杜甫は疲れた体を引きずりながら歩いていた。
安禄山の陣営に幽閉されながら、なんとか脱出してとぼとぼ歩いていた。考えれば考えるほど、何とかならなかったものかという思いが湧いてくる。しかし、もう取り返しがつかない。過去の事はもう元へは返せない。
玄宗皇帝を責めてもどうにもならないことは分っている。しかし、思いは何度もそこへ廻って行く。
思わず頭を掻きむしる。爪の間、指の間に白髪がまとわりつく。
「もう簪もさせなくなったな」と独り言を言う。
家族と連絡をつけようにも手紙を届けるすべもない。
杜甫の眼には、人の世の混乱と裏切り、暴力と屈従が刻み込まれていた。
ふと、路傍を見た杜甫の眼には、花が一輪映った。
「何の花だったか・・・」また杜甫はひとりごちた。くずれかけた土塀を過ぎたとき、青く芽吹いた草原が目に入った。
自然は変わらない。人間が権力と地位、名誉と金に目がくらんでいる間も自然は変わらない。
杜甫の胸の中を涼風が吹き抜けた。
しかし、またいらいらが募ってくる。思わず知らず頭に手がいっている。
「もし」と声をかけられた。
杜甫と同じくらいの年恰好なのだが、異国の匂いがする。流暢な言葉を操っている割には、どこか違和感を感じる。
「どこの国の御方かな?」
「東の方、日本からやってまいりました。中国語は現地の方には負けぬほどと思っておりましたが、やはり途中から身につけたものはどこか違うものなのですね」
小さな茶店で二人は休むことにした。貴重になった甘い菓子を茶店のオヤジは供してくれた。
杜甫は、ここで初めて名乗ることにした。
男はほとんど飛びすざるようにして平伏した。
「麗名は伺っております」
杜甫は、少しうれしかった。東の方から苦労してやってきた異人の間でも自分の名を重んじてくれる者がいることが嬉しかった。
男は、杜甫の頭のてっぺんからつま先までを子細に見た。そして言った。
「鬘をご用意しましょう」
「いやいやそれには及ばぬ、御厚意は嬉しいが、私の歳ともなれば自然なこと、お気遣いなさるな」
杜甫の言葉を聞いてか聞かずか、男は背中に背負っていた荷物を下し、幾段かに仕切ってあった内部から、箱を取り出してきた。
「部分鬘でございます。薄毛が進行しはじめた方にお勧めです。これをお使いになれば、簪はもとのようにさすことができるようになりますよ」
あの時の独り言を聞かれたのかと杜甫は思った。男は杜甫の背後にまわり、器用な手つきで部分鬘を装着し始めた。
「鏡をご覧になってください」と言う男の声とともに、鏡が杜甫の前に差し出された。なるほどよくできている。簪を指してみたが、しっかりと毛が支えてくれる。
「御代はいくらかな?」と杜甫は訊ねた。
「いいえ、いっさいいただきません。唐の大詩人の鬘を作らせていただいただけでも末代までの名誉でございます」
「いや、それでは私の気が済まぬ」と杜甫も引かない。
「では、詩をお作り頂いてこの紙に揮毫していただけれは末代までの誉れとなりましょう」
こうして作られたのが「春望」であり、この鬘屋の末裔がのちに日本に渡って増毛の世界で産をなしたという事は知られていない。
安禄山の陣営に幽閉されながら、なんとか脱出してとぼとぼ歩いていた。考えれば考えるほど、何とかならなかったものかという思いが湧いてくる。しかし、もう取り返しがつかない。過去の事はもう元へは返せない。
玄宗皇帝を責めてもどうにもならないことは分っている。しかし、思いは何度もそこへ廻って行く。
思わず頭を掻きむしる。爪の間、指の間に白髪がまとわりつく。
「もう簪もさせなくなったな」と独り言を言う。
家族と連絡をつけようにも手紙を届けるすべもない。
杜甫の眼には、人の世の混乱と裏切り、暴力と屈従が刻み込まれていた。
ふと、路傍を見た杜甫の眼には、花が一輪映った。
「何の花だったか・・・」また杜甫はひとりごちた。くずれかけた土塀を過ぎたとき、青く芽吹いた草原が目に入った。
自然は変わらない。人間が権力と地位、名誉と金に目がくらんでいる間も自然は変わらない。
杜甫の胸の中を涼風が吹き抜けた。
しかし、またいらいらが募ってくる。思わず知らず頭に手がいっている。
「もし」と声をかけられた。
杜甫と同じくらいの年恰好なのだが、異国の匂いがする。流暢な言葉を操っている割には、どこか違和感を感じる。
「どこの国の御方かな?」
「東の方、日本からやってまいりました。中国語は現地の方には負けぬほどと思っておりましたが、やはり途中から身につけたものはどこか違うものなのですね」
小さな茶店で二人は休むことにした。貴重になった甘い菓子を茶店のオヤジは供してくれた。
杜甫は、ここで初めて名乗ることにした。
男はほとんど飛びすざるようにして平伏した。
「麗名は伺っております」
杜甫は、少しうれしかった。東の方から苦労してやってきた異人の間でも自分の名を重んじてくれる者がいることが嬉しかった。
男は、杜甫の頭のてっぺんからつま先までを子細に見た。そして言った。
「鬘をご用意しましょう」
「いやいやそれには及ばぬ、御厚意は嬉しいが、私の歳ともなれば自然なこと、お気遣いなさるな」
杜甫の言葉を聞いてか聞かずか、男は背中に背負っていた荷物を下し、幾段かに仕切ってあった内部から、箱を取り出してきた。
「部分鬘でございます。薄毛が進行しはじめた方にお勧めです。これをお使いになれば、簪はもとのようにさすことができるようになりますよ」
あの時の独り言を聞かれたのかと杜甫は思った。男は杜甫の背後にまわり、器用な手つきで部分鬘を装着し始めた。
「鏡をご覧になってください」と言う男の声とともに、鏡が杜甫の前に差し出された。なるほどよくできている。簪を指してみたが、しっかりと毛が支えてくれる。
「御代はいくらかな?」と杜甫は訊ねた。
「いいえ、いっさいいただきません。唐の大詩人の鬘を作らせていただいただけでも末代までの名誉でございます」
「いや、それでは私の気が済まぬ」と杜甫も引かない。
「では、詩をお作り頂いてこの紙に揮毫していただけれは末代までの誉れとなりましょう」
こうして作られたのが「春望」であり、この鬘屋の末裔がのちに日本に渡って増毛の世界で産をなしたという事は知られていない。