本稿のオリジナル論文は,同名で『岐阜経済大学論集』(第11巻第1・2号[1977年6月],第18巻第1号,2号[1984年3月,7月])に掲載されたものである。
日本の国勢調査は,1920年(大正9年)に,第一回目が実施されたが,その前史には紆余曲折があった。難産の末,西欧諸国での実施からかなり遅れてのスタートであった。本稿ではそのプロセスが詳細に,紹介,検討されている。
上杉正一郎「日本における第一回国勢調査(1920年)の歴史的背景-統計史にあらわれた日本資本主義の特質について-」(1960年),松田泰二郎「国勢調査発達史」(1948年),泉俊衛「国勢調査」(1971年)などの先行研究の成果をおさえ,また当時の一次資料を豊富に活用し,当該テーマを体系的に論じている。全体の構成は,次のようである。
「はじめに」「1.発端期の人口統計:(1)人口統計史序,(2)人口統計の端緒『駿河国沼津・原政表』」「2.人口統計の期限:(1)戸籍編成と人口調査,(2)『戸籍法』制定と戸口調査」「3.人口統計の胎動:(1)太政官政表課の設置,(2)「甲斐国現在人別調」の実施,(3) 「甲斐国人員運動調」の中絶」「4.国勢調査の濫觴:(1)国勢調査序史,(2)『全国人口調査』暗礁に,(3)民間統計団体の促進運動,(4)人口動態統計の整備」「5.国勢調査促進運動の本格的展開,(1)国際統計協会からの勧誘,(2)『国勢調査ニ関スル法律』の制定,(3)『国勢調査』の由来,(4)1905年『国勢調査』の暗転」「6.地域と人口調査:(1)地域人口センサスの勃興,(2)植民地と人口調査」「7.第一回『国勢調査』の実現へ:(1)1910年『国勢調査』の見送り,(2)民間統計団体からの建議,(3)日本資本主義の展開と国勢調査,(4)軍事的要請と国勢調査,(5)再々度,民間統計団体からの支援,(6)1920年・第一回『国勢調査』の決定」「むすび」[補論 第一回『国勢調査』の概要]
以下,筆者の案内にしたがって,日本の人口統計の発展過程をたどり,第一回「国勢調査」実施にいたる足跡をたどることにしたい。
日本の人口統計の発展は,明治維新後に始まる。その過程で大きな役割を果たしたのは,杉亭二である。杉は1869年(明治2年)に駿河国を対象に人口静態調査(駿河国人別調)を行った。日本での最初の人口静態調査である。この調査では標識別の分類・整理および統計製表化の基本構造が取り入れられ,初歩的ながら統計解析もなされている。
明治期の人口動態統計は,維新政府の戸籍編成作業と軌を一に進行した。戸籍法(いわゆる検戸の法)が公布されたのは1871年(明治4年),この戸籍法にもとづいて1872年(明治5年)1月29日現在の戸口調査が行われた。その内容には多くの難点(前近代性)を内包していたが,採用された一戸ごとの点計主義の調査方法,さらに戸籍票・職分表の作成など,日本の人口静態統計,動態統計の起点に位置するものである。
しかし,戸籍にもとづく戸口調査を基礎にした人口統計作成に批判的であり,「人別調」と「戸口調」とが本質的に異なるとの認識にたっていた杉は,全国人別調の必要性を建議した。しかし,おりから中央統計機関としての機能をはたすものと考えられていた太政官製表課が縮小される憂き目にあい,くわえて西南戦争という事態が生じ,杉の建議はなかなか受け入れられなかった。宿願は「甲斐国現在人別調」(1879年[明治12年]12月31日現在)として実現した。筆者はこの「甲斐国現在人別調」について次の評価を与えている,すなわちこの調査は「杉が多年にわたり吸収,蓄積につとめた統計思想を具体化させたものであった。しかもその後,欧州先進国諸国の統計理論,とくにドイツ社会統計学を体系的に学ぶ機会を得ることによって,科学的な認識のもとに実践化された日本の統計調査史上初の試みであった」と(176頁)。
「甲斐国現在人別調」の意義をこのようにまとめた筆者は,この調査の集計方法,調査時点の設定の仕方,調査を「現在」人口(常住的家族人口)とした根拠,職業属性の調査方法,満年齢による観察など,具体的に詳しくその内容を点検している。(その後,人口動態調査「甲斐国人員運動調」(1883年[明治16年])が統計院によって企画されるが,同年12月の内閣制度の大改革に遭遇し,頓挫)。
杉にとって「甲斐国現在人別調」は,国勢調査の予備的試験調査の役割をもつものと,意識されていた。すなわち,この調査は「全国現在人別調」につながるはずのものであった。しかし,事態は思うとおりに進まなかった。財政問題,専門スタッフ(統計職員)の不足,中央統計機構の機構改革(機能縮小)がその前途をはばみ,杉は「甲斐国現在人別調」に続き,「全国現在人別調」の前段に行われる予定であった東京府の人口調査も断念している。もっとも,この間,人口統計の整備が全く進まなかったわけではない。戸籍業務にもとづく人口動態統計の整備は,地道に取り組まれていた。人口静態統計調査は1898年に第一回調査が実施され,以来5年ごとに取り組まれ(精度の低さは否めなかったが),その中間年次には人口動態統計での補完があった。また,政府レベルでの国勢調査に向けた足取りの遅滞とは裏腹に,民間レベルでの統計団体の不断の取り組み,統計関係者の熱心な啓蒙活動には見逃せないものがあった。1876年(明治9年)に結成されたスタチスチック社,1878年(明治11年)に創立した東京統計協会の活動がそれである。杉亭二,呉文聰,高橋二郎,横山雅男,臼井喜之作,相原重政などの統計関係者は断続的であったが,国勢調査促進の運動に関わった。
停滞していた国勢調査実施の動きは,国際統計協会から日本政府にあてられた1900年「世界人口センサス」への参加勧誘を契機に再燃する。すなわち,国際統計協会は1985年8月にスイス・ベルンで開催された会議で,世界人口センサスの実施が提案,決議された。この決議は,同協会・報告委員ギュイヨーム(スイス連邦統計局長)より,日本の内閣統計局長に伝達依頼された。この勧誘は沈滞気味であった国勢調査促進運動を活発化させた。具体的には,国勢調査促進運動に長年にわたり展開してきた東京統計協会による建議の提出,衆貴両院議長への請願の提出などである。しかし,この機に及んでも政府の対応は鈍かった。政府の方針は,人口センサスへの参加より,統計専門機関の整備が先決であった。確かに,ぬきさしならない事情はあった。朝鮮出兵,日清戦争開戦,台湾占領などにともなう軍備拡張,戦後経営の負担である。結果として,種々の要望はむなしく,1900年人口センサスの施行は実現とならなかった。
その後,1898年(明治31年)6月,伊藤博文内閣総辞職,初代統計院長を務めた大隈重信内閣の成立で事情は,変わる。同年10月22日,内閣統計課は内閣統計局に格上げがそれである。職員は拡充され,統計業務に国勢調査の研究が位置付けられ,欧米への実地調査が組まれるにいたる。民間レベルでは,東京統計協会,統計学社,統計懇話会の3団体において,「人口調査審査委員会」が選出され,国勢調査に関する予算,方法などの検討に手がつけられるようになる。こうした動きに支えられ,1902年(明治35年)2月18日,「国勢調査ニ関スル法律案」が衆議院へ提出され,3月6日,両院を通過し,12月1日,公布の運びとなった。
ここまで来れば国勢調査の実施は可能なようにみえるが,政府は国際環境の変化,財政難などを理由に,この種の全国的規模の調査が未経験であったことも手伝って,その実現に踏み切れなかったようである(調査項目の検討などでは一定の前進はあった)。1905年,1910年,1915年と調査は見送られ,実現されたのは漸く1920年のことである。筆者はこの間の事情,例えば地域人口センサスが相次いで実施されたこと(熊本市,東京市,神戸市,札幌区,新潟県佐渡郡,京都市),植民地台湾で戸口調査が行われたこと(1905年),朝鮮では土地所有権の再確認という名目で土地調査が行われたこと(1910-18年)を紹介している。筆者はこれらの調査の内容を詳らかにしている。
1920年国勢調査実施は,寺内正毅内閣(軍閥内閣)によって断行された。それは第一世界大戦の最中の1917年(大正6年)の第39回特別議会においてでった。翌1918年の第40回議会で第一回国勢調査費を含む予算が成立し,調査実施の段取りが一挙に進んだ。背景に軍事大国への傾斜を強めた当時の情勢があったこと,国勢調査の実現が軍事上の必要に基づいて推進されたことは否定できない。第一回国勢調査の実施を前にして,1920年5月15日,内閣統計局と軍需局とが併合され国勢院が設置され,併行して軍需工業動員法(1918年),軍需調査令(1919年)が公布された。(高野岩三郎は,軍事上の必要性が突出することに対し学問的立場から反論した)。そのことを明確に示した資料として,筆者は当時の牛塚統計局長から上原勇作参謀総長にあてた意見書「国勢調査ノ軍事上必要ナル所以」(1917年[大正6年]7月)の全文掲げている(237-9頁)。
なお本文中で,筆者は国勢調査という名称の由来を明らかにしている(207-8頁)。それは「国の情勢」という意味である。センサスの訳語として「国勢調査」あてられたのは,国民が理解しやすいようにという宣伝効果が考慮されてのことであった。
日本の国勢調査は,1920年(大正9年)に,第一回目が実施されたが,その前史には紆余曲折があった。難産の末,西欧諸国での実施からかなり遅れてのスタートであった。本稿ではそのプロセスが詳細に,紹介,検討されている。
上杉正一郎「日本における第一回国勢調査(1920年)の歴史的背景-統計史にあらわれた日本資本主義の特質について-」(1960年),松田泰二郎「国勢調査発達史」(1948年),泉俊衛「国勢調査」(1971年)などの先行研究の成果をおさえ,また当時の一次資料を豊富に活用し,当該テーマを体系的に論じている。全体の構成は,次のようである。
「はじめに」「1.発端期の人口統計:(1)人口統計史序,(2)人口統計の端緒『駿河国沼津・原政表』」「2.人口統計の期限:(1)戸籍編成と人口調査,(2)『戸籍法』制定と戸口調査」「3.人口統計の胎動:(1)太政官政表課の設置,(2)「甲斐国現在人別調」の実施,(3) 「甲斐国人員運動調」の中絶」「4.国勢調査の濫觴:(1)国勢調査序史,(2)『全国人口調査』暗礁に,(3)民間統計団体の促進運動,(4)人口動態統計の整備」「5.国勢調査促進運動の本格的展開,(1)国際統計協会からの勧誘,(2)『国勢調査ニ関スル法律』の制定,(3)『国勢調査』の由来,(4)1905年『国勢調査』の暗転」「6.地域と人口調査:(1)地域人口センサスの勃興,(2)植民地と人口調査」「7.第一回『国勢調査』の実現へ:(1)1910年『国勢調査』の見送り,(2)民間統計団体からの建議,(3)日本資本主義の展開と国勢調査,(4)軍事的要請と国勢調査,(5)再々度,民間統計団体からの支援,(6)1920年・第一回『国勢調査』の決定」「むすび」[補論 第一回『国勢調査』の概要]
以下,筆者の案内にしたがって,日本の人口統計の発展過程をたどり,第一回「国勢調査」実施にいたる足跡をたどることにしたい。
日本の人口統計の発展は,明治維新後に始まる。その過程で大きな役割を果たしたのは,杉亭二である。杉は1869年(明治2年)に駿河国を対象に人口静態調査(駿河国人別調)を行った。日本での最初の人口静態調査である。この調査では標識別の分類・整理および統計製表化の基本構造が取り入れられ,初歩的ながら統計解析もなされている。
明治期の人口動態統計は,維新政府の戸籍編成作業と軌を一に進行した。戸籍法(いわゆる検戸の法)が公布されたのは1871年(明治4年),この戸籍法にもとづいて1872年(明治5年)1月29日現在の戸口調査が行われた。その内容には多くの難点(前近代性)を内包していたが,採用された一戸ごとの点計主義の調査方法,さらに戸籍票・職分表の作成など,日本の人口静態統計,動態統計の起点に位置するものである。
しかし,戸籍にもとづく戸口調査を基礎にした人口統計作成に批判的であり,「人別調」と「戸口調」とが本質的に異なるとの認識にたっていた杉は,全国人別調の必要性を建議した。しかし,おりから中央統計機関としての機能をはたすものと考えられていた太政官製表課が縮小される憂き目にあい,くわえて西南戦争という事態が生じ,杉の建議はなかなか受け入れられなかった。宿願は「甲斐国現在人別調」(1879年[明治12年]12月31日現在)として実現した。筆者はこの「甲斐国現在人別調」について次の評価を与えている,すなわちこの調査は「杉が多年にわたり吸収,蓄積につとめた統計思想を具体化させたものであった。しかもその後,欧州先進国諸国の統計理論,とくにドイツ社会統計学を体系的に学ぶ機会を得ることによって,科学的な認識のもとに実践化された日本の統計調査史上初の試みであった」と(176頁)。
「甲斐国現在人別調」の意義をこのようにまとめた筆者は,この調査の集計方法,調査時点の設定の仕方,調査を「現在」人口(常住的家族人口)とした根拠,職業属性の調査方法,満年齢による観察など,具体的に詳しくその内容を点検している。(その後,人口動態調査「甲斐国人員運動調」(1883年[明治16年])が統計院によって企画されるが,同年12月の内閣制度の大改革に遭遇し,頓挫)。
杉にとって「甲斐国現在人別調」は,国勢調査の予備的試験調査の役割をもつものと,意識されていた。すなわち,この調査は「全国現在人別調」につながるはずのものであった。しかし,事態は思うとおりに進まなかった。財政問題,専門スタッフ(統計職員)の不足,中央統計機構の機構改革(機能縮小)がその前途をはばみ,杉は「甲斐国現在人別調」に続き,「全国現在人別調」の前段に行われる予定であった東京府の人口調査も断念している。もっとも,この間,人口統計の整備が全く進まなかったわけではない。戸籍業務にもとづく人口動態統計の整備は,地道に取り組まれていた。人口静態統計調査は1898年に第一回調査が実施され,以来5年ごとに取り組まれ(精度の低さは否めなかったが),その中間年次には人口動態統計での補完があった。また,政府レベルでの国勢調査に向けた足取りの遅滞とは裏腹に,民間レベルでの統計団体の不断の取り組み,統計関係者の熱心な啓蒙活動には見逃せないものがあった。1876年(明治9年)に結成されたスタチスチック社,1878年(明治11年)に創立した東京統計協会の活動がそれである。杉亭二,呉文聰,高橋二郎,横山雅男,臼井喜之作,相原重政などの統計関係者は断続的であったが,国勢調査促進の運動に関わった。
停滞していた国勢調査実施の動きは,国際統計協会から日本政府にあてられた1900年「世界人口センサス」への参加勧誘を契機に再燃する。すなわち,国際統計協会は1985年8月にスイス・ベルンで開催された会議で,世界人口センサスの実施が提案,決議された。この決議は,同協会・報告委員ギュイヨーム(スイス連邦統計局長)より,日本の内閣統計局長に伝達依頼された。この勧誘は沈滞気味であった国勢調査促進運動を活発化させた。具体的には,国勢調査促進運動に長年にわたり展開してきた東京統計協会による建議の提出,衆貴両院議長への請願の提出などである。しかし,この機に及んでも政府の対応は鈍かった。政府の方針は,人口センサスへの参加より,統計専門機関の整備が先決であった。確かに,ぬきさしならない事情はあった。朝鮮出兵,日清戦争開戦,台湾占領などにともなう軍備拡張,戦後経営の負担である。結果として,種々の要望はむなしく,1900年人口センサスの施行は実現とならなかった。
その後,1898年(明治31年)6月,伊藤博文内閣総辞職,初代統計院長を務めた大隈重信内閣の成立で事情は,変わる。同年10月22日,内閣統計課は内閣統計局に格上げがそれである。職員は拡充され,統計業務に国勢調査の研究が位置付けられ,欧米への実地調査が組まれるにいたる。民間レベルでは,東京統計協会,統計学社,統計懇話会の3団体において,「人口調査審査委員会」が選出され,国勢調査に関する予算,方法などの検討に手がつけられるようになる。こうした動きに支えられ,1902年(明治35年)2月18日,「国勢調査ニ関スル法律案」が衆議院へ提出され,3月6日,両院を通過し,12月1日,公布の運びとなった。
ここまで来れば国勢調査の実施は可能なようにみえるが,政府は国際環境の変化,財政難などを理由に,この種の全国的規模の調査が未経験であったことも手伝って,その実現に踏み切れなかったようである(調査項目の検討などでは一定の前進はあった)。1905年,1910年,1915年と調査は見送られ,実現されたのは漸く1920年のことである。筆者はこの間の事情,例えば地域人口センサスが相次いで実施されたこと(熊本市,東京市,神戸市,札幌区,新潟県佐渡郡,京都市),植民地台湾で戸口調査が行われたこと(1905年),朝鮮では土地所有権の再確認という名目で土地調査が行われたこと(1910-18年)を紹介している。筆者はこれらの調査の内容を詳らかにしている。
1920年国勢調査実施は,寺内正毅内閣(軍閥内閣)によって断行された。それは第一世界大戦の最中の1917年(大正6年)の第39回特別議会においてでった。翌1918年の第40回議会で第一回国勢調査費を含む予算が成立し,調査実施の段取りが一挙に進んだ。背景に軍事大国への傾斜を強めた当時の情勢があったこと,国勢調査の実現が軍事上の必要に基づいて推進されたことは否定できない。第一回国勢調査の実施を前にして,1920年5月15日,内閣統計局と軍需局とが併合され国勢院が設置され,併行して軍需工業動員法(1918年),軍需調査令(1919年)が公布された。(高野岩三郎は,軍事上の必要性が突出することに対し学問的立場から反論した)。そのことを明確に示した資料として,筆者は当時の牛塚統計局長から上原勇作参謀総長にあてた意見書「国勢調査ノ軍事上必要ナル所以」(1917年[大正6年]7月)の全文掲げている(237-9頁)。
なお本文中で,筆者は国勢調査という名称の由来を明らかにしている(207-8頁)。それは「国の情勢」という意味である。センサスの訳語として「国勢調査」あてられたのは,国民が理解しやすいようにという宣伝効果が考慮されてのことであった。