創世記23章11節である。「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところ
で、あなたに差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください(口語訳「あなたの死人を葬りなさい。」)という。8節でも書きましたが、日本語翻訳として
「亡くなられた」は不適切である。
「差し上げます」は無償でではない。「売却します」の婉曲的用語であって、アブラハムが「譲っていただきたいのです」といったのと同じ意味で、ここでは快く売り
たいという意味の売買の常等語である。「売る」という代わりに、「与える」というのと同じで、買う人の心を傷つけないで済むことになる(フォン・ラート)。日本語で
も、売買が成立する状況では「差し上げます」というときがしばしばある。
12節である。「アブラハムは国の民の前で挨拶をし、」という。「国の民の前で」とは、7節と同じ状況である。「国の民であるヘトの人々に」挨拶したのであっ
た。そのときは「ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクベラの洞穴を譲っていただきたいのです。」とお願いした時であった。今度
は、相応の代価を払って譲っていただいたという公的なお礼という挨拶を述べるのであった。
「挨拶をし、」とは7節と同じ言葉であり、その言葉の直訳的意味は「ひれ伏す」である。今日でも公的な取引はこの形である。特に不動産に関してはそうであ
る。また、ある特定(指定献金のような)の、高額な資産を動かすときもまた、このような公的な、丁寧な挨拶が必要。教会の場合は大会、中会、総会を開いて
協議した結果を受けて実行するという形である。すべてを治める神に応える姿勢なのである。