goo blog サービス終了のお知らせ 

社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

薮内武司「国勢調査前史-明治人口統計史の一齣-」『日本統計発達史研究』法律文化社,1995年

2017-01-18 00:27:22 | 11.日本の統計・統計学
 本稿のオリジナル論文は,同名で『岐阜経済大学論集』(第11巻第1・2号[1977年6月],第18巻第1号,2号[1984年3月,7月])に掲載されたものである。
日本の国勢調査は,1920年(大正9年)に,第一回目が実施されたが,その前史には紆余曲折があった。難産の末,西欧諸国での実施からかなり遅れてのスタートであった。本稿ではそのプロセスが詳細に,紹介,検討されている。

 上杉正一郎「日本における第一回国勢調査(1920年)の歴史的背景-統計史にあらわれた日本資本主義の特質について-」(1960年),松田泰二郎「国勢調査発達史」(1948年),泉俊衛「国勢調査」(1971年)などの先行研究の成果をおさえ,また当時の一次資料を豊富に活用し,当該テーマを体系的に論じている。全体の構成は,次のようである。

 「はじめに」「1.発端期の人口統計:(1)人口統計史序,(2)人口統計の端緒『駿河国沼津・原政表』」「2.人口統計の期限:(1)戸籍編成と人口調査,(2)『戸籍法』制定と戸口調査」「3.人口統計の胎動:(1)太政官政表課の設置,(2)「甲斐国現在人別調」の実施,(3) 「甲斐国人員運動調」の中絶」「4.国勢調査の濫觴:(1)国勢調査序史,(2)『全国人口調査』暗礁に,(3)民間統計団体の促進運動,(4)人口動態統計の整備」「5.国勢調査促進運動の本格的展開,(1)国際統計協会からの勧誘,(2)『国勢調査ニ関スル法律』の制定,(3)『国勢調査』の由来,(4)1905年『国勢調査』の暗転」「6.地域と人口調査:(1)地域人口センサスの勃興,(2)植民地と人口調査」「7.第一回『国勢調査』の実現へ:(1)1910年『国勢調査』の見送り,(2)民間統計団体からの建議,(3)日本資本主義の展開と国勢調査,(4)軍事的要請と国勢調査,(5)再々度,民間統計団体からの支援,(6)1920年・第一回『国勢調査』の決定」「むすび」[補論 第一回『国勢調査』の概要]  

 以下,筆者の案内にしたがって,日本の人口統計の発展過程をたどり,第一回「国勢調査」実施にいたる足跡をたどることにしたい。

 日本の人口統計の発展は,明治維新後に始まる。その過程で大きな役割を果たしたのは,杉亭二である。杉は1869年(明治2年)に駿河国を対象に人口静態調査(駿河国人別調)を行った。日本での最初の人口静態調査である。この調査では標識別の分類・整理および統計製表化の基本構造が取り入れられ,初歩的ながら統計解析もなされている。

 明治期の人口動態統計は,維新政府の戸籍編成作業と軌を一に進行した。戸籍法(いわゆる検戸の法)が公布されたのは1871年(明治4年),この戸籍法にもとづいて1872年(明治5年)1月29日現在の戸口調査が行われた。その内容には多くの難点(前近代性)を内包していたが,採用された一戸ごとの点計主義の調査方法,さらに戸籍票・職分表の作成など,日本の人口静態統計,動態統計の起点に位置するものである。

 しかし,戸籍にもとづく戸口調査を基礎にした人口統計作成に批判的であり,「人別調」と「戸口調」とが本質的に異なるとの認識にたっていた杉は,全国人別調の必要性を建議した。しかし,おりから中央統計機関としての機能をはたすものと考えられていた太政官製表課が縮小される憂き目にあい,くわえて西南戦争という事態が生じ,杉の建議はなかなか受け入れられなかった。宿願は「甲斐国現在人別調」(1879年[明治12年]12月31日現在)として実現した。筆者はこの「甲斐国現在人別調」について次の評価を与えている,すなわちこの調査は「杉が多年にわたり吸収,蓄積につとめた統計思想を具体化させたものであった。しかもその後,欧州先進国諸国の統計理論,とくにドイツ社会統計学を体系的に学ぶ機会を得ることによって,科学的な認識のもとに実践化された日本の統計調査史上初の試みであった」と(176頁)。

 「甲斐国現在人別調」の意義をこのようにまとめた筆者は,この調査の集計方法,調査時点の設定の仕方,調査を「現在」人口(常住的家族人口)とした根拠,職業属性の調査方法,満年齢による観察など,具体的に詳しくその内容を点検している。(その後,人口動態調査「甲斐国人員運動調」(1883年[明治16年])が統計院によって企画されるが,同年12月の内閣制度の大改革に遭遇し,頓挫)。
杉にとって「甲斐国現在人別調」は,国勢調査の予備的試験調査の役割をもつものと,意識されていた。すなわち,この調査は「全国現在人別調」につながるはずのものであった。しかし,事態は思うとおりに進まなかった。財政問題,専門スタッフ(統計職員)の不足,中央統計機構の機構改革(機能縮小)がその前途をはばみ,杉は「甲斐国現在人別調」に続き,「全国現在人別調」の前段に行われる予定であった東京府の人口調査も断念している。もっとも,この間,人口統計の整備が全く進まなかったわけではない。戸籍業務にもとづく人口動態統計の整備は,地道に取り組まれていた。人口静態統計調査は1898年に第一回調査が実施され,以来5年ごとに取り組まれ(精度の低さは否めなかったが),その中間年次には人口動態統計での補完があった。また,政府レベルでの国勢調査に向けた足取りの遅滞とは裏腹に,民間レベルでの統計団体の不断の取り組み,統計関係者の熱心な啓蒙活動には見逃せないものがあった。1876年(明治9年)に結成されたスタチスチック社,1878年(明治11年)に創立した東京統計協会の活動がそれである。杉亭二,呉文聰,高橋二郎,横山雅男,臼井喜之作,相原重政などの統計関係者は断続的であったが,国勢調査促進の運動に関わった。

 停滞していた国勢調査実施の動きは,国際統計協会から日本政府にあてられた1900年「世界人口センサス」への参加勧誘を契機に再燃する。すなわち,国際統計協会は1985年8月にスイス・ベルンで開催された会議で,世界人口センサスの実施が提案,決議された。この決議は,同協会・報告委員ギュイヨーム(スイス連邦統計局長)より,日本の内閣統計局長に伝達依頼された。この勧誘は沈滞気味であった国勢調査促進運動を活発化させた。具体的には,国勢調査促進運動に長年にわたり展開してきた東京統計協会による建議の提出,衆貴両院議長への請願の提出などである。しかし,この機に及んでも政府の対応は鈍かった。政府の方針は,人口センサスへの参加より,統計専門機関の整備が先決であった。確かに,ぬきさしならない事情はあった。朝鮮出兵,日清戦争開戦,台湾占領などにともなう軍備拡張,戦後経営の負担である。結果として,種々の要望はむなしく,1900年人口センサスの施行は実現とならなかった。

 その後,1898年(明治31年)6月,伊藤博文内閣総辞職,初代統計院長を務めた大隈重信内閣の成立で事情は,変わる。同年10月22日,内閣統計課は内閣統計局に格上げがそれである。職員は拡充され,統計業務に国勢調査の研究が位置付けられ,欧米への実地調査が組まれるにいたる。民間レベルでは,東京統計協会,統計学社,統計懇話会の3団体において,「人口調査審査委員会」が選出され,国勢調査に関する予算,方法などの検討に手がつけられるようになる。こうした動きに支えられ,1902年(明治35年)2月18日,「国勢調査ニ関スル法律案」が衆議院へ提出され,3月6日,両院を通過し,12月1日,公布の運びとなった。

 ここまで来れば国勢調査の実施は可能なようにみえるが,政府は国際環境の変化,財政難などを理由に,この種の全国的規模の調査が未経験であったことも手伝って,その実現に踏み切れなかったようである(調査項目の検討などでは一定の前進はあった)。1905年,1910年,1915年と調査は見送られ,実現されたのは漸く1920年のことである。筆者はこの間の事情,例えば地域人口センサスが相次いで実施されたこと(熊本市,東京市,神戸市,札幌区,新潟県佐渡郡,京都市),植民地台湾で戸口調査が行われたこと(1905年),朝鮮では土地所有権の再確認という名目で土地調査が行われたこと(1910-18年)を紹介している。筆者はこれらの調査の内容を詳らかにしている。

 1920年国勢調査実施は,寺内正毅内閣(軍閥内閣)によって断行された。それは第一世界大戦の最中の1917年(大正6年)の第39回特別議会においてでった。翌1918年の第40回議会で第一回国勢調査費を含む予算が成立し,調査実施の段取りが一挙に進んだ。背景に軍事大国への傾斜を強めた当時の情勢があったこと,国勢調査の実現が軍事上の必要に基づいて推進されたことは否定できない。第一回国勢調査の実施を前にして,1920年5月15日,内閣統計局と軍需局とが併合され国勢院が設置され,併行して軍需工業動員法(1918年),軍需調査令(1919年)が公布された。(高野岩三郎は,軍事上の必要性が突出することに対し学問的立場から反論した)。そのことを明確に示した資料として,筆者は当時の牛塚統計局長から上原勇作参謀総長にあてた意見書「国勢調査ノ軍事上必要ナル所以」(1917年[大正6年]7月)の全文掲げている(237-9頁)。

 なお本文中で,筆者は国勢調査という名称の由来を明らかにしている(207-8頁)。それは「国の情勢」という意味である。センサスの訳語として「国勢調査」あてられたのは,国民が理解しやすいようにという宣伝効果が考慮されてのことであった。

三潴信邦「K.ラートゲンの統計学」『統計学』第33号,1977年9月

2017-01-07 01:20:35 | 11.日本の統計・統計学
K.ラートゲン(Karl Rathgen;1856-1921)[筆者はラートゲンの生年を1855年としているが1856年の誤記]は,ドイツの政治学者で,1882年4月東京大学文学部に政治学担当の外国人講師として着任し政治学の教鞭をとり,「統計学」の講義も担当するようになった。本稿は,そのラートゲンの統計学がどのようなものであったかを紹介したもの。    
全体は3つの部分にわかれ,第一の部分はラートゲンが東大で行った講義科目について,第二の部分はラートゲンの講説(寺田勇吉訳)「スタチスチックは何を為得るか又何を為得さるか」の全文,そして第三の部分はこの講説から筆者が読み取ったラートゲンの統計学理解の内容である。以下は,本稿の要約である。     

 1882年4月から,ラートゲンは文学部「政治学及び理財学科」で政治学(国法学,行政学)とともに「統計学」を講じた。後者はこの年度に改正された学科課程のもとで彼の提案で新たに設置された科目である。「統計学」のカリキュラム上の位置づけは政治学専修の予備(補助科目)であった。その内容は,『明治十五年度の大学年報』によると,欧州各国の状態,勢状,通信の発達増加,産出物又は機械使用の多寡などの統計比較となっている。また,『東京帝国大学学術大観』によれば,ラートゲンの「統計学」では,欧州諸国の統計的事実をStatesmans’Year-Bookなどを使って講義されていたようである。筆者はこのことを指して,あたかもゲッチンゲン大学教授G.Achenwallが『欧州諸国国家綱要』を参考に講義していた姿を彷彿させる,と述べている。ラートゲンは東京大学以外でも共立統計学校(1883年9月創設)で「貿易調査論」を,独逸学協会学校(1883年10月創設)で「行政学」を講じて。ラートゲンはその後,1890年まで東京大学の教壇にたち,帰国後Marburg大学で教授職に就いた。

 筆者はラートゲンの「統計学」の内容を知るために,『スタチスチック雑誌』の明治21年(1888年)4月号に掲載された彼の講説「スタチスチックは何を為得るか又何を為得さるか」の邦訳の全文を掲げ,彼の統計学観を伺い知ることができる部分にアンダーラインを付している。

 筆者がまとめたラートゲンの統計学観は,以下のとおりである。(記述の仕方は筆者のそれを尊重しているが,まったく同じではない)
(1)【方法学としての統計学】ラートゲンは「統計学」を他の諸科学に利用される方法の科学として理解していたようである。少なくとも「論理学の一部分」と位置づけられている。歴史的存在である対象によって方法が規定されるという自覚はなかったようである。
(2)【大量観察法と帰納法】スタチスチックはその方法として「単独の事物を採用すべからず」とし,「常に集合調査を要す」と断言している。論理学における帰納法と,集合調査から規則性を見いだす方法とが形式上類似しているという指摘にとどまる。
(3)【統計資料からの推測】ある調査結果から,たとえば「人民の貧富鑑定」を推測することはできるが,「比推測法の如きはきわめて危険」である,すなわち統計資料のみから社会的事実,社会的法則を定立することの危険性を指摘している。統計資料の過信,数理主義=科学的との妄信は,ラートゲンの時代にもあったようである。
(4)【統計数字の濫用と官庁統計利用上の注意】例をあげて,統計の濫用,誤用を戒めている。統計利用者として肝要なのは,統計資料の獲得,生産過程を吟味すること,数字の正確性と信頼性を検討することである。
(5)【被調査者の利害と統計調査】統計調査における調査者と被調査者との関係は対等でない,被調査者の利害にかかわることの多い経済統計の信頼性と正確性の吟味がとくに重要であるとの指摘がある。
(6)【第二義統計利用上の注意】貿易統計を例にあげて,貿易の実際と統計記録(業務記録)との相違を知ったうえで利用しないと,事実の認識を誤ることになる。
(7)【平均の虚構性】「住民一人について」という表章の方法で各国間の比較(紙の使用量)を行うことは意味がないことの指摘。
(8)【統計分析≠因果分析】スタチスチックは集団のもつ規則性について説明するだけであり,そこからただちに因果分析に結びつけることはできないとの指摘。「蓋然性」を知るのみ。
(9)【数量分析の必要性】数量分析で不景気の程度を示すことはできるとの指摘。
(10)【統計比較上の注意】スタチスチックは比較が大切との指摘。統計資料を用いた経済分析では何らかの意味での比較という過程が不可欠。
(11)【平均,比例数について】実数がどんなに正しくとも,平均値,比例数という加工値の利用を誤れば,大きな誤認につながることの指摘。
(12)【統計利用のすすめ】「スタチスチックの濫用は…最恐るべきものなるに疑ひなけれ共…落胆すべきものにあらず。…百般の学術皆然らざるはなし」と結んでいる。
 筆者は次のようなまとめを行って本稿を閉じている。「ラートゲンが担当した政治学,財政学,そして統計学という,今日では一見異質の学問分野のようにみえるものは,実はドイツ統計学においては決して無縁のものではなく,むしろ『社会科学としての統計学』という統計学本来の性格をふまえた統計学観がK.ラートゲンの演説にもあらわれている,と考えられる」と(91頁)。


森博美「『統計法』と法の目的」『オケージョナル・ペーパー』No.12,2005年12月

2016-10-08 22:04:08 | 11.日本の統計・統計学
森博美「『統計法』と法の目的」『オケージョナル・ペーパー』(法政大学・日本統計研究所)No.12,2005年12月

 統計法は,2007年5月に旧法が全部改訂された。本稿は旧統計法(便宜上,ここで言う統計法は旧法を指す)の目的条項の変遷を手掛かりに,①戦後の統計再建のシナリオとその変化を「統計法」の変質のなかに読み取ること,②最終法案における目的規定の内容と関連付けて,制定「統計法」の条文体系とその特徴を明らかにすること,③「統計法」の目的規定を諸外国の統計関係法規におけるそれらと比較し,④日本の「統計法」における目的規定の特徴を明らかにすること,⑤日本の「統計法」が本稿執筆時点で抱えていた課題を検討すること,を内容としている。

 節の構成(「1.『統計法要綱案』と法の目的規定」「2.法の目的と『統計法』体系」「3.海外の統計関係法規にみる法の目的」「4.統計行政と法の目的」「むすびにかえて」は,上記の①~⑤に対応している。

 戦後日本の統計再建の本格的歩みは,統計制度改善に関する委員会(中山伊知郎,近藤康男,有澤宏巳,高橋正雄,森田優三,川島孝彦)の答申『統計制度改善案』(以下,『改善案』と略)を実質的な出発点とした。『改善案』を受けて各省の統計局は「統計法」(「統計法要綱案」)に盛り込むべき条文項目を列挙した文書を提出した(昭和21年10月下旬~11月上旬)。その後,12月28日に,政府内に統計委員会が設置され,法案の策定作業はこの委員会に付託された。各委員は法案に関する「意見書」を提出し,原案「統計法要綱案」が(第1回委員会[昭和21年12月27日]配布)で審議にかけられた。法の目的への言及は,有澤が間接的に指摘しただけであった。

 筆者は「『統計法要綱案』における目的規定の変遷」に関する一覧表を掲げ(作成順序に従って[A案]~[K案]に整理),それにそくして当該問題を解説している。焦点は目的規定の[A案](第2回委員会[昭和22年1月10日]配布)から[C案](第3回委員会[昭和22年1月17日]配布)に至る過程での変更,すなわち対象を「国勢に関する基本的資料」が「統計」に書き改められ,その「整備に」並列して「真実性の確保」「統計調査の重複の排除」が掲げられたこと,「統計制度」という文言の削除である([D案]として纏まる[第3回委員会])。こうした変更には,戦後日本の統計(制度)の再建という課題をもつはずであった法律が「狭義の統計行政」への法律へと矮小化されたことが読み取れる。

 さらに第4回委員会[昭和22年1月24日]に提出された[E案]では,統計の「整備」に関わる事項と「国民の負担の軽減」という政策目標が削除された。さら委員会には[E案]とともに[F案]が提出され,後者には[D案]に対する占領軍司令部の「意見書」にあったコメントが反映された。その結果,[F案]には「統計の整備発達」が「統計体系の整備」に変更され,また一旦削除された「統計制度の改善発達」という目的要素が復活した。もっとも,「統計制度の改善発達」という文言が復活したからといって,それは当初の統計再建の原点であった『改善案』での再建構想を再度確認するという性質のものではなく,「統計の真実性の確保」と同じレベルの目的要素の一つにすぎなかった。

 [F案]はその後,表現上の形式的訂正を経た[K案]として第92回帝国議会に上程された。幾多の紆余曲折を経て成案なった統計法は,その第1条で,(a)統計の真実性の確保,(b)統計調査の重複の排除,(c)統計体系の整備,(d)統計制度の改善発達を,達成すべき4つの要素として謳っている。筆者はこの4要素と同法の諸条文との対応関係を,統計委員会設置後その事務局総務課長として法案作成業務に関与した山中四郎の理解に依りながら,検討している。

 「(a)統計の真実性の確保」に関して,それは統計法の要であることから,一方で強制的情報徴収の仕組みを,調査への協力を要請するメカニズムとして設定しつつ,他方で個体情報の提供行為によってその提供者が不利益を蒙らないよう秘密の保護が規定されている。

他の3つの要素(「(b)統計調査の重複の排除」「(c)統計体系の整備」「(d)統計制度の改善発達」)は,真実性の確保のために必要な,統計法の全体を貫く根本の精神である。これらのなかで「(b)統計調査の重複の排除」は,ある意味で「統計体系の整備」に包含される側面をもち,「(c)統計体系の整備」の裏面のある部分の表現である。それは罰則を伴う形で被調査者に対して課す申告義務という意味での国民の負担の軽減であり,税制面での国民の負担の軽減でもある。次に「(c)統計体系の整備」は,個々の調査企画の内容を精査し,基準の統一をはかる視点からの必要な修正を,調査実施機関に命じる統計行政上の措置である。「(d)統計制度の改善発達」については,それが当初『改善案』にあった統計制度の長期的最適化という動態論的再建シナリオが,先に指摘したように[C案]で削除され,希薄化されたことが再確認されている。この経過のなかでは,「統計制度の改善発達」はそれ自体が達成すべき目的ではなく,「真実性」の要件を充足した高い品質の統計整備を保証する制度的枠組みのことを指すにすぎない。

諸外国の関連法はどうなのであろうか。筆者は,アメリカ(秘密情報保護法・統計効率化法),カナダ(統計法),ドイツ(連邦統計法),オーストラリア(統計局設置法),ニュージーランド(統計法),フィンランド(統計法),ノルウェー(統計法),韓国(統計法)のそれぞれの目的を列記し,(a)統計作成―利用過程に関連した法の適用範囲,(b)政府による統計作成,提供の目的,(c)統計の真実性・正確性・比較可能性,(d)統計体系,(e)調査報告負担の軽減の各点について考察している。

 各国の関連法をみるとわかるが,法の目的は冒頭に掲げられることが多い。そこに示される目的規定は,法律にもとづいて遂行される行政の対象業務や領域を列記しただけのものがある一方で,それらに加えて当該法規にもとづく行政行為が達成あるいは実現すべき社会的厚生などを併記したものもある。日本の統計法は前者である。

制定統計法は,『改善案』によって提起された集中型統計制度案に対し,当面,分散型統計機構を前提とした統計の再建を図りながら,同時並行的にその将来の在り方を統計委員会に検討・実行権限を付与する仕組みを統計法に盛り込んで対応する現実的路線を選択した。と同時に注目すべきは,この統計法が当初,制度法規と調査法規とを併せもつ基本法規と考えられていたことである。

 議論が進行するにつれ,当面の統計再建が喫緊の課題として認識され,制度の長期的再建は後景に退く。それは分権型統計システムの制度化という省庁の組織論理に適うものであった。これにともない,統計法は当初想定されていた統計委員会法規的性格の色濃いものから統計調整行政の根拠法規へとその基本性格を転換させた。条文で,統計委員会は分散型統計機構における調整機構と位置づけられ,指定統計の統計調査をその企画から公表にいたる一連のプロセスのなかで,統計作成に関わるものの義務,権限などを規定したものになった。

 また,「統計調査の重複を除去する目的」に関連して,「国民の負担を軽減し」という文言の削除は,後に「統計報告調整法」として整備された。この結果,日本の統計行政は,「統計法」と「統計報告調整法」という併存する統計基本法の下で機能することになる。筆者は他に,戦前の日本の統計法規になかった調査結果の公表義務,昭和63年改正法のなかで追加された「調査票などの管理」規定の今日的意義,制定統計法が統計利用面に関わる条文をもたない事実上の「統計調査法規」になっていることの問題点について言及している。

 最後の「むすびにかえて」は,この時点での「統計法」の今後に向けた課題を提起している。本文での議論との重複する記述もあるが,ここでは,時代の変化とともに社会が要請する新たな統計情報の確保のための調査の企画・実施を含む統計作成業務に関わる統計政策の実施が不可欠であると指摘され,そのためには強力な権限を有する責任主体の存在が必要であるということが述べられている。また統計の利用過程が「統計法」の適用対象外になった理由が分析され,統計の今日的展開を踏まえると統計利用に関わる目的規定を定めることが必要であることが,①政府統計の二次的利用と秘密保護,②統計情報単位の二次利用に対する従前の制度的対応,③統計利用に関する規定の整備と二次利用の潜在的可能性に分けて,論じられている。

森博美「日本における『統計法』の成立」『オケージョナル・ペーパー』No.11,2005年6月

2016-10-08 22:01:33 | 11.日本の統計・統計学
森博美「日本における『統計法』の成立」『オケージョナル・ペーパー』(法政大学・日本統計研究所)No.11,2005年6月

筆者が掲げる本稿の課題は,2点である。第一の課題は,戦後,統計の基本法規として制定された「統計法」がどのような過程を経て成立したかを,その間の「統計法要綱案」の変遷を跡づけ,法案制定の主役であった統計委員会の狙いと。この委員会の背後にあった者の思惑との交錯を,委員会議事録などの記載内容を手掛かりに明らかにすることである。第二の課題は,統計委員会の委員でさえその意図するところを自覚しえなかった舞台裏での動きが,統計法規を当初構想されていた内容から軌道修正させたことが,その後,成立した統計法の基本性格にどのような影響を与えたかを明らかにすることである。

 筆者の見解は明確であり,論旨もとおっている。「むすび」に手際のよい要約があるので,それを拾い読みすると,以下のまとめになる。

戦後日本で制定されるべき統計法は,元来の構想から言えば,『改善案』に示された統計(統計制度)再建の基本方針を法律の条文に翻案することであった。統計委員会の各委員の共通認識は,統計行政の基本法規を制定することであった。しかし,「統計法要綱案」(原案)は,戦前の統計三法から申告義務,立入調査権,調査票の目的外使用禁止,秘密保護規定を継承しつつ,公表規定さらには統計調整に関わる種々の権限などを新規に盛り込んで構成されていた。

 統計再建を政府から要請されていた教授グループは統計制度の中核的組織であり,統計実務を超えて個々の統計の改善だけでなく,統計制度そのものの改善も視野に入れた統計委員会を設置し,その権限の行使のもとで統計の再建を果たそうと意図した。しかし,そのような基本構想は実現せず,軌道修正を余儀なくされた。統計委員会の権限にはいつのまにかタガがはめられた。このような法案のもともとの基本構想からの方向転換は,毎回の会議ごとに準備される改定案での条文修正として行われた。

方向転換は,統計委員会の権限行使のための政治的仕組みに対しても行われた。委員会の組織規程は管制に委ねることで法案から削ぎ落とされ,最終法案では組織そのものが内閣から弾きだされた。

 統計基本法規の在り方を規定する統計委員会の組織ならびにその機能の修正は,統計法をどのように変質させ,日本の統計と統計制度に何をもたらし,何を失わせたのだろうか。筆者はこのように問題をたて,その分析を行っている。まず,川島孝彦が構想し,教授グループが意図した,長期的視点からの日本の統計と統計制度の抜本的再建は,分散型統計機構を前提にした統計制度という現実路線(将来の在り方についても視野に入れつつ)の選択によって事実上,頓挫した。この選択は分散型統計システムの制度化という省庁の組織論理と整合的であった。この視点から統計法の条文構成を見ると,その内容は確かに統計委員会を分散型統計機構における調整機関として位置づけ,指定統計の調査過程を統計の真実性の確保を可能な限り担保できる体制を確保するものになっていたことがわかる。

 しかし,こうした体制は他方で,省庁の縦割り行政を温存させ,その枠を超えた政策,取り組み(統計調査の企画権限)を阻むという弊害をもつ。横並びの分散型統計システムの致命的欠陥である。これは一国の統計の全体的あり方を検討する「司令塔」機能の喪失を意味する。統計委員会の位置づけの後退,統計法の変質は,こうして制度面でその長期的,継続的最適化の仕組みを創出する機能の停止に他ならなかった。

本稿の論旨は,おおむね以上のとおりである。2節,3節は,資料にもとづく詳細な検討である。「2節:『統計法』の制定に向けた取り組み」は,「(1)『統計制度改善に関する委員会』での審議」,(2)統計制度改善に関する委員会答申『統計制度改善案』」という構成である。
戦後の統計制度改善は,内閣における「統計懇親会」の設置でスタートする(昭和21年5月)。懇親会での議論を受け,内閣審議室は「統計研究会」を設け,さらに閣議決定として「統計制度に関する委員会」が発議される(昭和21年8月)。実質審議は「統計制度に関する委員会」のなかの小委員会でなされ,この段階で既に集権的統計機構を推す川島の構想は足場を失っていた。小委員会の検討を経て,10月に『統計制度改善案』が委員会総会で決定された。『改善案』の全体は,(a)統計に関する機構の整備[①統計委員会,②中央統計局,③各省,④地方庁,⑤民間統計],(b)統計関係職員及び統計調査員の質的向上,(c)統計の公表,(d)統計に関する基本法の制定,(e)要望事項,で構成されていた。経済安定本部は「統計制度に関する委員会」の答申を受け,経済調査室を中心に「統計法要綱案」の作成に着手,作業は統計委員会(12月28日設置)に舞台を移して,行われることになった。

 「3節:統計委員会での法案審議」は,「(1)『統計法要綱案』[原案]と第1回委員会」「(2)[原案]と委員会提出文書」「(3)[原案]の条文構成」「(4)第2回委員会での法案審議と条文の修正」「(5)第3回委員会での法案審議と条文の修正」「(6)『統計法要綱案』に対するスタップのコメントとそれに基づく修正提案」「(7) 第4回委員会での法案審議による法案修正」「(8) 第5回委員会での審議結果と『統計法要綱案』の決定」「(9)委員会決定後の法案修正」という構成である。

統計委員会の最大の課題は,日本の統計再建にあたり統計行政の根拠法となる基本法規の制定,すなわち統計法の作成であった。この節では,5回にわたる委員会の審議の過程が描写されている。法案審議の具体的内容に関しては,既に資料が散逸し,追跡が不可能という。筆者はそこで会議の議題,配布資料,決定事項を記した統計委員会議事録,それに『日本統計制度再検史-統計委員会史稿』(記述編,資料編Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ,年表)の収録資料を参考にするという手続きをとって,「統計法案」策定のプロセスを回顧している。

 内容は原案から各回委員会での案の変更,訂正の経過である(A案からK案まで)。綿密に資料整理にあたり,統計法が成立するまでの経過を追っている。資料的価値はきわめて大きい。

 末尾に次の付表がある。「付表1:統計法要綱案審議略年表」「付表2:統計法要綱案の委員会審議経過」「付表3:統計法案の変遷(付表3-1:第1回委員会から第2回委員会まで)(付表3-2:第2期-第3期委員会からスタップ氏によるコメントまでの統計法案の修正)(付表3-3:第3期-スタップ氏のコメントから第5回統計委員会結果による修正案)」

金子治平「日本における戸口調査と静態人口調査-国勢調査の前史として-」『近代統計形成過程の研究』法律文化社,1998年3月

2016-10-08 21:59:53 | 11.日本の統計・統計学
金子治平「日本における戸口調査と静態人口調査-国勢調査の前史として-」『近代統計形成過程の研究』法律文化社,1998年3月

筆者によれば英米の国勢調査は,その成立過程と確立過程とに二区分できる。前者は人口数の把握を目的として他計式で実施された時期で,後者は諸側面からの人口の把握を目的に自計式で実施された時期である。日本では1920年に第一回国勢調査が行われ,すでに詳細な職業区分を調査項目に含む自計式で,上記の区分を当てはめるならば確立過程のそれであった。本稿で,筆者は国勢調査に先立って行われていた壬申戸籍,およびその後の戸籍法と寄留手続きを中心とした静態人口の把握を通して統計調査という方法を経ずに人口把握が可能とされた経緯を指摘し,このことが日本で国勢調査の成立が遅れる理由となったこと,および明治末期から大正期にかけて人口把握の方法の矛盾が拡大し,第一回国勢調査の登場を促したことを示す,としている。

 日本の国勢調査の前史として挙げられるのは,一般に杉亨二が実施した「駿河国人別調」「甲斐国人別調」および「戸口調査」(いわゆる壬申戸籍)である。行論との関係では3つ目の,戸籍法に基づいて全国的に実施された「戸口調査」が重要である。この戸口調査は,1871年戸籍法に基づいて1872年に実施されたものである。対象は「臣民一般」とされ近代的な規定を受け,6年ごとに改製されることがうたわれていた。そこでは「家」制度の側面が希薄であり,内務行政をつかさどる内務省管轄下のもとに徴兵,税制,教育,衛生の諸行政の基礎として利用された。当初,戸口調査は定期的に実施される人口調査と意図され(上記のように6年ごと),いわば成立期の国勢調査といった性格を有していた。

 1873年,1871年戸籍法から6年ごとの定期調査事項が除外されると,戸籍が人口移動による各戸の事情を十分に把握できなくなってくる。そこで定期的調査を実施することなく,人口数を確認できることを可能にする戸籍・寄留制度の整備が行われた。

背景にこの時期の都市産業の発展による農村から都市への人口移動の増大とともに,戸籍上の「戸」と現実の世帯が対応しなくなる事態が増えるにいたった。このために必要とされたのが,寄留手続きの整備である。1886年の「出生死去出入寄留者届方」(内務省令第19号),「戸籍取扱手続」(内務省令第22号),「戸籍登記書式」(内務訓令第20号),1896年の「寄留届,寄留者復帰届取扱方」(内務訓令第4号),「寄留届,寄留者復帰届取扱方」(拓殖省令第11号),「明治19年省令第19号第22号中改正追加」(内務省令第11号)などである。

1898年には,「戸籍法」が制定された(戸籍の他に身分登録簿が設置され,身分公証としての戸籍が確立)。戸籍法の制定は,従来,市町村長によって管掌されてきた戸籍が法的に司法省の管轄する戸籍役場-戸籍吏によって管掌されることとなり,戸籍を人口統計作成に利用できるのか,また司法省が人口統計作成の主体になりうるのか,という問題が発生した。前者に関しては,それが可とされ,また後者に関しては,内閣府統計課に人口統計を作成するよう法制度が変えられた。しかし,人口統計が内閣府統計課によって作成されることとなったものの,従来のように戸籍簿・除籍簿が廃止されたので,人口統計作成法は大きな変更を余儀なくされた。大きな変更は人口動態統計調査に認められたが,人口静態調査でもその作成過程に変更が加えられた。
変更点は,次の4点である。①静態人口統計が市町村単位で作成されることとなった。②毎年実施されていた人口静態調査が5年ごととなった。③本籍人口の年齢表に有配偶・無配偶の別が加えられた。④各表を作成するに際し,利用すべき簿冊が明記された。これによっても現住戸数は戸籍簿や寄留簿から推計できなかったので,それらについては市町村長に調査方法が委ねられた。

1898年戸籍法に基づく静態人口調査は,5年ごとに『帝国静態人口調査』として公刊された。しかし,戸籍・寄留届によるその現住人口の推計は,その正確性においてきわめて不十分であった。その原因は,次の事情による。現住人口の推定は,本籍人口を基礎とし,入出寄留人口を加除してもとめられた。しかし,1871年戸籍法がもっていた現実主義は1898年戸籍法によって弱められ,戸主を含めた寄留も可能となり,戸籍法は次第に観念的な性格をもつにいたる。戸籍法のこの両義性は初めのうちは,さほどの矛盾としてあらわれなかったが,明治後期以降,都市化の進展ととともにその矛盾が露呈するようになる。すなわち知るべき現住人口と法制上から推計されるそれとが乖離する。当時は寄留届提出がそれほど厳格でなかったこともあり,この可能性は現実性に容易に転化した。明治末期から,大正初期にかけ,入寄留の出寄留に対する超過が増大する傾向にあったのは,この矛盾の反映である。

 さらに,この時期には社会問題も激化し,社会学や社会政策学の分野,ひいては人口統計の分野でも,単に人口数が把握できればよいというだけでなく,人口の社会構成をつかむ必要性が高まってきていた。このことの延長で,1908年の静態人口調査で,内閣府統計局は警察機関に対し,男女別年齢別現住人口の調査を依頼した。この要請を受けて行われた男女別年齢人口の調査の結果,初めて地方人口年齢別の死亡率が推計された。

 以上のような事情を背景に,第一回国勢調査は1920年に実施された。この調査は,当初から人口の社会的諸側面を調査する項目を含んでいた。