東北アルパインスキー日誌 ブログ

東北南部の山での山スキー、山歩き、山釣りなどと共に、田舎暮らしなどの話を交えながら綴っています。

銀嶺に向かって歌え - クライマ-小川登喜男伝

2013年04月07日 | クライミング


「行為なくして山はない。情熱無くしてはいかなる偉大なことも起こりえない。山に行く情熱は、山に行くことのうち純化されるだろう。」(東北帝大山岳部ルーム日誌より)

小川登喜男(1908~1946)東京浅草の生まれ。旧制東京高等学校在学中より登山を始め、東北帝大山岳部(1928~1931在籍)では、草創期のスキー登山によって蔵王、船形山、吾妻連峰、八幡平など東北各地の山で活躍、更に東京帝大山岳部(1931~1934在籍)では、谷川岳一ノ倉沢や幽ノ沢、穂高屏風岩、劔岳の雪稜を初登攀した、昭和初年代を代表する天才クライマー。

登山史ではその名のみ高い小川だが殆ど山行記録を残さず、また肺結核で早逝したこともあって、登山の内実や人物については殆ど知られていない、“伝説の”“孤高の”と呼び慣わせるゆえんである。

著者はたまたま、東北大学山岳部の部室に遺されていた日誌を目にする機会を得て、そこに小川の生々しい肉筆を発見する。部室や蔵王小屋に集う岳友達との交情、山行報告、思惑と随想、帝大生達の青春、登山がロマンであった時代。

日誌を元に、関係者の証言や希少な文献を精査して、小川登喜男という稀有の登山家の肖像を初めて明かした力作評伝。(ブックカバーの書評より)

\2.950もする単行本を買ったのは久しぶりだが、今まで知られてい無かった小川登喜男の実像に接して一気に読んでしまった。内容が新鮮で、80年以上も前の伝説のクライマーの登攀への情熱と、クライミングのパイオニアとしての存在感の大きさを物語る本で、日本の登山史としても価値の高い評伝だと思います。

口数が少なく検挙で寡黙な方だったようですが、東北帝大を卒業後東京帝大の哲学科に再入学したほどの自身が哲学者でもあり、登山の実践と共にアルピニズムの追求とロマンを追い求めた青春と言えます。東京帝大山岳部在籍の頃から、谷川岳や補高の夏・冬と通した開拓時期は1931年~33年の3年間に集中され、その驚くべき山行と集中力には眼を見張るものがある。当時は、22歳~26歳位の若い年代だった。

今とは比べ物にならない様な粗末な装備や登攀具を駆使し、その殆どがワンディもしくは積極的なビバークによって攻略されている。ヒマラヤを目指した様な極地法は京都大学学士山岳会の白頭山遠征が1935年で最初とされていますが、それ以前のワンチャンスを狙っての一発勝負、つまり、アルパインスタイルの原点だった様に思われます。

特に興味深い点は、アプローチには粗末なスキーとアザラシシールを使って取り付き点付近に達し、登攀終了後には一気に下降してくるスタイルだ。クライミングとスキーがベストマッチした山行が多く、大きな成果をもたらすと共に生還へ繋がったのでは無いかと思います。

谷川岳の一ノ倉沢 3ルンゼ・4ルンゼ・奥壁南陵・衝立岩中央稜、幽ノ沢 左俣2ルンゼ・右俣リンネ、マチガ沢おきの耳南東稜、穂高 屏風岩1ルンゼ・2ルンゼ、明神岳5峰東壁リンネなど、今でも日本の代表的なクラッシックルートとなっている。

冬季の12月~1月に西穂・前穂・奥穂周辺のバリエーションルートを数多く開き、4月頃には剣岳の八ツ峰や源次郎尾根に単独も含めて足跡を残している。

自分は唯一穂高の屏風岩1ルンゼをかつて登った事があるが、核心部の狭いルンゼの高さ2~3mのチョックストーンのようなハングに阻まれ、難儀してA0かA1で越えた記憶があるが、小川登喜男は1本のハーケンも打たなかった事は良く知られている。

このような燃えるような情熱と集中力は一体どこからもたらされるのか?一度登ったルートを再登する事は少なく、次々とより困難な新ルートを追い求める開拓者魂がまさり、他の追従を許すことのない若きクライマーとして成長してゆく。

しかし、残念なことに社会人となってから工場で指に負傷を負い、その後クライミングからは遠ざかってしまい、41歳の若さで肺結核のため激しい登山人生に別れを告げている。

本の前編は東北帝大在籍の頃の記録で、蔵王・吾妻・船形山を中心とした山スキーの記録で、仙台の山屋にも親しみ易く登山史上の貴重な記録でも有り、後編は本題のクライマーのパイオニアとしての歴史が綴られている。

【関連サイト】 東北アルパインスキー日誌



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