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不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Sinagoga di Firenze e Museo Ebraico

2013-01-30 12:59:43 | アート・文化

トスカーナのティレニア海側、
フォルテ・デイ・マルミから山に入っていった辺りに
Sant’Anna di Stazzema
(サンタンナ・ディ・スタッツェーマ)という小さな街があります。
この小さな街が世界的にも名を知られているのは、
1944年8月12日にドイツ・ナチス軍により、
ユダヤ人の虐殺が行われ、
罪のない506名の命が奪われたから。

先日、1月27日アウシュビッツ解放記念日にあたり、
ベルルスコーニが
「ムッソリーニはよいこともした」という発言を行ったことで、
この街の市長&市民はもとよりイタリア国内外から
その「失言」に対して多くの批判が上がっています。
このベルルスコーニの発言については
日本のニュースでも報道されたので、
ご存知の方も多いでしょう。
彼に関しては、
失言は仕方ないものと諦めている部分もありますが、
さすがにナイーブな問題に触れるタイミングが
悪すぎたと思われます。
反省はしないでしょうけれど、彼のことですから。

当時はフィレンツェからも
数多くのユダヤ人が各収容所に連行され
ユダヤ人を乗せた列車が出発した
サンタ・マリア・ノヴェッラ駅のホームには
それを記した碑が残されており、
二年に一度学生を中心にしたグループを乗せた列車が
この日にアウシュビッツへ向けて旅立ちます。
今年も16番ホームから506名の学生を乗せて出発しました。
昨今は経済問題ばかりが注目され、
人権問題への取り組みが
後手後手になっている感は否めませんが
二度と繰り返してはならない悲劇を
後世に伝えるための努力は
イタリア国内でもこうして続けられています。

フィレンツェのサンタンブロージョ教会の近くに
ユダヤ教のシナゴーグがあります。
銅張りの緑色の屋根はミケランジェロ広場からもよく見えます。

フィレンツェにおけるユダヤ民族の歴史は古く、
古代ローマ時代に遡るとも言われています。
1571年に現在の共和国広場周辺にゲットーがつくられ、
ゲットー内には
イタリア系ユダヤコミュニティーのシナゴーグと
スペイン系のシナゴーグがそれぞれ建てられました。
当時のフィレンツェで
銀行家による高利貸しの蔓延を恐れたコジモ1世が
他の街からユダヤ人を呼び、高利貸の仕事を委ね、
その家族をゲットーの外、
ヴェッキオ橋を渡った
現在のラマリアンティ通りにまとめて居住させたため
ゲットーの外で暮らすユダヤ人のために、
この通りにもシナゴーグが建てられました。

1800年代に都市再整備が進み、
ゲットーも1800年代終わりに取り壊され整備されます。
それに先立って
1848年にゲットー内にあったシナゴーグは閉鎖され、
ドゥオーモ南側のオーケ通りに移されます。
イタリア系の祈祷所は第二次世界大戦前に、
スペイン系の祈祷所は1962年に閉鎖され、
現在はその記憶をとどめる碑が残されているのみです。
ゲットー外にあったもうひとつのシナゴーグは
第二次世界大戦中のドイツ軍の攻撃によって喪失。

現在のシナゴーグは1874年から建築が始まり
1882年に完成しています。
それまでのシナゴーグは
民家の一部に隠れるようにして作られていましたが、
この頃になると、一時的に解放的な時代になり
独立した寺院として建設されるものが増えていきます。

内装は赤茶色とブルーを貴重としたアラベスク模様で飾られ、
旧約聖書の話をテーマにした
大きなステンドグラスから差し込む光で
独特の空間を実現しています。
このシナゴーグの内部には
ユダヤ教の寺院にはないものが二つあります。
説教壇とパイプオルガン。
常に独自の戒律と儀式を尊重し、
なかなか融合しないユダヤ民族ですが、
この二つのキリスト教的要素には
ユダヤ民族側からの多少の歩み寄りを感じることができます。
もっともユダヤ教の宗教儀式の最中には
演奏は一切禁止されているので
パイプオルガンが使われる機会はほとんどなく、
結婚式などの特別儀式のときのみということですが。

後陣には大切な経典を祀る祭室があり、
扉は閉じられています。
第二次世界大戦中にドイツ軍はこの開かずの扉の奥に
相当な財宝が隠されていると信じ、
なんとかこじ開けようとし、
そのときの銃剣の痕が今も残っています。
ドイツ軍は開けることができなかったこの扉も
1966年のフィレンツェの洪水の時には水圧で開き
中に収められていた経典が泥水に飲まれてしまいました。
巻物型の経典はローマのシナゴーグに持ち運ばれ、
乾燥させ修復を試みましたが、
最終的に修復不可能ということになり、
戒律に基づいて、
遺体と同じように葬られたということです。

フィレンツェが
第二次世界大戦のドイツ軍の統治下にあった時代には
シナゴーグはドイツ軍のガレージとして使われていました。
彼らが逃亡する際に、
他の建物と同じように爆薬を仕掛けられましたが、
奇跡的に大崩壊の難を逃れています。

床の中央には
黒と黄色の大理石でできた
ユダヤの星が埋め込まれていますが、
これは古いゲットーから
持ち込まれたものだといわれています。
この床の下、つまり地下には、
ガスで湯を沸かし、
その蒸気で寺院を温める暖房装置が備えられていますが、
排気の問題から市の衛生局によって使用停止を命じられ
それ以降、シナゴーグには暖房設備がないため
冬の祈祷時の寒さはかなり厳しいものがあります。
彼らの祖先が収容所で経験した寒さなどに比べれば、
まだましなのかもしれませんが。

昨年末(2012年12月30日)に亡くなった、
イタリアが世界に誇る科学者
Rita Levi Montalcini(リタ・レヴィ・モンタルチーニ)も
その名が語るようにユダヤ人です。
彼女の残した言葉に
<<Le razze non esistono, esiste il razzismo>>
というものがあります。
「民族は存在しない。ただ民族差別が存在するだけだ。」
個人の心の在り方次第ということなのでしょう。

1800年代後半、このシナゴーグが建てられた頃は
フィレンツェのユダヤ民族コミュニティーは
3000人あまりの規模でしたが、
第二次世界大戦前に2000人ほどに減少、
大戦中に連行されたり命を落としたり、移住した結果、
現在は960名ということです。

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Sinagoga di Firenze e Museo Ebraico
Via Luigi Carlo Farini 4/6
Firenze
開館時間:
6月-9月  
日曜日から木曜日10:00-18:30、金曜日10:00-17:00
10月-5月
日曜日から木曜日10:00-17:30、金曜日10:00-15:00
休館日: 土曜日
入場料: 6,50ユーロ


Coronamento della lanterna

2013-01-23 07:30:00 | アート・文化

私の中ではミケランジェロは
画家でも建築家でもなく、
やはり彫刻家なのですが、
当時の芸術家としては
いろいろやらないと生きていけなかったのは彼も同じで、
色々やっています。

レオ10世の命でミケランジェロが手がけた
フィレンツェのサン・ロレンツォ教会新聖具室。
一般にメディチ家礼拝堂と呼ばれるところですが、
この屋根の上に取り付けられているランタン装飾も
同じくミケランジェロの手によるものです。
これまで、これも彼の発明だと思われていたのですが、
ライバルであったレオナルド・ダ・ヴィンチのアイデアから
インスピレーションしたものではないか
という説が上がってきています。

教会の天辺には
よく「世界」を象徴する球体がつけられていますが、
新聖具室の屋根の上に取り付けられているものは
単純な球体ではなく多面体と十字架、
そしてライオンの頭やローリエの葉っぱの装飾つき。
多面体は60の三角形を組み合わせ
5底辺のピラミッドを繋ぎ合わせたような12面体。
作品は金箔を施した銅製で
実際に制作したのはミケランジェロの協力者でもあった
金細工士のGiovanni di Baldassarre
(ジョヴァンニ・ダ・バルダッサッレ)。

この幾何学的な作品が
ミケランジェロのオリジナルではなくて、
レオナルドのデザインから
インスピレーションを受けたものではないかといわれるのは
彼らと同世代に生きた
Luca Pacioli(ルカ・パチョーリ)の手稿本に
レオナルド作のデザインも60点ほど記載されており、
その中にこの多面体も描かれているからですが、
こういう一つ一つのものを
根気よく研究している研究者がいるわけですね。

デザインはレオナルドから拝借し、
制作はバルダッサッレがしたのなら
ミケランジェロの作品とはいえないのでは?
と思ったりもしますが、
当時は工房の弟子が手がけても監修が親方であれば
作品にはメインの親方の名前がついたわけですし。
そしてなにより、
それまでは教会の屋根の上に乗せるのは
球体と相場が決まっていたのを
あえて球体ではないものにしようとしたその発想自体が
ミケランジェロらしさなのかもしれません。

歴史的には、
この多面体も含め
ミケランジェロに新聖具室に関わる
一連の依頼をしたのは
メディチ家から初めて教皇となったレオ10世ですが、
実現はメディチ家二代目の
教皇クレメンテ7世の時代(1523年)、
そして多面体装飾の完成は1525年。

レオナルドのデザインにある多面体が
正三角形の組み合わせであるのに対し
ミケランジェロが実現したものは
二等辺三角形の組み合わせで
それによって各ピラミッドの高さが低くなり、
表面に受ける光をより広い範囲に
拡散するようなものになっています。

依頼主がレオ10世であったことや、
フィレンツェのシンボルMarzoccoに由来して
装飾にライオンが用いられているのも、
興味深い点かもしれません。

2012年末に新聖具室の一部修復のために
この多面体も取り外され、
現在は精密に作られたコピーが
屋根の上に乗せられています。
オリジナルは修復を経て、1月17日より
メディチ礼拝堂の地下礼拝堂で展示されています。

2013年3月から10月には
「輝けるメディチ家の時代-教皇レオ10世とフィレンツェ」という
特別展のなかでも展示される予定。

Coronamento della lanterna della cupola
della Sagrestia Nuova della Basilica di San Lorenzo
会場: Museo delle Cappelle Medicee(メディチ家礼拝堂)
会期: 2013年1月17日から
写真はこちら


India piumata che uccide i serpenti della schiavitù

2013-01-16 14:00:00 | アート・文化

南米の人々は長い長い名前を持っていたりしますが、
1800年代後半にブラジルの皇帝だったPedro II(ペドロ2世)も
本名はPedro de Alcantara Joao Carlos Leopoldo Salvador
Bibiano Francisco Xavier de Paula Leocadio
Miguel Gabriel Rafael Gonzagaと異様に長いらしいです。

ブラジル帝国の第二代であり
最後の皇帝となったペドロ2世は
ブラジルの近代化に尽力し、
結局はそのために有力な支持層の反感を買って
廃位させられることになったのですが、
新大陸の発展のためには不可欠だといわれていた
黒人奴隷制の廃止にも積極的で
新しい考え方のできる人材だったようです。

晩年、糖尿病を患い、専属の医師団から
ヨーロッパでの専門治療&療養を勧められたこともあり、
1887年6月にブラジルを後にしてヨーロッパに渡り、
1888年5月にはミラノにも2週間ほど滞在しています。
このときに滞在したのがHotel et de Milanだったそうです。
滞在中に肋膜炎を患い、
このホテルの一室で
生死の淵を彷徨っていたペドロ2世の下に
本国で摂政を務めていた彼の長女イザベルが
奴隷解放令に署名したという知らせが届きました。
これを受けて翌年
1888年8月22日に彼も本国に戻っています。

奴隷制の廃止は近代化のために
欠かせないことではありましたが、
社会階級制度に基づいて運営されていた
コーヒー農園などでは
これまで通りの働き手(元奴隷)に賃金を払ったり、
奴隷が解放されたことで
不足する働き手を補うために
新しい移民層を雇い入れたりする必要があり、
また結果的に社会の貧富の差も拡大してしまったため
徐々に皇帝に対する不満が高まっていき、
やがてクーデターによって
1889年に帝国政権は倒されます。
同年より、ペドロ2世とその家族は
ヨーロッパに亡命することになり、
彼自身は亡命中のパリで亡くなりました。

ミラノのHotel et de Milanは1888年当時彼を歓迎し、
受け入れるために入り口と階段を改装したり、
特別室や熱帯庭園なども用意したそうです。
ペドロ2世は奴隷解放の知らせを受けて
それを記念して象徴的な彫刻を発注しています。
羽の冠と腰巻を纏った原住民インディオが
蛇を退治している姿が描かれた小さな彫刻。
ホテルの入り口を入り
右手の階段の脇に
この小さな彫刻が今でも置かれています。

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こんなところにも
小さな歴史のかけらが残っているのですね。


Amore e Psiche Bis

2013-01-09 14:00:00 | アート・文化

少し前にここで紹介した
ミラノ・マリーノ宮殿で
今週末まで開催されているアモーレとプシケの展覧会。
ここで紹介したときから
ずっと気になっていたことが2点あって
実際観にいったら、
その答えを得ることができてすっきりしたので
再び紹介させていただきます。
今回ミラノで観ることができなくても、
ルーブルでいつか
この作品に出会う方もいるのではないかと思いますので。

2点の疑問とは
フランソワ・ジェラールの絵画で、
プシケはなぜあらぬ方向を向いているのか。
カノーヴァの彫刻で
アモーレはなぜプシケよりも背が低いのか。
大した疑問ではないのですが、気になっていたのです。

マリーノ宮殿では無料の展示であるにもかかわらず、
小グループごとに全てガイドがついて
この2作品を丁寧に解説してくれます。

ジェラールの作品では
プシケの美しさに嫉妬したヴィーナスの遣いで
世で最も醜悪な男と恋に落ちるように仕掛けるために
彼女の元に送られたアモーレが
ひと目でプシケに恋をして
くちづけをするシーンが描かれていますが、
プシケは両手で胸を押さえ、
あらぬ方向を向いています。
これは神の世界からやってきたアモーレは
彼女の目には見えないという設定であるとともに、
「愛」は目に見えるものではないということを
暗喩しているのだということ。
そういわれればその通りなのですが、
それを知って再びこの作品に向かうと
突然どこかからやってきたアモーレにくちづけをされ
何かわからぬ大きな力に動かされて驚くプシケが
とてもかわいく見えます。

カノーヴァの作品では
神であるアモーレは
そのシンボルである背中の羽もなく
常備している矢も持っていない、
裸体の少年の姿で描かれています。
プシケはそのアモーレよりも少し背が高く、
アモーレの左手首をやさしくつかんで
その掌に蝶を乗せていて、
彼女の髪型は
女神を表現するときによく使われる結い方になっています。
これは当時少しづつ社会が変わり始めたことを
カノーヴァがいち早く感じて
作品に投影しているのだという説明を受けました。
神の世界に身をおく不死身のアモーレと
人間世界の限りある命をもつプシケの恋の物語は
当時の、身分の差を越えて
恋を成就させていく男女の姿を
反映しているのだそうです。
だからこそ、
アモーレとプシケの立場が逆転しているような、
そんな表現が用いられているのだと。
これも説明を聞いて、非常に納得。
さらに蝶は「魂」そして「愛」の証であり
二人がアモーレの掌に乗った蝶を見つめて
その「愛」を確認している姿であると。
そして、今回初めてルーブル外で
オリジナルの支え付きで展示された立像ですが、
当時は支えについている取っ手をもってくるくる回して
光の当たり具合によって変わる
彫刻の表情を楽しんでいたのだそうで、
マリーノ宮殿ではさすがに動かすことはできないので
その光の遊びをライティングで表現していました。

まさに目からウロコのありがたいガイドつき展示でした。


Il Chiostro Grande di Santa Maria Novella

2013-01-02 14:15:06 | アート・文化
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の一部である
Il Chiostro Grande(大回廊)は
1920年からScuola Marescialli e Brigadieri
(憲兵隊長官訓練学校)が利用しているため
通常は一般入場は禁止されていますが
一年に何回か、この大回廊も公開され、
一般見学することも可能です。
特に長年続けられてきた
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会美術館の整備で
教会と付属美術館が統一チケットで
入場見学ができるようになってからは
その見学がより簡素化された気がします。

この大回廊はその名にふさわしく
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の
3つの回廊の中で最も大きいだけでなく、
実はフィレンツェの数ある教会回廊のなかでも
一番大きな回廊です。

1300年代に建てられた
回廊アーケードや八角形の柱、
そして1400年代に増築された北側2階部分の開廊など
建築様式などはそのまま残されています。
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1570年から1590年にかけて
Cigoli(チゴリ)、
Alessandro Allori(アレッサンドロ・アッローリ)、
Santi di Tito(サンティ・ディ・ティト)、
Bernardino Poccetti
(ベルナルディーノ・ポッチェッティ)をはじめ
15人以上の芸術家が携わった、
一連の「キリストの生涯とドメニコ会派聖人の生涯」の
フレスコ画は傷みが激しいものの
その美しい佇まいを残しています。
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Dscn4961

またこの大回廊に面して
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会付属薬局が
ずっと昔からあり、
大回廊南側にはMatteo Nigetti(マッテオ・ニジェッティ)が
1612年に手がけた薬局への扉が残っています。
二枚貝を模した数段の小さな階段が扉へ続いており、
その扉の脇には、この薬局に関する碑も残されています。
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特別開館で入場できるのは回廊一階部分だけですが、
この上階には「教皇の間」や「教皇の礼拝堂」などもあり
当時、フィレンツェの中でも
この教会が果たした役割の大きさを物語っています。
因みに「教皇の間」では
レオナルド・ダ・ヴィンチが一時逗留し
かの「アンギアーリの闘い」の下絵を作成したと伝えられています。

因みに2012年には下記日程で公開されていました。
2013年2月以降の予定はまだ発表されていませんが
おそらく同じような時期に一般公開されるものと思われます。
11月9-11日 (統一チケット導入特別開館)
11月30日 (トスカーナの日特別会館)
12月8-9日 (無原罪のお宿り特別開館)
12月21-24日 (クリスマス特別開館)
12月29-31日 (年末特別開館)
1月4-7日 (エピファニア特別会館)

Il Chiostro Grande di Chiesa di Santa Maria Novella
会場:サンタ・マリア・ノヴェッラ美術館
   Piazza della Stazione 4
もしくは
   Pizza della Santa Maria Novella
開館時間:月-木 9:00-17:30 金曜日11:00-17:30
     土曜日9:00-17:00
     日祝祭日 7月-9月12:00-17:00
        10月-6月13:00-17:00
入場料:5ユーロ(教会/美術館共通チケット)