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不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

San Giovanni Battista di Caravaggio

2013-04-10 12:09:22 | アート・文化

通常はローマのカピトリーノ美術館に収蔵されている
Caravaggio(カラヴァッジョ)の作品ですが、
2013年4月17日から
シエナのドゥオーモの地下礼拝堂での特別展示が始まります。

Caravaggio_01

カラヴァッジョの自然の描写力と
彼の宗教観をよく反映した作品のひとつとされています。
作品は1602年当時のローマで勢力を広げていた
Ciriaco Mattei(チリアコ・マッテイ)の依頼で制作されたものといわれ
作品の主題である洗礼者ヨハネ(San Giovanni Battista)は
明らかにマッテイの息子ジョヴァンニ・バッティスタを念頭においたもの。
もともとマッテイ家のプライベート空間を飾る作品として制作され
教会などのために描かれたものではありません。
マッテイ家の息子のために描かれているせいか、
聖ヨハネは少年の姿で描かれていますが、
洗礼者ヨハネのシンボルとして描かれる十字の杖が見当たらず、
別名「雄羊と若者(Giovane con un Montone)」といわれるように
羊が近くに描かれているうえに、
左下に燃え盛る炎が描き込まれていることから
一説では洗礼者ヨハネではなく
生贄から解放されたイサクだとする説もあります。
もちろん紅いマントやラクダ革の上着らしきものも描かれているので、
それらから洗礼者ヨハネと判断することも可能です。
いずれにしても軽く腰掛けた全裸の少年が
右側に半身をひねるような形で描かれる構図は
先時代のミケランジェロの作品から
インスピレーションを受けているとされています。

なぜシエナでの展示なのかというと、
古文書の研究の結果、
カラヴァッジョとシエナのつながりが確認されたかららしいのです。
非常に遠回りな繋がりではありますが。
シエナ出身のジュリオ・マンチーニ(Giulio Mancini)は
教皇庁付の筆頭主治医でしたが、
医者であるほか、芸術をこよなく愛するパトロンでもあり、
とりわけカラヴァッジョ派の作品を愛していたようです。
マンチーニはローマを拠点にして暮らしていたとはいえ、
彼の芸術コレクションは生まれ故郷であるシエナに保管されており
シエナで活躍する画家たちはそうした作品に触れることができ
彼らの作品にも大きな影響を与えたといわれています。
マンチーニがカラヴァッジョ自身の作品を所有していたわけではないので
飽くまでカラヴァッジョの影響を受けたカラヴァッジョ派の作品と
それに影響を受けたシエナの画家たちという
無理やりごじつけたような繋がりですが。
展示会場ではマルチメディアを通じて
カラヴァッジョ派と1600年代シエナの絵画との関係を見ることもできます。

カラヴァッジョは8枚の洗礼者ヨハネを残していますが、
私が個人的に好きなのは、この作品ではなく、
ローマのコルシーニ宮殿に収蔵されている
やはり少年の姿で描かれる作品。
荒野で疲れ果てている感じや
額にかかる前髪の感じが好きなのです。

Caravaggio_02

Il San Giovanni Battista di Caravaggio
会場: Cripta sotto il Duomo/Siena
会期:2013年4月17日から2013年8月18日まで
開館時間: 10:30-19:00
入場料:8ユーロ
詳細インフォメーション: www.operaduomo.siena.it


Cappella Rucellai annesso Museo Marino Marini

2013-02-27 18:54:44 | アート・文化

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会からも近く
ルチェッライ宮殿の裏手の
同名の広場にある旧サン・パンクラツィオ教会
(ex-chiesa di San Pancrazio)は
すでに神聖を解かれ、一時は葉巻製造工場だったり
軍隊の倉庫であった時代もありますが、
現在はマリーノ・マリーニ美術館
(Muse di Marino Marini)となっています。
ただ、この教会の一部のみは、神聖をとかれることがなく、
そこにルチェッライ礼拝堂(Cappella Rucellai)があります。
同名の礼拝堂はサンタ・マリア・ノヴェッラ教会内にもあり、
そちらのほうが一般には知られているのかもしれません。

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教会の名前に冠されているパンクラツィオは
4世紀の初めにわずか14歳で殉教したと伝えられる聖人です。
教会の起源は古く、
シャルルマーニュ(Carlo Magno)が建設した
との記述も残っているようです。
1300年代から増築改装が始まり、
1400年代後半になると
Giovanni Rucellai(ジョヴァンニ・ルチェッライ)が
お気に入りの建築家Leon Battista Alberti
(レオン・バッティスタ・アルベルティ)に
教会左脇の礼拝堂の改装を依頼します。
この改装は1467年に完了し、
ここには現在までアルベルティの小さな傑作が残されています。

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それがTempietto del Santo Sepolcro
(サント・セポルクロ神殿)と呼ばれるもので、
エルサレムの聖墳墓の忠実な縮小版復元でもあります。
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサードと同じように
白と緑の大理石をメインに使って幾何学模様で飾られ、
非常にシンプルでありながらエレガントな佇まいとなっています。
この神殿のなかに
制作依頼主のジョヴァンニ・ルチェッライが永眠しています。

神殿の外壁を飾る30枚のパネルには
全て異なるシンボルが描かれていて、
単純な幾何学模様もありますが、
中にはジョヴァンニ・ルチェッライの個人紋であった
「風を孕む帆」もありますし、
メディチ家のメンバーの個人紋も用いられています。

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ジョヴァンニ・ルチェッライの息子と
メディチ家のロレンンツォ・イル・マニフィコの姉が
1460年に結婚したことで、両家の絆ができたため、
ルチェッライ家の紋と並んで
メディチ家のものも使われているのです。

神殿の上辺は連続するゆりの紋章で飾られ、
柱頭やフリーズ装飾などの細工も
どれも均整が取れた美しい作品です。

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Nfc__2362

礼拝堂だけが時々見学可能になることもありましたが、
管理の問題と修復のため、
長年一般の見学ができませんでした。
今回、隣接のマリーノ・マリーニ美術館に組み込むことで
2013年2月18日より通常一般公開が実現しました。


Museo Marino Marini e Cappella Rucellai
Piazza San Pancrazio, Firenze
開館時間: 10:00-17:00
休館日:火曜日、日祝祭日
入館料:4ユーロ
インフォメーション: www.museomarinomarini.it
*ルチェッライ礼拝堂は混雑している場合は、
30分毎の入れ替え制で最大25名の入場


Anno di Machiavelli

2013-02-20 22:46:00 | アート・文化
貴族や富裕商人が華美な生活を送り
理想主義にふけっていたルネッサンス時期のフィレンツェで
非常に現実的なものの捉え方をして
当時は時代の先を行くとも思われた政治理論を唱えた
ニコロ・マキアヴェッリ(Niccolo Machiavelli)。

マキアヴェッリが生きた時代のフィレンツェは
メディチ家による政権が安定する前の変動の時代で
共和主義者であった彼自身は時代に翻弄され
政治家としては不遇な時期を長く経験しています。
メディチ家が実質的な政権を掌握してからは
徐々にメディチ家との関係を築き上げていき
それによって共和主義の仲間からは
裏切り者扱いされることもありました。

1512年はフィレンツェは激動の年でもありました。
長年亡命生活を強いられていたメディチ家は
フィレンツェに戻り
当時の共和国政の行政長官であった
ソデリーニ(Soderini)はフィレンツェを去り、
フィレンツェに新政権が生まれました。
ソデリーニ政権の秘書官・外国大使などの重職にあった
マキアヴェッリの運命も大きく変わります。

この時期に反メディチ勢力が企てたとされる陰謀計画。
その陰謀計画に加担する可能性がある人物の名前を
記したメモを
ボスコリ(Boscoli)氏が不用意に紛失し
そのメモがやがて警察の手に渡ったことで
約20名の市民がメディチ家陰謀計画に
関わったということで逮捕され、
首謀者は斬首刑、
残りのメンバーも拷問にかけられるという事件がありました。
このリストの中に
共和制推進のマキアヴェッリの名前もありました。

警察がマキアヴェッリの当時暮らしていた
グッチャルディーニ通り(Via Gucciardini)の
邸宅に出向いたとき
偶然だったのか、
はたまた知らせを事前に知って身を隠したのかわかりませんが
マキアヴェッリは不在で、そのため指名手配となります。
マキアヴェッリの所在を知るものは
誰でも1時間以内に通報すること、
もしくはマキアヴェッリ本人は自首すること。
1513年2月19日、布告役人が
ニコロ・マキアヴェッリの指名手配の通達を
フィレンツェ市中50箇所に触れて回りました。

このときの褒賞は12フィオリーニで
当時の同様の指名手配の褒賞に比べるとかなり高かったようです。
1フィオリーノは純金3,54グラムで
現在の価値にすると120ユーロ程度ということで、
約1400ユーロが
マキアヴェッリの首にかけられたということになります。
逆にマキアヴェッリをかくまった者は
反逆罪となり全財産差し押さえの刑に処されるということでした。

マキアヴェッリは自分を大事にしてくれる人々や
慕ってくれる人々に迷惑をかけないために
同日中に自首しています。
当時刑務所としても機能していたバルジェッロに連行され
そこで軽度の拷問にかけられたようですが、
実際には彼自身はこの陰謀計画に加担はしていなかったと
現在は考えられています。

2013年はこのマキアヴェッリ指名手配から500年で
2月19日には特別な古式仮装行列が市内を練り歩きました。
通常と異なるのは布告役人に扮した交通警察騎馬隊員が
彼の住居のあったグッチャルディーニ通り、
彼の職場であったヴェッキオ宮殿のあるシニョリア広場、
そして連行され拷問を受けたバルジェッロ宮殿など
市内5箇所で、マキアヴェッリ指名手配の通達を行った点。

この日から公式に「マキアヴェッリ年」が始まり、
フィレンツェでは2013年は
マキアヴェッリにまつわる
各種イベントや展示が予定されています。

生涯を通して、時代にあったよりよい政治を行うために
必要なことを考え続けた政治家ではありましたが、
当時その理念が認められる機会は少なかったように思います。
この機会に彼の政治家としての経歴などを
もう一度振り返ってみようかなと思います。


Cammino di San Pietro

2013-02-13 22:50:00 | アート・文化
2月11日の教皇ベネデット16世の
突然の辞任表明でイタリアも多いに揺れています。
600年ぶりという自主退位の意の表明、
2月28日をもって退位、
そして3月には後継者選びのコンクラーヴェ、
3月末の復活祭までには新教皇の就任。
そしていくら退位するとは言っても
命尽きるまで教皇であることに変わりはないということで、
新教皇が就任してからしばらくは
ヴァチカン内に新旧二人の教皇が存在するという、
前代未聞の状況になります。
これまで教皇が亡くなると、
一時代の終焉という儀式として破壊していた
教皇の指輪や印をどう扱うか、
二人の教皇をなんと呼び分けるのか
というテクニカルな部分も
ヴァチカン幹部間で協議が始まったようです。

そもそもローマ教皇は
カトリック教会の初代教皇である
サン・ピエトロの後継者という位置づけですが、
ベネデット16世によって提唱された
2012-2013年カトリックの「信仰の年」の一環で
今この時期に、
サンタンジェロ城では聖ピエトロの歩み
という展覧会が催されています。
洋の東西を問わず世界各地から集められた
Lorenzo Veneziano, Vitale da Bologna, Jan Brueghel,
Giorgio Vasari, Guercino, Guido Reniなどの
約40点の絵画作品や彫刻は、
信仰のそれぞれの段階を表現したもので
4世紀から20世紀までの
キリスト教の歴史を網羅する展示になっています。
オリジナルの収蔵美術館から
初めて外に出された作品も含まれています。

各作品から受け取るメッセージは見る人によって異なりますが、
信仰の中で成長すること、
そして人生が投げかける数々の問いに対する答えを
探し続けることという
普遍的な問題と対峙するよい機会になるかと思います。

キリスト教がその昔から、
自らの教義を広く普及させるために
手段として利用してきた芸術表現は、
当時、識字率の低かった人々に訴えかけるのに
有効なものでしたが、
今の時代も信仰のあるなしに関わらず、
芸術作品の持つ美しさとその本質的な力が
見るものに及ぼす影響は大きいと思います。

Cammino di San Pietro
会場: Castel Sant'Angelo(サンタンジェロ城)
会期: 2013年2月7日から2013年5月1日まで
開館時間: 火曜日-日曜日 9:00-19:30
休館日: 月曜日
入場料: サンタンジェロ上入場料+特別展 10,50ユーロ
インフォメーション



Sant'Agata di Catania

2013-02-06 22:53:00 | アート・文化
聖アガタ(Sant'Agata)は伝説によると、
シチリアの裕福で高貴な家の出身で
3世紀にカターニャに生きた若い殉教聖人。
若くからキリストの教えに従い、
自身も教理教授に尽力し、
洗礼式や聖体拝領の儀式の準備をするなど、
精力的にキリスト教の布教に努めた女性助祭でもあります。
実際、宗教画などに描かれるときは白い助祭服を纏い、
紅いパリウムを身につけた姿で描かれることも多いです。

250年頃に地方総督として
カターニアに赴任したQuinziano(クィンツィアーノ)は
時の皇帝Decio(デキウス帝)の意向でもある
「全キリスト教徒は公的にその信仰を捨てよ」という命に従い、
アガタに対しても
キリストへの信仰を捨てるように要求します。
表向きはそのような理由で、アガタを糾弾したのですが、
実際には彼女とその一族が有する
莫大な富を押収するのが
目的だったのではないかとも言われています。
また彼女の美しさに目をつけたクィンツィアーノは
彼女を自分の手中に収めたいと思うようになりますが、
もちろんそれにも彼女は屈せず。
いずれにせよ、アガタはその信仰を捨てることはなく、
総督の言いなりになることもなく、受難の道を選びます。

彼女はまず、再教育という名の下に
総督によって買収されている、高級遊女の下で軟禁され
当時カターニアではよく行われていたという
酒池肉林の饗宴に借り出されますが、
神への祈りと信仰の力を持って、
そうした腐敗に身を染めることもなく、
最終的には身柄を預かった高級遊女がさじを投げ出し
クゥインツィアーノにアガタを引き渡しています。
彼女はこの経験を経て
よりいっそう信仰心の強い女性となっていきます。

自分の思いとおりにならないことを知ると
総督は彼女を宗教裁判にかけることを決めます。
この裁判のなかでも
彼女はすばらしい弁証法で
身の潔白を証明する努力をします。
しかし、この裁判からまもなく、彼女は投獄され
鞭打ちの刑から始まり
ペンチのようなもので乳首をもぎ取られます。
その夜、彼女の夢枕には聖ピエトロがたち、
その傷は必ず癒えると約束したとも伝えられています。
最後は焼けた炭による火炙りの責め苦を受け
その翌日に房のなかで息を引き取ったといわれています。
ペンチで乳首をもぎ取られるというシーンが
彼女の殉教のシーンとして
数多くの宗教画に描かれています。

フィレンツェのピッティ宮殿に所蔵されている
Sebastiano del Piombo
(セバスティアーノ・デル・ピオンボ)の
1520年の同テーマの作品は
マニエリスムの影響を受けた肉体美の聖女です。

カターニアといえば、エトナ山。
今も噴煙を上げ続ける活火山ですが、
これまで比較的大きな被害が出ていないのは
聖アガタに護られているからだと信じる人も少なくありません。

1040年にコンスタンティノープルにあった彼女の聖遺骸は
1126年にカターニアに持ち帰られ、
今もカターニアの大聖堂内に保管されています。
その中には彼女が宗教裁判に出廷した時に
身につけていたとされる紅いマントの切れ端も含まれます。
この布切れはこれまで何度となく
エトナ山の噴火を抑えるための祈りに使われています。
彼女が亡くなった翌年に始まり、
1169年、1239年、1381年、1408年、1444年、
1536年、1567年、1635年、1886年と
度重なる噴火の度に奇跡を起こして
溶岩流を食い止めたと伝えられています。

1669年の噴火はなかでも凄まじく、
その時の様子は大聖堂の聖具室のフレスコ画に描かれています。
この時は溶岩流は街中まで迫る勢いで
大聖堂からわずか300メートルまで押し寄せたと言われています。
ちょうどその辺りに聖アガタが投獄され殉教した房があり、
最初に埋葬されたのもその辺りだったのだそうで、
彼女の殉教にまつわる場所を避けるようにして
溶岩流は更に3キロ進み海へ流れ込んだと言われています。
またこの時に溶岩流によって押し流されながら
無傷で見つかった「獄中の聖アガタ」を描いた絵画は
今もカターニアのchiesa di Sant'Agata alle Sciare
(サンタ・アガタ・アッレ・シャーレ教会)に保管されています。

2月5日はアガタの殉教した日です。