蝸牛の歩み

「お話」を作ってみたくなりました。理由はそれだけです。やってみたら結構面白く、「やりたいこと」の一つになっています。

すれ違い

2020-01-11 23:43:42 | 日記
 「俺は約束を守る人間なんだよ」と言う言葉が、私と彼とを長い間隔てる言葉となった。その日、彼とは、朝の九時に駅の近くの喫茶店で会う約束をしていた。ところが、急速に発達した低気圧が列島に接近、猛烈な雨と風が前日から予想され、気象予報士は「不要不急の外出はお控えください」と言っていた。私が彼と会うのは、彼が最近読んでいる漫画の本に私が興味を示したため、じゃ、持ってきてやるというまさに「不要不急の外出」の典型的な例であった。
 確かに猛烈な雨と風だった。レインコートを着て、久しぶりに長靴を履き、一番大きい傘をさして家を出たのだが、歩いて普通は3分ほどで行くことができる喫茶店にたどり着くまでに10分もかかってしまった。おまけに喫茶店は臨時休業であった。雨と風とを避ける場所まで移動して、電話をした。出ない。何の応答もない。九時になった。彼は、約束を守るだけではなく、時間にも正確な人間だ。高校時代からの付き合いでそれは分っている。一秒と遅れたことがない。「まるで国鉄だな」と彼に言ったものである。
 10分ほど待ったのだが、辛抱しきれなくなって、家に帰り、ずぶぬれになった服を脱いで着替えた。ひょっとしたら、うちに来るかもしれないと思っていたのだが、来なかった。彼の家に電話をしたら、確かに出たという。帰ってきたら電話をくれるようにと伝言を頼んだが、一時間ほどして奥さんから電話があり、まだ帰ってこない、何かあったんじゃないかと心配そうな声が受話器の向こうから聞こえてきた。その日から彼は全くかき消すようにいなくなってしまった。
 二日後に、警察に行き、事情を話して捜索願を出した。ポスターも貼り、駅前でビラも撒いた。しかし、何の効果もなかった。
 一年ほど、無駄だと思いながら、ビラを撒き、道行く人に呼び掛けた。
 暑い夏の盛り、奥さんと二人でビラを撒いている時、離れたところで、人が叫ぶ声がした。見ると、奥さんが倒れていた。慌てて駆け寄り、救急車を呼んだ。そのまま緊急入院し、退院できたのは一週間後だった。毎日見舞いに行った。奥さんは寂しさと疲れを訴えた。私はただそれを黙って聞き、手を握ってあげた。
 退院の日、付き添って家まで行った。奥さんは紅茶かコーヒーかを訊ね、私はコーヒーを頼んだ。電動ミルで豆を挽き、濾紙で丁寧に入れてもらったコーヒーは、美味しかった。
 奥さんは、私に礼を述べ、これからも宜しくお願いしますと言った。私が、お邪魔しましたと帰ろうとすると、奥さんは私を送ろうとして急に立ち上がったからか、そのまま椅子に座りこんでしまった。
 大丈夫ですかと声をかけた。立てますかと言いながら手を差し出すと奥さんはゆっくり立ち上がり、そのまま私に身体を預けるようにして倒れかかった。私は奥さんを抱きしめるようなことになった。一分間ほどそうしていた。そして、私は奥さんの手を取りながら玄関まで行って、また来ますと言って外へ出た。私は石仏ではない。抱きしめるようになった時、奥さんの胸のふくらみを感じ、思わず接吻しそうになった。しかし、自制した。その直後、その時の自分を何百回もほめたくなるとは思わなかった。玄関のドアを開けたとき、そこに彼が立っていた。奥さんはぼかーんとした顔になり、次に顔をくしゃくしゃにしながら彼に抱きついた。
 三人で話すことになった。彼はあの日、漫画の本をリュックに入れ、ビニールのごみ袋を三重にしてカバーにし、私と同じようにレインコートを着、傘をさして家を出たという。100mほど歩いたところで、急に風が強くなり、飛ばされそうになった彼は電柱にしがみついたという。その直後、風が急に止み、彼を青みがかった光が包み、そのまま身体が宙に浮き、意識が無くなったという。そして、気がついたら、その電柱の横に立っていたそうだ。傘とレインコートはなかったという。あとは、とにかく約束を果たさねばと思って喫茶店に行ったのだが、私がいない。で、家に帰ってきたら私がいたということらしい。
 宇宙人にさらわれたんじゃないかと私が言うと、彼はまじめな顔になってそうかもしれないと言った。
 彼は、リュックから漫画の本を取り出して見せてくれた。
 彼が、「あっ!」と言った。
 私が覗き込むと、彼は、「ページが折ってある」と言った。
 彼は几帳面な性格で、ページを折ったりはしない。ところが、数ページにわたって折り目がついており、書き込みまでしてある。日本語ではない。英語でもない字で。
 「こんなん俺はしないよ」と彼は言った。
 「じゃ、宇宙人が君をさらったのはこれが読みたかったからか」と私は言った。
 それは、手塚治虫さんの初期の作品の初版本だった。
 彼と私と奥さんとは声を揃えて笑った。

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