西郷隆盛と“東アジアの共生” [単行本]
高 大勝(コー・デスン) (著, 原著)
西郷隆盛ときくとナゼか古臭いというイメージが勝手にわいてきてしまうのは、いろいろな本に使われる表紙の写真のせいだろうか。
しかし奄美にいると西郷に関する本を目にする機会は少なくない。
決して古くはないのです。
歴史は何度も繰り返す?。
ことしも西郷本、何冊か読んだ。
去年は薩摩の奄美・沖縄侵攻から400年の節目の年であり、また政権交代した民主党政権は、「東アジア共同体」構想を唱え、今年は「韓国併合」から100年を数え、地域の平和と安定を共同で模索しようとしている。
太平の眠りを覚ました尖閣沖の漁船衝突事件で防衛省は南西諸島の警戒監視を強化する方針であるとのニュースが先週流れたし、本書を読んだのは、23日北朝鮮による韓国・延坪島(ヨンピョンド)への砲撃のニュースを聞いた日だった。
そこで、
征韓論の西郷がナゼ「「東アジアの共生」なのか?と思ってはならない。
理由は本書を読んでいただくとして、西郷の思想形成に、壮年期の約5年間を奄美で過ごした経験が大きな影響を及ぼしたことは間違いない。奄美からこのことを発信した本は少なく、あまり注目もされていないのが現状ではなかろうか。
本書では、著者の主張の背景として、”第二章…西郷隆盛が受け継いだ「共生」のDNA”のなかで、西郷が奄美で教え、学んだことの事跡が少しだが語られている。
西郷が薩南諸島ですごした約五年の歳月は「弱者へのいたわり」に深みを与えている。P130
南九州・鹿児島も朝鮮半島文化とはつながりが深いのである。
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西郷隆盛と“東アジアの共生” 価格:¥ 1,995(税込) 発売日:2010-08 |
137年前、朝鮮使節に手を挙げ、東アジア三国同盟を目指した西郷隆盛の望みは、101年前、ハルビンで伊藤博文を暗殺した安重根(アンジュング)の主張(東洋平和論)に沿う道であることを見逃してはならない。
100年におよぶ日本と朝鮮半島の不幸な関係の淵源は、明治初期の日朝国交交渉、そして交渉頓挫を口実にした「征韓論の変」にあるとと著者はいう。
「征韓論の変」とは何か。
大久保利通は「内治優先」を口実に使節派遣の決定を不法に覆し、ライバル西郷隆盛を政府から追い出すと朝鮮半島に対する侵略行動にゴーサインを出した。p10
大久保は、留守政府の首班として成功を収めた西郷に対する屈折した感情(私憤)を「国の将来」(内治優先論)という(公憤)の包装紙につつみ、閣議決定を覆すという禁じ手を繰り出した。P180
江華島(カンファド1875年)事件をはじめ「併合」1910まで朝鮮侵略の主要な部分を担った大久保(1878年暗殺)と伊藤博文こそが「征韓論」の巨魁であった。
当時のコリアンも、西郷は「征韓論を唱えた」という通説を鵜呑みにしてきた感は否めない。
薩長閥政府が流布した「歴史のウソ」
本書は、コリアンの視点から日朝関係の実態を検証し「征韓論の変」に対する理解を深めることを目的とし、いままで見過ごされてきた事実を追いながら朝鮮の「非」を口実にした明治外交の問題点を浮き彫りにする。
司馬遼太郎
「日本語のなかにかつて存在した中国人や朝鮮人への蔑称は、近代以後の発生である。彼らが近代に遅れて古ぼけて見えるところから出た蔑称で、明治以前には存在しなかった」と指摘する(「仄かなスコットランド」『春灯雑記』朝日文芸文庫)。」本書あとがきp204
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それにしても西郷隆盛という人物なり人生なりを矛盾なくとらえることは、難しいことではある。それは西郷に限ったことではないのかも知れないが。
【目次】
序 章…「征韓論の変」
第一章…日朝国交交渉の推移
一 明治新政府の誤った外交アプローチ
二 既得権益の確保を目指す対馬藩
三 時流に乗り遅れた朝鮮の攘夷
四 「征韓論」を点火した歴史的文書
第二章…西郷隆盛が受け継いだ「共生」のDNA
一 南九州・鹿児島に残る朝鮮半島文化
二 島津氏・薩摩藩と朝鮮の交流
三 西郷が出会った朝鮮人
第三章…「勝者」が綴った歴史
一 両傑は「竹馬の友」
二 一五日の閣議欠席
三 三条の「発病」
四 近代化への適応
五 西郷使節の成否