摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

大名持神社(吉野郡吉野町)~社前の吉野川から「海水」が湧き出す、極位を叙せられた出雲系神社

2023年10月21日 | 奈良・大和

[ おおなもちじんじゃ ]

 

当社の鎮座する吉野地域は葛城や明日香村からも更に奥まったところで遠いという事もありまして、ようやくの参拝となりましたが、車で行ってみると飛鳥あたりからは案外に近く感じました。当社といえば、とにかく写真で見ていたご神体山・妹山の威容が印象的で、直にその絶景(見出し写真)を堪能することが出来ました。神社の前を流れる吉野川の対岸にある背山と並び建つ様を見て、篤い自然信仰が継続して来た事に納得しました。

 

国道沿いの入口鳥居。天皇が妹山樹叢に行幸された記念碑などが脇に並びます

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、大名持御魂命、須勢理比咩命、少彦名命の三座ですが、一説に少彦名命は「万葉集」の゛大穴道少御神のつくらしし、妹背の山を見らくしよしも゛にちなんで後世に合祀されたものといわれ、また当社背後の妹山と対をなすように対岸にある背山の神でないかともいわれる、と「日本の神々 大和」で宮坂敏和氏が書かれています。

 

社殿

 

宮坂氏は、当社の創祀は明らかではないが、背後の妹山を神体山と仰いだ民族的原始信仰に由来する事は、この山が「忌山」とも呼ばれて樹叢へ斧をいれない禁忌的信仰が現在になお生き続けている点からもうなずける、とされます。地域の古老の方は、妹山の土は生きているから木は毎日様子が変わると信じておられたようです。

 

拝殿。直線基調の神明造風。

 

【神階・幣帛等】

「延喜式」神名帳に、゛大名持神社 名神大 月次相嘗新嘗゛と書かれた神社であり、臨時祭式の名神祭には一座だった事がみえます。「三代実録」の859年には既に、゛大和国従一位大己貴神に正一位を奉授する゛とあり、この段階で正一位を極めたのは、大和では他に春日大社のみでした。

 

本殿。平入の神明造

 

宮坂氏は、当社がこのように早く正一位に上った理由は、明らかでないとされていますが、「文徳実録」に856年常陸国の大洗磯前に大奈母知少比古奈命が現れて、857年大洗磯前神社と酒列磯前神社が官社に列せられたことや、「三代実録」には860年に能登国羽咋郡の大穴持像石神社と能登郡の宿那彦神像石神社が官社になった記述などが有る事を併記されています。

 

境内社の祠

 

【境内】

宮坂氏は、境内には若宮神社(事代主命)、水神社(罔像命)、金毘羅神社(金山彦命)、稲荷神社(保食神)が祀られている、と書かれていましたが、2つの小さな祠しか見当たりませんでした。拝殿の左右にはたくさんの灯篭が並んでいますが、一部には「大汝宮」と刻まれたものもあります。

 

大汝宮の名の石燈籠

 

【鎮座地】

当社の背後の妹山は高さ260メートル、黒雲母千枚岩、石英片岩などからなる独立峰で、対岸の背山(272メートル)と向かい合っています。妹山の山容は見事なまでの円錐形で、思わず目を引きます。この山の樹叢は特有の原生林で天然記念物とされていますが、山中には腐植土が約50センチも堆積し、常緑広葉樹に富んだその山頂には自然性ヒノキの群落があるようです。

 

山裾の周囲は柵で囲われています

 

【大汝詣でと大海寺】

奈良盆地方面の磯城、桜井地域には、「大汝詣で」という当社を参詣する祭りが今日でも行われています。その地域の宮座頭屋が、氏神祭に先立ってこの大穴持神社を参詣するのです。社前の潮ヶ淵で六根清浄の禊をして心身を清め、神酒に吉野川の清水を汲んで、親指大の細長い石を左坐は三個、右坐は四個拾って帰り、深夜に米川で禊をして神霊をうつし、祭祀を行うというものです。宮坂氏は、こうした行事は奈良盆地の人々が吉野山のこの付近を神聖視していた事を示すものだと考えられていました。

 

境内。拝殿の向こうが社務所

 

「大和志」には、境内に゛大海寺゛があり、また゛潮生淵゛では毎年6月30日に潮水(海水)が湧き出ると記されているようですが、現在の社務所の場所に元神宮寺の大海寺がありました。なお、これらのお話の一部は、神社前の掲示板にも記載されています。

 

境内から吉野川を望む

 

【伝承】

すでに絶版となっている「出雲と大和のあけぼの」で斎木雲州氏は、チラリと当社の事に触れられています。紀元前3世紀末に出雲王国から、摂津三島(高槻市)に一時居住した後に大和盆地南部に入り、その地を開拓した人たちがいたので大和には出雲系の神社が多いということで、その一つとして当社の名前を挙げられています。ただ、創祀の時期や、出雲由来の人々と当社や吉野地域にまつわるエピソードは特に書かれてなかっと思います。大和に来たその出雲の人たちは葛城磯城地域に落着き、しばらくして丹後からやって来たアマ(のち海部・尾張)氏と連合して勢力を築いたらしいので、当社の境内に大海寺が有った事や、「大汝詣で」の信仰がそれらの名残として何となくつながってそうな気がしてしまいます。ただ、正一位の極位を授けられたり、磯城地域からみてこの吉野が神聖視されるようになった理由は想像できません。

 

妹山。近づくと鋭角的な円錐形がより圧巻です

 

斎木氏は、出雲王国の王は砂鉄の出る山地と野ダタラの穴を作る土地を所有し、製鉄と鉄器生産を支配していたので、オオナモチ(大穴持)と呼ばれたと言われる、と上記の書で書かれています。富士林雅樹氏は「出雲王国とヤマト政権」で、「大名持」の表記を使われていました。つまり、出雲王国の主王の役職名ということです。斎木氏は、福岡県の曲り田遺跡から出土した鉄製品は中国出土の鉄器より古く、日本の鉄生産は3000年前にインドからバイカル湖付近を経由して移住したという「イズモ族(サルタ族)」により直接伝わったと主張しておられました。

 

吉野川を挟んだ妹山(左)と背山

 

(参考文献:大名持神社掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 大和」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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