摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

神田神社(江戸総鎮守 神田明神:千代田区外神田)~大己貴命と並び祀られて鎮まった平将門公の不思議

2022年12月03日 | 関東

 

当社の名前は、一般に神田明神と呼ばれていて当社自身もこの名前を前面に出されていますが、ホームページでは正式名称は神田神社だと説明されています。明治維新後にこの正式名称になったようで、通称は江戸時代の古式にならったもののようです。JR秋葉原からも歩いてすぐで、参拝者もやはり若者が(一般の神社に比べて)多い感じでした。立派な文化交流館も近代的なイメージで、都民に広く深く親しまれている感じがわかります。

 

随神門。提灯の横っ腹に「なめくじ巴」が見えます

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、一之宮に大己貴命、二之宮に少彦名命、そして三之宮に平将門公が祀られると説明されています。事情に疎い関西人の目線から拝見すると、あの平将門公が出雲の有名な二神と共に祀られている事が一見意外にも感じるのですが・・・

 

拝殿

 

社伝によると、聖武天皇の時代の730年の創建で、往古は神田ノ宮と呼ばれていました。この神田とは神領の田のあったところから来た名前で、つまりは伊勢神宮の御田だったのです。神田からとれたお米は神様に捧げるものであり、庶民が口にするものではありません。なので、神田で和菓子屋をやっても成功しないという俗説が有ると、「日本の神々 関東」で丹羽基二氏が書かれています。

 

本殿。横や後ろからかろうじて見えます。手前は銭形平次の石碑

本殿。東京大空襲をしのぎました

 

【平将門公の合祀】

上記の通り神田の鎮めや国土開発のために創建された神社であり、当初のご祭神は大己貴命で、鎮座地は現在の千代田区大手町一丁目あたりでした。しかしのちの時代に、そのすぐそばに「将門の首塚」が現われた事で、当社の歴史が激しく転回したと、先の丹羽氏は述べられます。

 

江戸神社。702年創建で江戸最古の地主神。御神座は千貫神輿で、神田祭の神輿の象徴。三天王一の宮

 

朱雀天皇の時代に起こった「将門の乱」では、940年に平将門公は俵藤太(藤原秀郷)に討たれ、その首は京都の東の市に晒されました。ところが、その首が三日後に白光を放って東の方向へ飛んでいき、武蔵国豊島郡芝崎に落ちたのは有名な話。住民は恐れおののいて、塚を築いて将門公の首を葬りましたが、その後もしばしば祟ったそうです。さらに後、1307年になって時宗二祖上人が供養し、塚から百歩の地にあった神田ノ宮に合祀したところ、ようやく守護の霊に転じたとされています。

 

大伝馬町八雲神社。三天王二の宮。江戸時代以前から鎮座していたとのこと

 

【少彦名命の合祀】

少彦名命が合祀されたのは、明治7年です。この経緯は諸説あるようですが、丹波氏は当社の「案内記」の話を引用されます。そこに書かれた事によると、明治元年に勅祭社に准じられたが、維新政府の施策は初めのうちは様々に揺れ動いていた。明治7年に火急のこととして、常陸国鹿島郡大洗磯崎神社より少彦名命の分霊を勧請して合祀し、一方、平親王将門公の霊を別殿に遷した。翌9月に、明治天皇が当社にお立ち寄りになり、幣物を賜わった、という事です。

 

小舟町八雲神社。三天王三の宮。天王社のご祭神は三社とも建速須佐之男命

 

この何とも不可解な経緯の文章に対して丹羽氏は、明治天皇が神田神社を参拝したい希望があったようで、当時の宮内省が逆賊の悪名を払拭しきれない将門公への参拝はいかがなものかと神社に通告したので、神社で大洗磯崎神社の少彦名命を第二座に据え、将門公を摂社に追い出してしまったのだろう、と考えられていました。個人的にはこの話を聞いて、明治維新後に、長髄彦が神社の祭神から消えた話(添御県坐神社)を思い出しました。

 

魚河岸水神社。日本橋魚市場の守護神

 

【中世以降歴史】

1590年に徳川家康が江戸に入ると、大規模な御城の造成を開始。当社はその影響で、1603年には現在の駿河台に遷り、1616年にはさらに現在地に遷座して、江戸城の鬼門除けとなりました。この時の社殿は、二代将軍秀忠によるもので、このように徳川家の保護のもとに江戸総鎮守となったため、朝廷も将門公の逆賊という立場をそのままにしておくことが出来なくなり、1626年には勅免の沙汰が下されたのです。

 

三宿・金刀比羅神社。7つの境内社はいずれも立派な鳥居を持ちます

 

首塚の方は取残された形となりましたが、年々の祭では神田明神から神主が出向いて祝詞を奏上されるようになります。こうして将門公の霊は逆賊の汚名がはれて、徳川家康も関ケ原の戦いにのぞむに際して祈ったと伝えられる「勝負に勝つ」神様として信仰されるようになったのです。その一方で、昭和に時代になってからでも、首塚の周囲で配慮のない工事をするたびに不幸や事故が続いたという話が多く聞かれ有名です。

 

末廣稲荷神社。春秋の彼岸の中日に7つの鳥居をくぐってお参りすると、脳梗塞・脳出血やボケ防止になるそう

 

【社殿、境内】

大正12年の関東大震災では、元禄年間以来の社殿が被害に遭い、当時は上記の通り将門公の霊を摂社として追い出した事に対して怒りに触れたのだろう、との噂が飛んだようです。この事に配慮して、昭和9年の再建の時には、将門公の霊がもとの相殿に戻されました。それが功を奏したのか、昭和20年の東京大空襲では、拝殿、本殿などは奇跡的に焼失をまぬがれ、現在に至っています。これについて当社は、昭和初期では画期的な鉄骨鉄筋コンクリートの耐火構造だったためと説明していますが、それでも上記した首塚周辺の有名な話なども含めて、やはり単なる迷信ではかたずけられない強い力を、どうしても感じたくなります。

 

浦安稲荷神社。以上、鳥居めぐりの境内社7社でした。

 

【なめくじ巴の神紋】

楼門や拝殿にかかる大ちょうちんに、普通の巴とは違うらしい神紋が描かれています。先の丹波氏が当時の神主に尋ねたところ、「水流れ三つ巴」といい、過去の怨念は水に流して武蔵の守護となる将門公の御心を意味する、という事でした。さらに、「紋神」とよばれた氏子のおひとりによれば、゛なめくじ巴紋という。将門さまの呪いの印だ。おろそかにすると、いまもたたる。だから、女房を質においても祭は盛大にやる。われわれの親分だから゛という話をされていたことが、「日本の神々 関東」に紹介されています。このような、「神田っ子」に支えられてきた神社なのです。

 

神馬あかりちゃん。動きの少ない子で、しばらくじっとしていました

 

【祭祀・神事】

当社の神田祭は、京都の祇園祭と大阪の天神祭と並んで日本三大祭りの一つである名高いお祭りです。別名、天下祭とも呼ばれ、それは江戸時代に将軍御上覧の為に、祭の神輿が江戸城中に入っていたことから来ています。また、その当時は、徳川家が関ケ原の戦で勝った日であった9月15日に行われていたことも関係しているようです。徳川幕府も特にこの祭を奨励していて、府内の諸侯三十三家も参加したほどでした。当時の二神である大己貴命と平親王(将門公)の霊を神輿二社に移し、その前後に飾馬、長柄の列、山車人形、練物がつき、行列は数町に及んだようです。

 

だいこく様尊像

えびす様尊像

 

「神田明神祭礼絵巻」に描かれた祭りの様子では、氏子ば莫大な費用を負担したために、毎年行うのは「大儀」であるとの御達しによって、その後、日吉山王社(現在の日枝神社)と隔年ごとに祭り行うようになりました。明治時代に入ってからは、山車よりも神輿中心のお祭りになり、祭日も5月15日に変えられましたが、現在は5月の適当な日に行うようになっているようです。この祭の「神田囃子」は無形文化財に指定されています。

 

少し暗くなったころ。こちらの提灯にも、なめくじ巴が見られます

 

【伝承からの思案】

当社の話となると、やはり平将門公にまつわる話が中心になるようですが、将門公と出雲神との関係についてはあまり触れられないようです。やはり将門公が当社(当時のご祭神は「大黒様」の一柱)に合祀されて、ようやく守護の霊になった事の理由を勘繰りたくなります。丹羽氏は「日本の神々」の文章の終わりに、将門公のような反逆と祟りの神である怨霊神の祭祀を出発点とした神社が、菅原道真公の天神社をはじめ全国に多いが、とりわけ当社は最も生々しく怨霊信仰が生き続けている珍しい例だとまとめられています。しかし、東出雲王国伝承の話を前提とすると、菅原道真公が怨霊神の最初だったとは取れなくなってきます。つまり、大己貴命と平将門公には強い共通性があり、相性が良かったのではないでしょうか。一つの想像としては、将門公が当社に祀られた際に、「古事記」にも明記されたと東出雲王国伝承が主張する、出雲王国十七代の主王「大穴持」達に、゛後世の人々は、我々のように良く崇めてくれるはずだから、落ち着くように゛と諭されて、納得されたのではないかと・・・ただ、一般の出雲神話の大己貴命に関して、そのような話がされることはないようです。

 

 

(参考文献:神田明神公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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