「稻若水本」の『本草綱目』序文集
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●筆者前書き
文字は、原刻どおりとし、訳文は、和刻本にある訓点にしたがって訳したものである。段落わけは、私の責に帰する。王世貞序の訓点には今回二種を下敷きにするが解釈上の異動がある場合は、それを記すことにしたい。
新校正『本草綱目』序文
稻若水先生校閲
本草綱目
附 本草圖翼・結髦居別集 書林含英・豫章堂蔵板
新校正本草綱目五十三卷
係稻若水先生正字訂訛之本。如草部之荏草・果部之沒梨離、舊本倶脱漏、今為補入。至於蟲魚草木之類、名稱傳訛承舛甚遺害非淺、為之釐正。皆出於先生平日所考據確認、與坊間所行之本大有逕庭。誠成醫學津筏、兼資博雅大觀云。
本草圖翼四巻
結髦居別集四巻
右計六十一巻
正徳甲午年端午日
【訳文】
稻若水先生が字を正し誤りを訂正した本である。草部の荏草・果部の沒梨離など、舊本ではともに(記述を)欠いているので、今回補った。蟲・魚・草・木の部類では、名前が誤って伝えられ受けいられており、とても害をのこすことが多いので改正した。すべて先生が平生に考察確認したもので、町中で流行している本とは(質的に)大きな違いがある。まことに医学を治める上での手掛かりとなるものであり、また博雅の士の大観のたすけとなるものでもある。
【語釈】
○含英・豫章 参考書『近世書林版本総覧』岩波書店によると、含英堂は、京都にあった書肆。
○荏草 えがや。
○沒梨離 没離梨。草の名、もうりんか。『大漢和』では、「沒利」の項目参照。
マツリカ(茉莉花) 英名/アラビアンジャスミン ジャスミン。
○坊間 町中。
○津筏 比喩として「てがかり」の意味。韓愈「送文暢師北游」詩に、「開張篋中寶、自可得津筏。」
新校正本草綱目例言
綱目一書、明代刊本脱誤固多、本衙藏及官板亦不足以為正、?壽堂本最精、刻畫古雅可觀。但初刻本文字細畫者今獲之為難。本邦屢經翻刻多為淆舛、傳録之?至脱遺。鑄錯之弊殆不可料。陸務觀言、
「印本一誤遂無別本可證。」
豈不信哉。
往歳松下見林氏校本刻成刷印、紕漏復不為鮮。賀府若水子稻彰信、以經術餘暇寓意於飛潛動植之學、廣聽遠視貫穿古今、網羅百氏爲一家之書。其於李氏綱目、亦悉加研校・補苴滲漏・覈名謂以爲全璧。彰信於斯書也、其功亦勤矣。非世之刊行所擬倫、誠為醫學之考鏡、大開瀕湖之生靣也。圖翼別集、廼出於其手纂。彰信平生寫集聞見、其書甚夥、未遑殺青。別集其一斑也。皆吾東方未了之物品、考據精密、古今所未嘗有也。圖翼之作、依李中立・何培元等畫、參之諸家稍為増益、補綱目之不及者、皆有所稽査、以便于醫方之採用也。是刻創始於壬申、?三載乃成。適當昭代文治之盛、茲得板行傳之不朽。上經聖明皇覽、副仙宮之秘簶、廣陳達聰之義、?臣民之重寳、洛紙之貴無慮徧布之海内。四方當必就此取正、則非惟使校閲之力無惑於討論、庶幾有裨于濟生之實也。聊記其始末以諗諸後云。
正徳甲午蒲月龍生日。
後學廣瀨元白東啓謹撰
【訳文】
綱目の一書については、明代の刊本は脱誤がもとから多いので、本衙藏板そして官板のものも正確なものとはしがたいく、(李時珍子息が作成した版本の系統を引く)?壽堂本が最も精細であり、版刻の古風さが見てれるもである。ただ初刻の本で(版木が摩耗してなく)文字が細かく書かれているものは、今は得がたい。我が国では、しばしば翻刻してきたが、多くは文字が入り乱れ誤りを生じてしまい、流伝され記録されることが長くなって、ますます文字漏れが生じるという事態になってしまった。大きな誤りの弊害は、ほとんどはかりしれない。陸務觀は、
「印刷された本(の害は)一度誤ってしまうと、結局別の本で証明することはできなくなる。」
と言っているが、なんとも本当のことではある。
数年前、松下見林氏の校本(『新刊本草綱目』)が刻され印刷されたが、落ち度が少なからずあった。加賀藩の若水子稻彰信は、経典研究の余暇に飛潛動植の学問(=今の生物学)に心を寄せ、広く遠く見聞きし古今に渡り知識を積み、諸子百科を網羅し、独自の本を作り上げた。李氏の『本草綱目』に対しても研究・校正を加え、漏れを補い名前を調べあげ考察し、完璧なものにした。彰信のこの書に対しての功績も、努力したものであった。世間で刊行されているものと比類できるものではなく、まことに医学の参考になるものであり、瀕湖(=李時珍)の新境地を大きく切り開いたものである。圖翼別集とは、自ら編纂してなったものである。彰信が平生、見聞したものをかき集めたが、その書は非常に多く、印刷される間もなかった。(『本草綱目』の附録とする)別集というのは、その一端である。(蘭学に比べ)すべて我々のいる東方では、なしえなかったものであり、考察も精密で、古今未曾有のものである。圖翼の作成は、李中立・何培元らの画像にもとづき、諸家を参考にしやや付け加え、『本草綱目』が言い及んでいないところを補い、みな考査して、医術での採用に便利なようにした。この版本は、壬申に始められ三年たって、やっとできたものである。ちょうど文治で清明な政治の盛んな時にあって、ここに刊行し長くのこるように伝えることができた。天皇がご覧になり、皇居の大切な書としてそえられ、聡明なる(天皇の)ご見識をひろめられ、人民の大切なものを明らかにされた。(発刊によって)京都の紙は高価になろうともかまわずに、国内に頒布した。四方の者はこの書によって正確な(処置を)とるべきで、そうすれば、(この書は校閲が完備されているので)校閲の(余分な)労力を議論に回さずにすむばかりでなく、衆生を救う実際の場の助けにもなりえよう。わずかであるが、この書の事情を記して後生に告げて、かくいう。
正徳甲午(1714)五月十三日
後學廣瀨元白東啓謹撰
【語釈】
○本衙藏(板) 地方の役所で刊行されたもの。ただし、中には「本衙藏」と偽って記し私家版・私蔵本を刊行した場合もある。
ここでは、渡辺幸三著『本草書の研究』杏雨書屋・1987・p132によって、「銭蔚起刊本」と確定されうる。
○官板 中央政府で刊行された本のこと。ここでは、既掲の渡辺幸三氏の考察により、「江西刊本」と確定されうる。
○?壽堂本 既掲の渡辺幸三氏の考察により、金陵本を景刊したものと確定されうる。
馬継興・胡乃長・版刻簡録本草綱目・中華医史雑誌・1984第8期参照。
「?」は、「久」の異体字。
○淆舛 入り乱れて間違いを生じる。
○鑄錯 大きな誤り。「鑄成大錯」の略とした。ここでは、「鋳るのを間違える」とすることは、歴史上考えられない。「鋳」を「刻」の比喩とすることも、可能だがとらない。
○陸務觀 陸游(1125~1210)中国南宋の詩人。
○「印本一誤遂無別本可證」 『渭南文集』28巻(四庫全書)跋唐盧肇集に、
「子發嘗謫春州、而集中誤作青州。蓋字之誤也。題清遠峽觀音院詩、作青州遠峽、則又因州名而妄竄定也。前輩謂印本之害一誤之後、遂無別本可證、眞知言哉。
○松下見林 寛文9年 (1669)『新刊本草綱目』を著す。
○紕漏 あやまり。落ち度。
○賀府…… 稲生若水:イノウジャクスイ(一六五五~一七一五)は江戸中期の本草研究者。名は宣義、字は彰信、号は若水。一六九三年に加賀藩主・前田綱紀の儒者に召され、このときから姓を中国風の一字で稲と称する。前田公の命により大博物書『庶物類纂』一千巻の編纂に着手したが、未完のまま没した。
○飛潛動植 生物学。
○貫穿古今 「貫穿今古」と熟される用例があり、博学他聞の意味。
○覈 しらべる。
○擬倫 ならぶ。
○考鏡 参考。
○瀕湖 李時珍の號。「瀕湖仙人」の略。
○李中立 『本草原始』12巻(1612)作成。
○何培元 何鎭。清代の医家。字培元。『本草綱目必読類纂』を著す。
○壬申 1712年
○昭代 政治が清明である時代。
○聖明 天子。
○達聰 書經・舜典に「明四目、達四聰。」
○洛紙之貴…… 晉代の左思の賦が出てから、皆争って書写したため紙の価格が上がったいう「洛陽紙貴」という故事を踏まえている。
ちょうど、出版元が「京都」=「洛」なので、このように言っている。
○正徳 日本の宝永の後、享保の前。1711~1715。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。
中御門天皇は、1709年東山天皇から譲位されて即位。9歳で即位し、父東山上皇、ついで祖父霊元上皇が院政を行った。
○正徳甲午 1714年。
○蒲月 五月。
○龍生日 陰?五月十三日。その日が竹を植える適期だというと宋の范致明の文から。岳陽風土記「五月十三日、謂之龍生日、可種竹。」