泉弘志「労働価値計算による剰余価値率推計への若干の批判について」『剰余価値率の実証研究』法律文化社,1992年
本稿は,剰余価値率推計の価値レベルでの試算(泉方式)を行った筆者が,この試算に対する批判に反論したものである。
筆者の試算に対する批判は,山田喜志夫,山田貢,岩崎俊夫によって行われた。山田喜志夫は論文「産業連関論の検討」『統計学』(7号,1958年11月)で,レオンチェフ体系が労働価値説を前提としているCameronの見解をただした箇所が,筆者の見解と間接的に関わるとしている。山田(喜)はCameron批判のなか産業連関表の投入係数を使った連立方程式を解くことがスミスのドグマに通ずると批判している(野澤正徳「静学的産業連関論と再生産表式(1)『経済論叢』[98巻6号,1966年]にも同様の指摘がある-要約者)。この指摘は,泉方式の価値計算と密接に関わる。
筆者はこの指摘が誤りであると述べている。その理由の第一は,スミスのドグマは社会生産物を考えるときには,個別資本の観点に立って考えるときとは異なり,C(不変資本)部分は解消してv+mだけから構成されると考えるという見解であるが,投入係数とか逆行列係数は付加価値が存在するにはそれと一定の比例関係でCが必ず存在することを積極的に示しているからである。第二の理由は,Cとv+m が加算可能なのは両者の同質性が前提とされているからであり,両者の同質性を主張することがスミスのドグマではないからである。第三の理由は,労働価値計算の方法ではその年の労働量(≒新価値)と投入係数とで生産物価値が決まることになっており,C部分についてはその生産手段を実際に生産するのに必要であった労働量によって決まることになっていないが,このこともスミスのドグマとは無関係だからである。
筆者は次に山田(貢)「剰余価値率・利潤率[コメント]」『統計学』(30号,1976年8月)における「『価値レベルでの剰余価値率』という概念は存在しない」という見解,また「労働力の価値を労働時間で測りうるか」『統計学』(34号,1978年)における「不変資本に投下されている労働量は計算できない」という見解に反論を加えている。山田の主張は,どのような労働も同等な人間労働として同じ時間には同じ価値を生み出すのが大前提なので,労働力の価値が同じであれば,剰余価値率は社会的平均労働に関してどの産業部門でも,どの企業規模でも同等である,すなわち生産された剰余価値の率は同じであるというものである。この山田(貢)見解について筆者は,①現実には産業部門別にかなりの労働時間の差があり,この労働時間に応じて価値が生産されているはずなので,労働力価値が等しいと仮定すると,産業部門別,企業規模別で剰余価値率に差が出てくる,②現実には労働力価値(労働力の再生産のために使われている生活手段の価値)には産業部門間,企業規模間で大きな差がある,③現実に産業部門間,企業規模間で労働時間と労働力価値との間に比例関係はなく,かえって労働時間が長い部門に低賃金が見られる,と反論している。また国民的剰余価値率に関する山田(貢)の見解,すなわち労働力の価格と区別した意味で労働力の価値そのものを測ることができない以上,価値レベルの剰余価値率という概念は存在しないという考えに対しては,科学的経済学の概念で具体的数量的に把握できない概念はいくらでもあるのだから,剰余価値率についてもそれが現時点の統計資料で測定できないからと言って「価値レベルの剰余価値率という概念は存在しない」というべきではない,筆者は置塩信雄による方法にしたがって試算を初め,少しずつ改善して近似計算の精度を高めていきたいという意向の表明を行っている。
「不変資本に投下されている労働量は計算できない」という山田(貢)の見解は,3点にしぼられる。第一は,固定資本の価値計算の技術的可能性に関してで,その過去への遡及計算の不可能性である。筆者はこの点については,泉方式でのこの部分の労働価値計算は現在の平均的条件で再生産するためにどれだけの労働時間が必要なのかということなので問題にならない,と指摘している。第二は,労働時間と交換価値がイコールなのかという理論問題である。筆者はマルクスにしたがって商品の価値は社会的必要労働で決定される,山田のこの問題提起は生産価格や市場価格が価値からどのように乖離するかということで,価値そのものが変化するということではない,と応酬している。第三は,一円当り直接,間接労働時間を計算する方法が貨幣の本質からいって可能なのかどうかと問うて,「結局,1円当り価値(労働時間)の変化というのは金の価値の変化をしめすことになる」としているが,筆者によればそうではなく単位当たりの直接,間接労働時間を計算したのであると,言明している。筆者はこの他,7点にわたる山田(貢)の疑問に逐一具体的に検討をくわえ,自説の確認,反論を行っている。
最後に筆者は岩崎俊夫「産業連関表の対象反映性」『経済論集』(北海学園大学)(30巻4号,1983年3月)における泉方式批判をとりあげている。この論稿での岩崎による批判の論点は,第一に価値,剰余価値という直接に可測できないカテゴリーの数量的認識がたとえ試算としても不可能なのではないか,ましてや信頼性,正確性という点で疑問の多い産業連関表にもとづいてそれを行おうとするのは無理ではないか,第二に理想的平均を前提とした「資本論」の論理次元の基礎範疇の国家独占資本主義段階(再生産全体にわたり歪曲,不均衡を常態とする)の論理次元での転化についての理論的考察がないままに,経済現象の表象整理にすぎない連関表を使って価値レベルの剰余価値率の計算を行おうとしているが,それはできない相談であるという内容のものである。
岩崎は一連の論稿(すなわち「産業連関表にもとづく剰余価値率計算と社会的必要労働量による価値量規定命題-泉方式の理論的検討-」『経済論集』(北海学園大学)(36巻3号,1989年1月),「剰余価値率の統計計算と市場価値論次元の社会的必要労働量-泉方式の意義と問題点-」『経済論集』(北海学園大学)(37巻4号,1990年3月),「価値レベル剰余価値率計算の泉方式について-投下労働計算としての意義・価値計算としての限界」『統計学』(59号,1990年9月)によって泉方式について真正面からとりあげ,論じている。
岩崎による批判は,泉方式が労働量計算であり,価値計算ではないことを価値形態論の論理や市場価値論の論理を使って主張しているのが特徴である。岩崎は,泉方式が価値生産物の労働時間への換算で「流動化している労働の形」を採用し,労働力価値の労働時間への換算で「対象化された労働の形」をとり,この点で整合性がないこと,推計している労働力価値は労働力の再生産に使われている生活手段の価値であるが,真の労働力価値は労働力の再生産に必要な生活手段の価値であること,現代資本主義のもとでは価値範疇は商品論,生産価格論の論理次元と別様の規定を受けるにもかかわらず,泉方式がその点を考慮していないこと,関連してこの方式が現代資本主義の再生産構造について誤解(長期的にみると均衡状態を想定できるとの理解)を前提に成り立っているのではないか,というものである。
これらの批判に対し筆者は,労働計算に独自の意味があることを確認したうえで,労働計算と価値計算,価値量の測定・分析とがどういう関係になっているのかが重要であること,労働計算がどういう場合に価値計算の近似計算として意味をもち,さらに労働量を基礎にしてどういうデータがあれば価値量の測定になるのかを考察することこそが重要である,と述べている。また筆者は,マルクスの価値形態論では過去に取引された商品にどれだけの社会的労働が投下されていたかの認知を問題としていない,社会的必要労働の量は過去の一定期間に関して社会全体について取引された商品の量と労働の量に関する統計資料が整備されれば計算できる,市場価値論次元でも社会的必要労働量は現存の平均的な生産諸条件のもとで必要な労働量で決定されるという量的規定性は変更されない,価値生産物の労働時間への換算における「流動化している労働の形」の採用と,労働力価値の労働時間への換算における「対象化された労働の形」の採用との間に不整合性は存在しない,剰余価値率計算の分母にある労働力価値は労働力の再生産に使われている生活手段の価値である,価値とか社会的必要労働という概念の理解に理想的平均を前提する必要はない,価値方程式の係数を求めるためのデータとして産業連関表を利用することに関して,そのことと需給一致の均衡状態を前提とするかどうかは関係ない,と縷々述べている。
要するに筆者は近似計算としての価値計算にこだわり,この価値計算を現存の平均的な生産諸条件のもとで決定される社会的必要労働量の測定として行うが,この測定が産業連関表を使って可能とするわけである。これに対し,岩崎は剰余価値率計算の泉方式が労働時間還元法であり,それだけでこの方式の意義づけとして十分であり,それを価値(レベル)の計算としなければならない経済学的根拠が弱い,と述べているのである。
筆者はこの他,1982年の全国総会でのシンポジウム「数理的手法の政策樹立や分析における有効性をめぐって-特にI.O.表分析の有効性について-」(土居英二「生活関連公共投資と雇用効果-産業連関分析による試算-」;泉弘志「産業連関表による労働生産性・剰余価値率の国際比較」;岩崎俊夫「産業連関分析の有効性再考」)での議論の紹介,検討を行っているが,ここでは省略する。
本稿は,剰余価値率推計の価値レベルでの試算(泉方式)を行った筆者が,この試算に対する批判に反論したものである。
筆者の試算に対する批判は,山田喜志夫,山田貢,岩崎俊夫によって行われた。山田喜志夫は論文「産業連関論の検討」『統計学』(7号,1958年11月)で,レオンチェフ体系が労働価値説を前提としているCameronの見解をただした箇所が,筆者の見解と間接的に関わるとしている。山田(喜)はCameron批判のなか産業連関表の投入係数を使った連立方程式を解くことがスミスのドグマに通ずると批判している(野澤正徳「静学的産業連関論と再生産表式(1)『経済論叢』[98巻6号,1966年]にも同様の指摘がある-要約者)。この指摘は,泉方式の価値計算と密接に関わる。
筆者はこの指摘が誤りであると述べている。その理由の第一は,スミスのドグマは社会生産物を考えるときには,個別資本の観点に立って考えるときとは異なり,C(不変資本)部分は解消してv+mだけから構成されると考えるという見解であるが,投入係数とか逆行列係数は付加価値が存在するにはそれと一定の比例関係でCが必ず存在することを積極的に示しているからである。第二の理由は,Cとv+m が加算可能なのは両者の同質性が前提とされているからであり,両者の同質性を主張することがスミスのドグマではないからである。第三の理由は,労働価値計算の方法ではその年の労働量(≒新価値)と投入係数とで生産物価値が決まることになっており,C部分についてはその生産手段を実際に生産するのに必要であった労働量によって決まることになっていないが,このこともスミスのドグマとは無関係だからである。
筆者は次に山田(貢)「剰余価値率・利潤率[コメント]」『統計学』(30号,1976年8月)における「『価値レベルでの剰余価値率』という概念は存在しない」という見解,また「労働力の価値を労働時間で測りうるか」『統計学』(34号,1978年)における「不変資本に投下されている労働量は計算できない」という見解に反論を加えている。山田の主張は,どのような労働も同等な人間労働として同じ時間には同じ価値を生み出すのが大前提なので,労働力の価値が同じであれば,剰余価値率は社会的平均労働に関してどの産業部門でも,どの企業規模でも同等である,すなわち生産された剰余価値の率は同じであるというものである。この山田(貢)見解について筆者は,①現実には産業部門別にかなりの労働時間の差があり,この労働時間に応じて価値が生産されているはずなので,労働力価値が等しいと仮定すると,産業部門別,企業規模別で剰余価値率に差が出てくる,②現実には労働力価値(労働力の再生産のために使われている生活手段の価値)には産業部門間,企業規模間で大きな差がある,③現実に産業部門間,企業規模間で労働時間と労働力価値との間に比例関係はなく,かえって労働時間が長い部門に低賃金が見られる,と反論している。また国民的剰余価値率に関する山田(貢)の見解,すなわち労働力の価格と区別した意味で労働力の価値そのものを測ることができない以上,価値レベルの剰余価値率という概念は存在しないという考えに対しては,科学的経済学の概念で具体的数量的に把握できない概念はいくらでもあるのだから,剰余価値率についてもそれが現時点の統計資料で測定できないからと言って「価値レベルの剰余価値率という概念は存在しない」というべきではない,筆者は置塩信雄による方法にしたがって試算を初め,少しずつ改善して近似計算の精度を高めていきたいという意向の表明を行っている。
「不変資本に投下されている労働量は計算できない」という山田(貢)の見解は,3点にしぼられる。第一は,固定資本の価値計算の技術的可能性に関してで,その過去への遡及計算の不可能性である。筆者はこの点については,泉方式でのこの部分の労働価値計算は現在の平均的条件で再生産するためにどれだけの労働時間が必要なのかということなので問題にならない,と指摘している。第二は,労働時間と交換価値がイコールなのかという理論問題である。筆者はマルクスにしたがって商品の価値は社会的必要労働で決定される,山田のこの問題提起は生産価格や市場価格が価値からどのように乖離するかということで,価値そのものが変化するということではない,と応酬している。第三は,一円当り直接,間接労働時間を計算する方法が貨幣の本質からいって可能なのかどうかと問うて,「結局,1円当り価値(労働時間)の変化というのは金の価値の変化をしめすことになる」としているが,筆者によればそうではなく単位当たりの直接,間接労働時間を計算したのであると,言明している。筆者はこの他,7点にわたる山田(貢)の疑問に逐一具体的に検討をくわえ,自説の確認,反論を行っている。
最後に筆者は岩崎俊夫「産業連関表の対象反映性」『経済論集』(北海学園大学)(30巻4号,1983年3月)における泉方式批判をとりあげている。この論稿での岩崎による批判の論点は,第一に価値,剰余価値という直接に可測できないカテゴリーの数量的認識がたとえ試算としても不可能なのではないか,ましてや信頼性,正確性という点で疑問の多い産業連関表にもとづいてそれを行おうとするのは無理ではないか,第二に理想的平均を前提とした「資本論」の論理次元の基礎範疇の国家独占資本主義段階(再生産全体にわたり歪曲,不均衡を常態とする)の論理次元での転化についての理論的考察がないままに,経済現象の表象整理にすぎない連関表を使って価値レベルの剰余価値率の計算を行おうとしているが,それはできない相談であるという内容のものである。
岩崎は一連の論稿(すなわち「産業連関表にもとづく剰余価値率計算と社会的必要労働量による価値量規定命題-泉方式の理論的検討-」『経済論集』(北海学園大学)(36巻3号,1989年1月),「剰余価値率の統計計算と市場価値論次元の社会的必要労働量-泉方式の意義と問題点-」『経済論集』(北海学園大学)(37巻4号,1990年3月),「価値レベル剰余価値率計算の泉方式について-投下労働計算としての意義・価値計算としての限界」『統計学』(59号,1990年9月)によって泉方式について真正面からとりあげ,論じている。
岩崎による批判は,泉方式が労働量計算であり,価値計算ではないことを価値形態論の論理や市場価値論の論理を使って主張しているのが特徴である。岩崎は,泉方式が価値生産物の労働時間への換算で「流動化している労働の形」を採用し,労働力価値の労働時間への換算で「対象化された労働の形」をとり,この点で整合性がないこと,推計している労働力価値は労働力の再生産に使われている生活手段の価値であるが,真の労働力価値は労働力の再生産に必要な生活手段の価値であること,現代資本主義のもとでは価値範疇は商品論,生産価格論の論理次元と別様の規定を受けるにもかかわらず,泉方式がその点を考慮していないこと,関連してこの方式が現代資本主義の再生産構造について誤解(長期的にみると均衡状態を想定できるとの理解)を前提に成り立っているのではないか,というものである。
これらの批判に対し筆者は,労働計算に独自の意味があることを確認したうえで,労働計算と価値計算,価値量の測定・分析とがどういう関係になっているのかが重要であること,労働計算がどういう場合に価値計算の近似計算として意味をもち,さらに労働量を基礎にしてどういうデータがあれば価値量の測定になるのかを考察することこそが重要である,と述べている。また筆者は,マルクスの価値形態論では過去に取引された商品にどれだけの社会的労働が投下されていたかの認知を問題としていない,社会的必要労働の量は過去の一定期間に関して社会全体について取引された商品の量と労働の量に関する統計資料が整備されれば計算できる,市場価値論次元でも社会的必要労働量は現存の平均的な生産諸条件のもとで必要な労働量で決定されるという量的規定性は変更されない,価値生産物の労働時間への換算における「流動化している労働の形」の採用と,労働力価値の労働時間への換算における「対象化された労働の形」の採用との間に不整合性は存在しない,剰余価値率計算の分母にある労働力価値は労働力の再生産に使われている生活手段の価値である,価値とか社会的必要労働という概念の理解に理想的平均を前提する必要はない,価値方程式の係数を求めるためのデータとして産業連関表を利用することに関して,そのことと需給一致の均衡状態を前提とするかどうかは関係ない,と縷々述べている。
要するに筆者は近似計算としての価値計算にこだわり,この価値計算を現存の平均的な生産諸条件のもとで決定される社会的必要労働量の測定として行うが,この測定が産業連関表を使って可能とするわけである。これに対し,岩崎は剰余価値率計算の泉方式が労働時間還元法であり,それだけでこの方式の意義づけとして十分であり,それを価値(レベル)の計算としなければならない経済学的根拠が弱い,と述べているのである。
筆者はこの他,1982年の全国総会でのシンポジウム「数理的手法の政策樹立や分析における有効性をめぐって-特にI.O.表分析の有効性について-」(土居英二「生活関連公共投資と雇用効果-産業連関分析による試算-」;泉弘志「産業連関表による労働生産性・剰余価値率の国際比較」;岩崎俊夫「産業連関分析の有効性再考」)での議論の紹介,検討を行っているが,ここでは省略する。