのモデルは,ソ連の統計制度(ゴスプランの外局に設置された中央国民経済計算局を頂点として,共和国,州の国民経済計算局,さらには区・市・地区国民経済観察官という位階的組織形態として編成される中央主権的統計制度)であった。

「意見書」はその後,どのように扱われたのだろうか。その経緯は,第三節「『意見書』と官庁事務の再編成」に詳しい。動きとしては,1917年の夏から秋にかけて,「意見書」に端を発した一元的統計制度の実現に向けてかなりの進展をみせた。しかし,この年の11月に内閣統計局が企画院統計局として改組された頃から雲行きが怪しくなり,翌年11月に企画院そのものが廃止され,改組されるにおよび,一元化構想は座礁した。統計局は内閣統計局として再出発することを余儀なくされ,構想は振り出しに戻ることとなった。川島に内心忸怩たるものがあったことは容易に推察できる。筆者も言う,「この時の川島の胸中には,遅々として進まぬ行政事務改革への焦燥と構想実現へのかすかな期待とが同居していたものと思われる。しかしこの期待も,その半年後には空しく潰え去ることになる」と(p.51)。

森博美「わが国戦前期の統計基本法規」『統計法規と統計体系』法政大学出版局,1991年

2016-10-08 21:52:03 | 11.日本の統計・統計学
森博美「わが国戦前期の統計基本法規」『統計法規と統計体系』法政大学出版局,1991年

戦後,「統計法」(1947年3月)が公布されたことにより,これに先立つ関連の3つ法律(「国勢調査ニ関スル法律」「統計資料実地調査ニ関スル法律」「資源調査法」)が廃止された。本稿は,この3つの法律(以下,「統計三法」と略)の特徴を考察したものである。筆者の考察の内容を,以下に整理する。

「国勢調査ニ関スル法律」(明治35年 法律第49号)は,第1回国勢調査実施のために提案,制定された。条文は3つである。第一条では,国勢調査の実施周期(10年)と実施範囲(帝国版図内)が定められている。第二条は,調査の実施要綱である。第三条は,調査の実施時期の規定である。第二条に関わって,調査の範囲,方法,調査経費の国・地方の負担割合その他事項は,「命令」によるとされた。


国勢調査の実施そのものには,紆余曲折があった。1904年(明治38年)実施を目標としたものの,政府はいま一つ積極的でなく,予算の問題も絡んで,実際に実施の運びとなったのは,この法律が制定されて20年後の1920年(大正9年)であった。

 「統計資料実地調査ニ関スル法律」(大正11年 法律第52号)は,1920年(大正10年)10月に国勢院第一部に労働統計課が新設され,労働統計実地調査実施のための法律として翌年制定された。内容は5条からなる。第一条は2項構成で,第一項は政府の統計調査権限の規定,第二項は調査実施に関する関係法規の法的根拠となる基本法としての規定である。第二条は,調査により集められた個票の統計目的外使用を禁止した事項である。第三,四,五条は罰則規定で,調査従事者(守秘義務),調査対象(申告義務)および広い意味での調査の実施に関与する者が果たすべき責務の規定である。

筆者はこの法律が単に労働統計実地調査という個別調査に関する法規ではなく,政府統計全般にわたる普遍的な基本法規としての性格をもっていたのではないかと推測している。当時,政府統計調査一般の実施を規制する基本法規制定の要請があったこと,制定後の同法の運用を追跡すると,そのことを伺わせるからである。例えば,後者に関して,「統計資料実地調査ニ関スル法律」の第一条第一項は何度か改訂され,政府の調査権限の及ぶ範囲が「農業」「技術」にまで拡大された。また,1925年(大正14年)に実施された失業統計調査,1926年(大正15年)の家計調査は,この法令に準拠して実施された。

「資源調査法」(昭和4年 法律第53号)は,7つの条文から成る。第一条は2つの条項をもち,第一項では政府の調査権限が報告徴収権および申告命令権として規定され,第二項では資源調査の範囲,方法等が規定されている。第二条は「軍需工業動員法」第16条を手直しして盛り込まれた。この条文によって,調査員は実査時の立ち入り調査権および質問権限が法的に保証されることとなった。第三条は同法の適用除外を定めたもので,工業的発明や設備,特に主務大臣による指定を受けた秘密に属する事項が相当する。第四条から六条までは実査時の調査対象の申告義務の規定である。このうち第四条は申告義務者の規定である。第五,六条は調査対象の申告義務,その違反行為に対する罰則の規定である。最後の第七条は調査実施者の職責の規定である。「資源調査法」はこのように,「軍需調査令」の適用範囲を拡大し,それを法律として昇格させたものである。

 筆者はここで,「統計資料実地調査ニ関スル法律」と「資源調査法」の第一条第一項を対比し,後者では前者に含まれていた論理,「すなわち調査対象に申告義務を課す代わりに調査実施機関には統計資料の目的外使用と調査従事者の守秘義務を課すことにより調査の尽日性を確保するという視点,いいかえれば,調査対象の協力に基づく調査精度の確保という視点が完全に退き,強力な罰則規定によって補強された臨戦体制下の強権的な統計作成という要素が前面に出ている」と指摘している(p.14)。重要な指摘である。

 「統計三法」の内容と性格づけを終えて,筆者は次に1942年(昭和17年)に統計局から企画院に送付された「統計法案」の分析に入っている。この法案は,当時あった統計機構改革の一環として,一元的統計行政を目指して発案されたる。筆者はここで,発案の背景に「統計資料実地調査ニ関スル法律」が統計一元化の最大の障害になっているとの認識が関係者のなかにあり,これを克服するものとして構想されたとする。そして,統計法案の要点を5つにまとめ(統計調査の意義・内容の明確化,統計に関する唯一の根本法の制定,民間等が実施する各種調査の統制,国家全体の統計の体系化,民間統計資料の開放的利用),それらが「統計法」の条文にどのように具体化されたかを,条文ごとに検証している。すなわち条文では,統計が事物の数量的状況を闡明する目的をもって多数の人に申告を徴する調査と規定され(第一条),統計法が調査実施の基本法と定められ(第二条),地方自治体,民間に調査の認可,届出,報告が義務付けられ(第三条),統計体系の整備と有効利用が第六条,第十条に配置され,個人や法人など民間が保有する統計の提示命令権が規定された(第八条)。法案は他にも罰則規定(第十一条から第十四条)などが盛り込まれていた。筆者は検証を結んで,「17年の『統計法案』は,『統計三法』に比べ著しく統制色の強いものであることがわかる」と書いている(p.21)。

本稿を閉じるにあたって筆者は論文の全体を総括しつつ,統計調整機関として期待され,原敬首相の下に設置された1920年(大正9年)中央統計委員会の活動に言及している。実際には中央統計委員会は,当初の期待に応えられず,1940年(昭和15年)に廃止された。暗殺された原敬の遺志をついで統計改革の必要性を自覚し,その大仕事にとりかかったのは,内閣統計局長川島孝彦だった。統計法案における統計調整条項は,まさにその川島の意図によって設けられた。

薮内武司「日本における中央統計団体の軌跡-「東京統計協会」の結成とその展開-(第2章)」『経済論集』第36巻5号, 1987年2月

2016-10-08 21:50:33 | 11.日本の統計・統計学
薮内武司「日本における中央統計団体の軌跡-「東京統計協会」の結成とその展開-(第2章)」『経済論集』(関西大学)第36巻5号, 1987年2月(『日本統計発達史研究』法律文化社, 1995年)

 本稿では「表記学社」とともに, 明治期の民間の統計結社だった「製表社」の結社事情とその後の展開を論じたものである。「製表社」の創設は, 1878年12月, 杉亭二はじめ有志の参画により, 統計資料の収集編纂が目的とされた。ほぼ同じ時期に渡邊洪基, 馬屋原彰, 小野梓が同じような組織をつくろうとしていたので, 両者は協議の上, 合体し, 「統計協会」が発足した。

 統計協会は, 機関誌として「統計集誌」を発刊した。筆者はその内容を, 統計理論(新渡戸稲造のケトレー論, 高野岩三郎のクニース, マイヤーの紹介, チチックをベースにした藤本幸三郎の「統計学と社会学」に関する論説, など), 国勢調査支援, 人口論に関する論説), 経済統計に関する論説などについて細かく紹介している。
 統計協会はその後, 東京統計協会と名称を変更し, 1883年に杉亭二らの尽力で開校した共立統計学校と合併し, 後者がそれまでに行ってきた統計学の講習会の維持を企画し, 1899年6月から統計学社との協賛のかたちで, これを軌道にのせた。さらに, 統計院編「統計年鑑」の刊行, 官庁統計に必要な膨大な資料の蓄積を行った。

 しかし, これらの営為にも関わらず, 東京統計協会は第二次世界大戦の戦局が悪化するなかで機関誌「統計集誌」は終刊となり, 組織自体も解散においこまれた。本稿は, 「製表社」から出発して, 「統計協会」, さらに「東京統計協会」と名称変更しながら, 関連分野で果たした役割を評価し, 戦後の「日本統計協会」の活動の礎をつくった功績をたたえ, 稿を結んでいる。