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雀庵の「諜報活動/インテリジェンスと日本(10」

2021-04-13 17:19:08 | 日記
雀庵の「諜報活動/インテリジェンスと日本(10」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/284(2021/4/13/火】図書館で借りた「インテリジェンス 1941 ― 日米開戦への道 知られざる国際情報戦」は今日返却しなければならない。焦りまくるうちに現役時代の「締め切り」を思い出した。


取材は済ませていても「書く、記事にする、公開する」というのは責任を伴うから、本番である。それなりに真剣に、理路整然と書き、突っ込まれないようにしないと読者から反発を食らう。良い記事を書いても読者からすれば「それは当たり前」のことだから反応はあまりないが、いい加減な記事を書くとすぐにクレームが来る。


部下が書いた記事でも、十分にチェックしないと、こちらにクレームが来るから、「ご説ごもっとも」の際は謝りに行き、訂正記事を書く。トホホの気分だ。それでも日刊、週刊、月刊、年刊と、毎日が締め切りだから落ち込んでいるわけにはいかない。ストレスから酒もあおり、やがて胃袋に穴が開き、リタイアするのが記者の普通の流れではないか。それでも生まれ変わっても「やっぱり記者がいい」と言う人は多いだろう。大変、エキサイティングで面白い仕事だと思う。閑話休題。上記の本の要約を「焦りまくりつつ」続ける。


<真珠湾攻撃。世界史を塗り替え、軍事の常識をひっくり返したこの作戦の発案者は連合艦隊司令長官・山本五十六だった。彼もハーバード大学に留学し、ワシントンの海軍武官室で諜報任務にあたった。航空機という最先端の軍事情報の収集・分析をこなした経験が真珠湾攻撃計画に活かされている。


艦隊が正面からぶつかり、巨大戦艦の主砲で雌雄を決する「大艦巨砲主義」の時代から、空母を飛び立った航空戦力が制空権を奪い合う「航空主兵」の時代へ。


米太平洋艦隊最大拠点、ハワイ真珠湾基地の強襲作戦には大きな問題点があった。基地周辺の地理や艦船の入港状況がはっきり分からなかったのである。そうした情報がなければ、まるで目隠しで適地に攻撃を仕掛けるようなものだった。


真珠湾基地の調査のため、海軍軍令部からスパイ・吉川猛夫が外交官を装い、1941年3月、オアフ島ホノルルの日本料亭に潜伏していた。真珠湾の海軍基地を中心に、島のあちこちには米空軍が築いた飛行場が点在し、内陸には陸軍の精鋭一個師団が駐留していた。鉄壁の守りで、世界最強の要塞島に奇襲をかけるのは自殺行為に等しかった。


「弱点はどこにあるのか」、吉川は芸者とともに遊覧飛行機に乗っていた。視界に一本の線が見えた。オアフ島の南北を縦断する山間の深い谷である。谷はまっすぐ南の真珠湾へ繋がっていた・・・


9月6日、御前会議で「南方資源の獲得を第一とすべき」となり、連合艦隊の真珠湾攻撃計画には否定的だった。10日後、ハワイ作戦の図上演習が行われたが、結果は米軍の哨戒線に引っ掛かり攻撃機の半数が撃墜、空母2隻撃沈という、惨憺たるものだった。青ざめた参謀たちはハワイ作戦撤回を具申したが、山本の信念は揺るがなかった。


10月中旬、ホノルルの吉川に盗聴を避けるため密使から97項目の手書き指令が届いた。回答に悩んだのが、「何曜日に最も多くの船が入港しているか」だった。真珠湾攻撃で最大のダメージを与えるには奇襲しかない。米艦隊の主力が真珠湾に集結していなければ水泡に帰する。二度と奇襲のチャンスは訪れず、日本が勝利する可能性も潰えるだろう。


吉川は「日曜日」と書き、カレンダーを見た。12月7日(日本時間8日)は日曜日だった>(つづく)
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資源小国の日本は鉄鉱石や屑鉄、石油など基幹資源を米国に大きく依存していた。アジアにおける列強の植民地獲得競争において、日米は英仏蘭に大きく後れをとり、日本は満洲族の清朝崩壊後に最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を擁して満洲国を建国した。


米国にとってこれは面白くない。太平洋地域、今で言う第一列島線からミッドウェーの第二列島線までも自分の領域にしたいのに、日本は台湾、朝鮮、満洲など版図を広げている。このままでは支那大陸すべてが併呑されかねない、という危機感を米国は募らせたろう。そのために蒋介石を支援して対日攻勢を強め、日本への資源輸出を縮小するなど敵対政策を強めていった。


日本は米国との戦争を避けられないと想定していたし、米国FDRルーズベルト政権も欧州戦線に参戦するには日本を挑発して戦端を開かせ、それを突破口としたかった。日米双方の機が熟したわけだ。


日本は対米戦争のためにも「南方資源の獲得=仏印進駐」は優先課題だった。「日本大百科全書」の解説から引用する。


<対独降伏後のフランスのビシー政権を日本が圧迫し、協定によって行った仏領インドシナの軍事占領。日本の南進政策の重要な一歩として太平洋戦争の原因の一つとなった。


1)北部仏印進駐。援蒋ルート遮断の名目で1940年(昭和15)8月30日に日本軍隊の通過、飛行場使用、駐兵を認める松岡‐アンリ協定が締結された。9月23日から南支那派遣軍所属の2万5000の兵が進駐した。


2)南部仏印進駐。南方作戦のための基地獲得のねらいで、1941年7月28日から行われた。フランスは日本の要求をのみ、日仏議定書(同29日調印)の締結に応じたので、無血進駐となった。しかし、これにより日米関係は極度に悪化し、アメリカは在米日本資産の凍結(7月25日)、対日石油輸出の全面禁止(8月1日)に踏み切り、イギリス、オランダもこれに倣った>


仏印進駐により日本は対米開戦の裏付けが一応できたが、対米開戦が妥当だったかどうかは小生には分からない。米国の挑発に対して夏彦翁は「支那から撤収すると言ってグズグズしていれば良かったかもしれない(その間に戦況は変わるだろう)」と書いている。それも一つの策だが、日本が「大東亜共栄圏」を掲げて欧米列強に「窮鼠猫を噛む」的に挑んだ結果、多くの植民地が宗主国を駆逐し独立したことも人類史で大きく刻まれるべき成果だったと思う。


あの戦争で英仏蘭などはほとんどの美味しい植民地を失い、勝者は米国のみだった。その米国も今や“盛者必滅”、求心力は急速に落ちてきた。EUあたりは「米中でガチンコさせて両雄共に疲労困憊」にさせたらいいんじゃないか、と本心では思っていそうだ。中共が籠城し、米が城攻めで抑え込む、EUや日本は義理で一応は米を応援するが、ちょっと距離を置くという、「協力すれど介入せず」のフグリ戦略とか。


日本の政治家や軍人、経済人、記者も「その時」のことを結構真剣に考えているはずだ。小生は中共包囲網=長城作戦を唱えているが、専門家にその青写真を描いてもらいたいものである。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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