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社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

山本正「統計学の対象と方法-戦後におけるわが国社会統計学派の研究の特質-(4章)」『数量的経済分析の基本問題』産業統計研究社, 1984年

2016-10-08 21:49:22 | 11.日本の統計・統計学
山本正「統計学の対象と方法-戦後におけるわが国社会統計学派の研究の特質-(4章)」『数量的経済分析の基本問題』産業統計研究社, 1984年

有沢広巳, 蜷川虎三によって戦前, 先鞭がつけられ, 土台が築かれ, 戦後, 強力に展開された社会統計学の成果を, サーヴェイした論文。その戦後の社会統計学派の特質を, 筆者は5点に要約している。第一は, 統計法を社会科学方法論の基礎から, 社会科学の認識方法, 手段(操作)として根底的に再検討したことである。その代表者は, 大橋隆憲, 内海庫一郎であり, その業績が後段で紹介, 検討されるが, その内容は唯物弁証法の基本規定に基づいて統計的方法の諸カテゴリーを確定することだった。第二に, 社会統計学派が直接に目標としたのは, 社会統計学の体系化をはかった蜷川統計学の批判的検討, その批判的展開だったことである。第三に, 数理統計学との対峙の姿勢である。統計学を応用数学の一種であるとし, 社会分析との接点を欠くのが数理統計学であるが, 社会統計学派はその批判的検討を自らの課題とした。第四に, 社会統計学派は, 上杉正一郎を中心として, 統計学の「階級性」「統計調査の社会性」を追及した。第五に, 社会統計学派は統計学史の研究に力を注いだ。ドイツ社会統計学派, イギリス政治算術学派の研究などがそれである。

 社会統計学派の研究成果は, 戦前の蜷川虎三によるドイツ社会統計学の批判的継承の上に積み上げられたが, 戦後では1950年代のソ連統計学論争の影響も大きかった。筆者はそのソ連統計学論争を紹介しながら, 日本の社会統計学派によるその評価について言及している。周知のように, ソ連統計学論争では, 統計学の学問的成果が厳しく問われ, 普遍科学方法論説, 実質社会科学説, 社会科学方法論説に立脚するそれぞれの論者が討論を行った。その結果, 統計学は社会経済現象と過程の量的側面を研究する実質科学である, とする説が公認され, 仔細にその定義の中身をさぐると社会統計学派と数理統計学派(普遍科学方法論説)との妥協の産物としての結論であった。筆者によれば, 日本の社会統計学者はこの論争を重視したが, その結論には懐疑的であり, 大方は統計学を社会科学方法論と考える立場にたったと言う。

 こうした事情を背景に, 筆者は次に, 蜷川統計学を継承, 発展させた内海庫一郎の統計を取り上げている。この部分は, ほとんどが紹介と引用であり, 筆者の見解は表に出ていないが, その内容は要するに, 蜷川が集団論を重視し, 「存在たる集団」と「意識的に構成された集団」(純解析的集団, 単なる解析的集団)を措定し, それぞれの方法的前提として, 大量観察法と大数観察法を提起した,ということである。内海は蜷川のこの二元論的構成を批判し, 「存在たる集団」に「集団たる存在」を対置し(さらに「個」を統計の対象そして考察), 「純解析的集団」を統計学から追放し, あわせて大数法則そのものを否定した。

 この内海理論にたいして, 大橋隆憲, 吉田忠, 木村太郎, 広田純,田中章義がそれぞれの立場から意見を述べている。大橋は「社会集団」を客観的実在と擁護し, 吉田は内海説が集団概念の全面的否定につながると警告しながらも, 経済量を統計学のなかにとりこもうとした点を評価した(蜷川の「大量」の4要素の規定が非弁証法的であるとし, この点で内海に同意)。また木村は, 内海が集団概念の絶対性を否定したこと, 社会集団の調査結果でないものも統計として認知したことを評価した。広田は社会集団説の立場に立ちつつ, 経済活動を示す数字も統計と規定した。なかでも一番, 本質をついていたのは, 大橋が, 内海統計対象論による統計対象の拡大を統計学の社会測量学=計量社会学方法論への解消につながるとみたことである。「社会集団説よりする内海統計対象論に対する批判の究極的根拠はここに存すると考えられる」(p.192)と筆者は述べているが, これに対しては, さまざまな数理主義的の傾向に反発するのが内海理論だったはず, とここでは, 内海を擁護している。この言説の直後に「我々は統計対象の性質に応じて, 大量観察が不可欠と認められる場合には, あくまでもそのかけがえのない意義と絶対的な必要性を力説しなければならない」(p.192)と締めくくっている。

伊藤陽一「日本における社会統計学の成立」田中章義・伊藤陽一・木村和範『経営統計学』北海道大学図書刊行会,1980年

2016-10-08 21:47:16 | 11.日本の統計・統計学
伊藤陽一「日本における社会統計学の成立」田中章義・伊藤陽一・木村和範『経営統計学』北海道大学図書刊行会,1980年

 日本の社会統計学,とりわけ蜷川統計学の系譜を,俯瞰した論稿。全体的見取り図が要領よく整理され,本質的な事柄が的確におさえられている。筆者の手際よさが如何なく発揮されている。

欧米から輸入された社会統計学は,日本の社会科学の土壌に根付き,独自の発展を遂げた。蜷川統計学は戦前において最も整備,体系化された社会統計学であった。その後継者による研究は個別的には目覚ましいものがあったが,学問体系化の作業としてはみるべき成果が出ていない。統計学の学問的性格に関して,蜷川の主張した方法科学説を克服しえていない。こうした事情を吟味するため,筆者は後半で蜷川理論の評価を要約し,統計学=方法科学説の批判的検討を行っている。

構成は「日本の統計学」「蜷川虎三の統計理論」「蜷川理論の評価と批判」「統計学=社会科学方法論説の検討」となっている。     

 「日本の統計学」は日本の近代統計学の発展を5期に区分し,各時期の特徴を要約している。最後に経営統計学が付論としてある。統計学の発展区分は,幕末から明治にかけての時期(第1期),産業資本確立期(第2期),金融資本確立期(第3期),第二次世界大戦(第4期),戦後(第5期)である。

当初はドイツ社会統計学の影響が非常に強かったこと。このことは,紹介されている翻訳,研究業績などから知ることができる。相対的に独立した統計学が実を結ぶようになるのは,第3期である。高野岩三郎あるいは蜷川虎三の統計学である。戦時中,社会統計学者は苦節をしいられたが,それでも大原社研が刊行した『統計学古典選集』,小島勝治による中世日本の統計思想研究(小島は中国で戦病死),大橋隆憲によるマイヤー『統計学の本質と方法』(1943年)が残された。他方,数理統計学は軍部との協力があり,「発展」を遂げた。文部省「数理統計研究所」が,陸軍兵器行政本部の肝いりで設立された(1944年)。

敗戦後の特徴は次のとおりである。①英米数理統計学の跋扈,②戦時中,逼塞を余儀なくされた社会統計学者による戦後統計制度の確立。特筆すべきは,社会統計学の優れた業績が公にされたことである。代表的なものをあげると,以下のとおりである。大橋隆憲による推計学批判,数理的方法の経済学への応用に対する山田耕之介,広田純,是永純弘の批判,上杉正一郎による政府統計批判,統計の組み替え・加工による実証分析(山田喜志夫,大橋隆憲,戸田慎太郎など),ソビエト統計学論争の紹介(有澤広巳,内海庫一郎,大橋隆憲),統計学史研究(松川七郎,有田正三,足利末男,吉田忠)。

 これらとともに,③社会統計学の体系化が,蜷川統計学批判として進められた。先鞭をつけたのは内海庫一郎である。大屋祐雪,大橋隆憲,木村太郎も関わった。④統計数字を一つの歴史的資料として編纂する作業も行われた。一橋大学経済研究所『解説日本経済統計』(岩波書店,1953年),日本統計研究所『日本経済統計集』(日本評論社,1958年),大川一司他『長期経済統計』(全14巻,東洋経済新報社,1965年~),松田芳郎『データの理論』(岩波書店,1978年)。

 「蜷川理論の評価と批判」は,次のような内容である。「(1)研究の経過」「(2)研究上の観点-統計利用者の立場」「(3)統計の<理解>」「(4)統計方法-統計調査法と統計解析法」「(5)集団論,①2つの集団の区別,②存在たる集団,③意識的に構成された集団,④純解析的集団,⑤単なる解析的集団-時系列」「(6)統計の正確性と信頼性」「(7)統計学の性格-方法科学」。この節で筆者は,蜷川虎三の略歴と研究経過の説明からはじめ,利用者の立場からの統計学を意図した蜷川統計学とその諸概念,すなわち大量,大量観察,統計調査法,統計解析法,存在たる集団と意識的に構成された集団,純解析的集団,単なる解析的集団,統計の正確性と信頼性など,要するに蜷川統計学の基本概念の解説を中心に解説している。

「蜷川理論の評価と批判」で筆者は,蜷川統計学の特徴と批判の論点をまとめている。
特徴は次のとおり。①統計利用者の観点を打ち出し,体系化したこと。②「統計の信頼性」の概念を析出し,これを統計の階級性と結び付けたこと。③統計の実体としての大量を規定し,それを基礎に統計方法,統計の理解・批判を行ったこと。④統計的集団から純解析的集団と単なる解析的集団を分離し,数理解析の適用限界と得られる統計的法則の意味の違いを示したこと。
批判点として掲げられているのは,次のとおりである。①蜷川体系で終局目的であるのは統計解析による「統計的法則」を求めることであるが,このことと科学的法則の認識との関係が不明である。②蜷川が2つの集団を規定したことの意義は大きいが,反面,これらの集団はそれぞれの統計方法(大量観察法と統計解析法)を前提として規定され,そのことが一つの欠陥になっている(二元論的構成)。③統計科学を方法科学としているため,統計の社会的規定性が体系化されず,蜷川体系自体が全体として形式的なものになっている。

最後は「統計学=社会科学方法論説の検討」である。「統計学=社会科学方法論説」を正面から批判的に論じたのは,大屋祐雪である。大屋が言わんとしたことは,統計学が社会科学であり,その他の社会科学のための方法論という性格のものではない,すなわち,統計学自体が一つの実質科学である。統計学の対象は,統計作成という社会的行為とその結果である統計であり,統計学はそれらの歴史的規定性を明らかにすべきである,というものである。

 筆者はこの見解に対し,蜷川を含めた社会科学方法論派が統計作成過程や統計の歴史的規定性を見ないと言うのは事実に反するし,蜷川体系を垂直的反映論と規定している点(大屋は自説を水平的反映論と述べている)も理解できないとしている。しかし,統計や統計作成過程を対象とし,その社会的・歴史的規定性を明らかにすべしという主張に賛意を示し,さらに統計作成過程を単なる認識過程と見ず,それ自体を歴史的・客観的に考察すべきという点に同意している。

 筆者によれば方法論説の欠陥は,現実の統計的認識過程が一般的理論的技術的側面と社会的側面との統一であるのに,このうちの一般的形式的側面の規定性を専ら問題としていること,統計的認識過程の一般的形式的規定を体系化することが中心なので,統計学を社会科学方法論や認識論に還元する傾向があること,たとえ社会的規定性がとりあげられても,その学問体系に取り込めず,単なる留意にとどまる場合が多いことをあげている(大橋隆憲,木村太郎によって蜷川統計学の難点は自覚され,その体系的克服の努力がなされているが)。さらに,方法科学としての統計学は,社会的集団それ自体をあるいは経済現象を研究できないのかという問題も指摘している。

 筆者の結論は,次のとおりである。統計的認識過程は一般的・技術的側面と社会的側面とに分けることができ,そのうちの前者の規定性を統計方法,後者の規定性を統計の社会性と名づけ,両者の統一を統計様式とする。統計学の対象は,この統計様式である。統計の利用方式は,統計資料論にとどまらず,経済現象の研究様式あるいは認識様式と一体をなすものである。この認識様式は,認識手段,認識対象によって規定され,さらに対象の認識結果が認識手段に転化する関係にあるのであるから,認識対象と認識様式の区別は相対的でしかない。

森田優三「昭和統計学揺籃期の回想」『統計遍歴私記』日本評論社,1980年

2016-10-08 21:45:28 | 11.日本の統計・統計学
森田優三「昭和統計学揺籃期の回想」『統計遍歴私記』日本評論社,1980年

この論稿は,日本統計協会『統計』昭和40年10月~同41年3月号に連載された「昭和の統計学とともに」および同誌昭和47年4月~同年11月号に連載された「私の統計遍歴」に補筆されて,この書に収録されたものである。筆者は1901年生まれ,最初の就職先だった横浜高等商業学校(現横浜国立大学)を得たのが1925年であるから,ご自身の生涯そのものが昭和の日本の統計学の発展の歴史とぴったり重なっている。本稿で,筆者は昭和の統計学会の歴史を回顧しながら,自ら歩んだ研究と学会での活動をたどっている。

 構成は以下のとおり。「近代統計学の芽生え」「日本統計学会の創立前後」「戦前期の日本統計学会」「統計学会を育てた人々」「統計学社と統計協会」「日本統計学会の再建」「私の素人役人由来記」。

 昭和に入って,筆者が統計学を学び始めた頃と現在とでは隔世の感がある。この頃は,統計学の書籍がほとんどなかったようである。筆者は東京商科大学に入った学生時代に接した本をいくつか挙げている。それはキング『統計要論』であり,エルダートン『統計学初歩』であった。後者は藤本幸太郎ゼミで報告したという。当時,大学でも統計学の講義をしていたいたのは,東京帝国大学の高野岩三郎,京都帝国大学の財部静治,東京商科大学の藤本幸太郎,私学では慶応の横山雅男,早稲田の小林新を含め十指を折るにたりないほどであった。学問上の恩師は,森数樹『一般統計論』で,この本によって近代統計学の神髄に触れることができた,と書いている。この本を契機にユール,ボーレーを読み始め,卒論は統計方法の論理に関するもので,ドイツの文献をあさった。また他に,統計学の成書として傾倒したのは,高野岩三郎『統計学研究』(大4年),財部静治『社会統計論綱』(明44年),『ケトレーの研究』(明44年),高田保馬『大数法論』(大4年)であった。この頃,数理当科学はほとなんど無く,確率論の書物としては僅かに林鶴一・刈屋他人次郎『公算論』(明41年),渡辺孫一郎『確率論』(大15年)など数えるくらいしかなかった。研究者で名前が挙げられているのは,前述の人物以外には,有澤広巳,猪間驥一,中川友長,蜷川虎三,岡崎文規,汐見三郎,福田徳三,柴田銀三郎,郡菊之助などである。大正1・2年を転機に,日本の統計学界は新しい陣容を整え,統計学を専攻する学徒が育ち,全国に散らばって行った。

筆者は次に日本統計学会の創立について語っている。上記のように,日本の統計学界は大正から昭和にかけて次第に充実してきていたが,相互の研究交流の場が限られていた。研究の成果を論じるのは,わずかに大学の紀要しかなかった。

本稿を読んでわたしが一番興味を惹かれたのは,日本統計学会の創立の経緯,創立前後の学会の構成委員,その戦前,戦中の活動の内容である。日本統計学会の創立(昭和6年)は,実は第19回国際統計学会が東京で開催されたことが関係していた。東京開催は,国際統計協会のメンバーだった柳沢保恵伯爵の尽力によるところが大きかった。この学会に,筆者の世代で招待されたのは,蜷川,岡崎,中川,郡,有澤くらいで,多くの新鋭の統計学者には門戸が閉ざされていたようだ。これを不満とした水谷一雄が声をあげて中山伊知郎,筆者らが駆け回って,研究業績の交流の場としての日本統計学会が発足した。有澤広巳,蜷川虎三,汐見三郎,藤本幸太郎,柴田銀三郎など気鋭の若手研究者が名をつらねて創立の趣意書を作成し(pp.41-2),第一回総会は京都大学の楽友会館で開催された。この時の集合写真が掲載されている。また名簿も一覧されている(会員117名)。それを見ると,ほとんどの研究者は社会科学分野で仕事をしていて,自然科学,数学の分野の人は稀であった。筆者は,当時,社会科学畑以外に統計学に関心を持つ人はきわめて少なく,自然とそうなったという。もっとも,寺田寅彦は自然科学の分野で仕事をしていて,この学会に加入した例外的存在であった。

第二回総会は東京帝国大学経済学部の主催で,神田の学士会館で開催された(昭和7年4月)。本稿には,その時のプログラムが掲載され,研究報告,公開講演の内容を知ることができる。敗戦までの学会のあらましも一覧されているが,面白いのは学会の講演会が,JOAKのラジオ放送で電波にのっていたことである。NHKは学会のために喜んで時間を割いてくれたという。

 学会の活動は,他にも統計学の用語統一のための調査活動,十周年記念事業としての記念出版(『国民所得とその分布』日本評論社,1944年;『日本統計学会創立十周年記念特集・本邦統計学先覚者略伝並遺影』1942年),統計辞典の編纂,戦時中の官立統計図書館設立の政府建議があった。このうち官立統計図書館設立の政府建議は戦時中,国力を測る基礎資料としての統計が極秘扱いであり,保存の管理体制もなく,それでは貴重な統計資料が散逸してしまう危性があったために,有志が官立統計図書館設立を建議文として起草し,ときの内閣総理大臣に陳情したというものである(実行委員:高野岩三郎,藤本幸太郎,汐見三郎,猪間驥一,森田優三)。しかし,この建議は戦争遂行に狂奔していた軍国政府には一顧だにされず,葬られた(建議文「中央統計文庫設立ニ関スル意見書」の全文は74-5頁)。戦況が思わしくなるにつれ,学会活動の維持もむじかしくなった。学会の経済的運営は,森山書店の森山譲二に頼って持ちこたえていたが,次第にそれも難しくなっていった。第13回総会(1943年)は北海道の小樽高商でかろうじて開かれ,戦時最後の総会は1944年7月仙台の東北帝国大学でもたれた。東京で開催が不可能になり,窮余の一策であった。

 戦後の日本統計学会の再建は,日本銀行の国家資力研究所を母体に生まれた日本統計研究所で仕事をしていた人たち(有澤広巳,中山伊知郎,近藤康男,森田優三など)が日本統計学会を何とかしなければ,という話になって,再建された。戦後の特徴は,数理統計学の専門家,文部省に創設された統計数理研究所に意欲的に働きかけたことである。この結果,数学畑の会員数が飛躍的に伸びた。

筆者はこの後,総理府統計局(本稿執筆当時)の外郭団体である日本統計協会の前身であった統計学社(明治9年設立)と東京統計協会(明治11年設立)の存在に触れている(統計学社と東京統計協会は,戦争末期に合併したが,事業の内容は東京統計協会のそれを継承していた)。また,筆者自身が45歳から55歳までの10年間,官庁の役人,とくに内閣統計局長を歴任した経緯を懐かしげに回顧している。

薮内武司「日本統計学史における呉文總」『経済論集』(関西大学)第28巻1/2/3/4号, 1978年9月

2016-10-08 21:43:54 | 11.日本の統計・統計学
薮内武司「日本統計学史における呉文總」『経済論集』(関西大学)第28巻1/2/3/4号, 1978年9月(『日本統計発達史研究(第3章)』法律文化社, 1995年)

 明治期, 杉亭二とともに, 日本の統計学および統計制度の礎を築いた呉文總の学問的, 行政的業績を考察した論文。1851年(嘉永4年), 江戸・青山に生まれた呉文總の統計分野での最初の仕事は, 73年の工部省電信寮訳文課での勤務だった。仕事に興味のもてぬまま勤務していたが, たまたま太政官正院製表課に勤務していた山縣三郎から声をかけられ, 呉は製表課で仕事をすることになる。ここで杉亭二課長のもとで働き統計への関心を強めた。その後, 呉文總は, 内務省衛生課, 新聞記者, 逓信局, 専門学校での統計教育, 麹町区会議員など, 職を転々とする。筆者はこの間の, 呉の足跡を追いながら, 統計への関心が強まっていくことを確認し, その業績を概観し, その死(1918年)までを丁寧に叙述している。

 呉文總は, 著訳書, 論文が桁はずれに多かった。また, 呉は統計研究に没頭しただけでなく, 統計行政, 統計局に力を注ぐことを惜しまなかった。研究では, ドイツ社会統計学の伝統に依拠し, 欧文の著作を多数翻訳するかたわら自らの統計理論を構築していく。なかでも, 当時(1890年代)の数理統計学者の代表格だった藤澤利喜太郎との統計学の学問的性格をめぐる論争で, 社会統計学者としての自らの足場を固めていく。研究上の業績では, 『万国・国債政表全 一名万国国債統計』「『スタチスチック』理論」「スタチスチックノ学理」『統計詳説 一名社会観察法』『統計原論』『統計学論』「経済スタチスチック論」「斯氏統計要論」『統計之神髄 一名社会状態学』『実際統計学』などがある。筆者はこれらの内容と意義を要約, 説明している。他にも応用統計, とりわけ人口統計, 道徳統計, 疾病統計, 経済統計の分野での多数の論文を紹介している。

統計実践では, いまだ揺籃期にあった日本の官庁統計の規範作りに貢献し, とりわけ生産統計(工業統計, 農業統計), 労働統計(賃金統計), 郵政統計の基礎をつくった。特筆すべきは, 国勢調査の実施にむけて努力したことである。国勢調査の実施をみる前になくなったが, 各国の国勢調査の取り組みの視察, 早期実施に向けた環境整備になみなみならぬ労力を注いだ。

 日本の統計研究, 統計制度を語る際には, はずしてならない呉文總の統計人生は, 本稿によって生き生きと伝えられている。

北川豊「民主主義政治と統計制度」『統計情報』第26巻第5号,1977年5月

2016-10-08 21:42:21 | 11.日本の統計・統計学
北川豊「民主主義政治と統計制度」『統計情報』第26巻第5号,1977年5月

戦後の民主主義の確立過程で,統計制度,統計行政の再建は始まった。そのポイントは筆者によれば,①民主主義政治が行われるための社会経済に関する事実認識資料としての統計の整備,②主権者たる国民に対する統計の開放,非民主体制への統計の逆行の防止,③地方自治と国の統計制度との有効な結合の樹立,である。本稿の課題は,これらの諸点が統計制度再建事業のなかでどのように形成され,どのように展開されてきたのかを考察することである。  

 最初に昭和22年(1947年)に施行された「統計法」と統計制度の民主主義的再建との関連が述べられている。①民主主義政治が行われるための社会経済に関する事実認識資料としての統計(統計の質)に関しては,統計法の第一条に「統計の真実性の確保」「統計体系の整備」として書かれている。統計法はこの目的を実現するために多くの条文をもつ。統計体系の整備に関しては,いかなる統計を供給するかが,換言すれば統計の表象事項,表象事項相互の関連性が問題となる。この問題は統計法では統計の重複の排除,指定統計としての人口に関する国勢調査に関する条文があるのみで,結局,体系の整備に関しては法の運用,運用する主体である統計委員会(行政管理庁-当時)の判断にゆだねられた。

②主権者たる国民に対する統計の開放,非民主体制への統計の逆行の防止に関しては,指定統計の速やかな公表,行政機関による恣意的な統計徴収と利用,統計の歪曲の防止が意図されている。言い換えればそれは,統計の中立性の確保という問題である。統計法には,この問題を自明のこととして,真実性の確保,結果の速やかな公表以外の規定がない。

③地方自治と国の統計制度との有効な結合の樹立に関しては,統計法下の態勢は初めから弱点をもっていた。統計の真実性の確保のための一元的集中的地方機構が強調され,都道府県,市町村はセンサス調査の中間実査機関として位置づけられた。

 統計は時代の社会経済体制の制約を受けながら作成される。統計制度は具体的にどのような展開を遂げてきただろうか。筆者はこの問題を,(1)統計の真実性の確保および体系の整備の観点から,(2)国民に対する統計の開放,非民主主義体制逆行の防止の観点から,また,(3)地方自治と国の統計制度の有効な結合という観点から,述べている。前者については,統計委員会のメンバー構成が,当初は社会科学研究者中心だったのが次第に統計主管部局長のウェイトが高められていったことで,各省の利害が前面に出るようになり,それを超越した立場からの判断で整備を行えなくなった。また,重要統計の企画に関しても,統計委員会の権限が弱められた。
(1)統計の真実性の確保および体系の整備の観点から

 筆者は高度成長期の統計事業,統計体系の整備が,国民所得統計(経済理論),サンプリング(統計技法),高性能コンピュータ(データ処理技術)の三位一体を軸として展開された,とみる。これらのうち国民所得統計,より正確には国民経済計算体系の特徴は,次のようである。①基礎データの多様性と集計値の集合性・一様性・単純性,②全体性・包括性,③整合性,④迅速性。

国民経済計算に傾斜した統計の在り方には,いくつかの懸念がある。①に関して,統計の個別性,多様性が軽視されがちになる。②に関して,その追及は全体の合計,総平均をもとめればよいという考え方に通じるが,この措置によって個別の不平等性が隠されてしまう。③に関して,整合性確保のために追加的新規調査が企画され,統計調査が煩瑣になる。④に関して,センサス軽視,サンプル調査重視の傾向が生じる。関連して,統計の真実性確保との関連で,統計調査環境の悪化という問題がクローズアップされているとの指摘がなされている。
(2)国民に対する統計の開放,非民主主義体制逆行の防止の観点から

 ここでは,上述の統計調査環境の悪化を打開するために,国民による統計と調査の重要性,必要性の理解が喫緊の課題であり,そのために統計資料の公開,統計企画過程に国民各層が参加できるシステムづくりが提案されている。
(3)地方自治と国の統計制度の有効な結合という観点から

 この点に関しては,筆者の見通しは悲観的である。そもそも,そこには,戦後の統計制度再建が中央集権的であったこと,地方財政基盤が弱く自治体独自の統計調査を組みにくいこと,などの問題点が介在しているからである。