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本草綱目1

2010-02-26 06:06:21 | 学問

 「稻若水本」の『本草綱目』序文集
2006年1月ーーコラム集から移動 
●筆者前書き
 文字は、原刻どおりとし、訳文は、和刻本にある訓点にしたがって訳したものである。段落わけは、私の責に帰する。王世貞序の訓点には今回二種を下敷きにするが解釈上の異動がある場合は、それを記すことにしたい。

 新校正『本草綱目』序文
稻若水先生校閲

本草綱目

附 本草圖翼・結髦居別集 書林含英・豫章堂蔵板

新校正本草綱目五十三卷
 係稻若水先生正字訂訛之本。如草部之荏草・果部之沒梨離、舊本倶脱漏、今為補入。至於蟲魚草木之類、名稱傳訛承舛甚遺害非淺、為之釐正。皆出於先生平日所考據確認、與坊間所行之本大有逕庭。誠成醫學津筏、兼資博雅大觀云。

本草圖翼四巻
結髦居別集四巻
 右計六十一巻
正徳甲午年端午日

【訳文】
 稻若水先生が字を正し誤りを訂正した本である。草部の荏草・果部の沒梨離など、舊本ではともに(記述を)欠いているので、今回補った。蟲・魚・草・木の部類では、名前が誤って伝えられ受けいられており、とても害をのこすことが多いので改正した。すべて先生が平生に考察確認したもので、町中で流行している本とは(質的に)大きな違いがある。まことに医学を治める上での手掛かりとなるものであり、また博雅の士の大観のたすけとなるものでもある。

【語釈】
○含英・豫章 参考書『近世書林版本総覧』岩波書店によると、含英堂は、京都にあった書肆。
○荏草 えがや。
○沒梨離 没離梨。草の名、もうりんか。『大漢和』では、「沒利」の項目参照。
 マツリカ(茉莉花) 英名/アラビアンジャスミン ジャスミン。
○坊間 町中。
○津筏 比喩として「てがかり」の意味。韓愈「送文暢師北游」詩に、「開張篋中寶、自可得津筏。」

新校正本草綱目例言
 綱目一書、明代刊本脱誤固多、本衙藏及官板亦不足以為正、?壽堂本最精、刻畫古雅可觀。但初刻本文字細畫者今獲之為難。本邦屢經翻刻多為淆舛、傳録之?至脱遺。鑄錯之弊殆不可料。陸務觀言、
「印本一誤遂無別本可證。」
豈不信哉。
 往歳松下見林氏校本刻成刷印、紕漏復不為鮮。賀府若水子稻彰信、以經術餘暇寓意於飛潛動植之學、廣聽遠視貫穿古今、網羅百氏爲一家之書。其於李氏綱目、亦悉加研校・補苴滲漏・覈名謂以爲全璧。彰信於斯書也、其功亦勤矣。非世之刊行所擬倫、誠為醫學之考鏡、大開瀕湖之生靣也。圖翼別集、廼出於其手纂。彰信平生寫集聞見、其書甚夥、未遑殺青。別集其一斑也。皆吾東方未了之物品、考據精密、古今所未嘗有也。圖翼之作、依李中立・何培元等畫、參之諸家稍為増益、補綱目之不及者、皆有所稽査、以便于醫方之採用也。是刻創始於壬申、?三載乃成。適當昭代文治之盛、茲得板行傳之不朽。上經聖明皇覽、副仙宮之秘簶、廣陳達聰之義、?臣民之重寳、洛紙之貴無慮徧布之海内。四方當必就此取正、則非惟使校閲之力無惑於討論、庶幾有裨于濟生之實也。聊記其始末以諗諸後云。
正徳甲午蒲月龍生日。
 後學廣瀨元白東啓謹撰

【訳文】
 綱目の一書については、明代の刊本は脱誤がもとから多いので、本衙藏板そして官板のものも正確なものとはしがたいく、(李時珍子息が作成した版本の系統を引く)?壽堂本が最も精細であり、版刻の古風さが見てれるもである。ただ初刻の本で(版木が摩耗してなく)文字が細かく書かれているものは、今は得がたい。我が国では、しばしば翻刻してきたが、多くは文字が入り乱れ誤りを生じてしまい、流伝され記録されることが長くなって、ますます文字漏れが生じるという事態になってしまった。大きな誤りの弊害は、ほとんどはかりしれない。陸務觀は、
「印刷された本(の害は)一度誤ってしまうと、結局別の本で証明することはできなくなる。」
と言っているが、なんとも本当のことではある。
 数年前、松下見林氏の校本(『新刊本草綱目』)が刻され印刷されたが、落ち度が少なからずあった。加賀藩の若水子稻彰信は、経典研究の余暇に飛潛動植の学問(=今の生物学)に心を寄せ、広く遠く見聞きし古今に渡り知識を積み、諸子百科を網羅し、独自の本を作り上げた。李氏の『本草綱目』に対しても研究・校正を加え、漏れを補い名前を調べあげ考察し、完璧なものにした。彰信のこの書に対しての功績も、努力したものであった。世間で刊行されているものと比類できるものではなく、まことに医学の参考になるものであり、瀕湖(=李時珍)の新境地を大きく切り開いたものである。圖翼別集とは、自ら編纂してなったものである。彰信が平生、見聞したものをかき集めたが、その書は非常に多く、印刷される間もなかった。(『本草綱目』の附録とする)別集というのは、その一端である。(蘭学に比べ)すべて我々のいる東方では、なしえなかったものであり、考察も精密で、古今未曾有のものである。圖翼の作成は、李中立・何培元らの画像にもとづき、諸家を参考にしやや付け加え、『本草綱目』が言い及んでいないところを補い、みな考査して、医術での採用に便利なようにした。この版本は、壬申に始められ三年たって、やっとできたものである。ちょうど文治で清明な政治の盛んな時にあって、ここに刊行し長くのこるように伝えることができた。天皇がご覧になり、皇居の大切な書としてそえられ、聡明なる(天皇の)ご見識をひろめられ、人民の大切なものを明らかにされた。(発刊によって)京都の紙は高価になろうともかまわずに、国内に頒布した。四方の者はこの書によって正確な(処置を)とるべきで、そうすれば、(この書は校閲が完備されているので)校閲の(余分な)労力を議論に回さずにすむばかりでなく、衆生を救う実際の場の助けにもなりえよう。わずかであるが、この書の事情を記して後生に告げて、かくいう。
 正徳甲午(1714)五月十三日
 後學廣瀨元白東啓謹撰

【語釈】
○本衙藏(板) 地方の役所で刊行されたもの。ただし、中には「本衙藏」と偽って記し私家版・私蔵本を刊行した場合もある。
 ここでは、渡辺幸三著『本草書の研究』杏雨書屋・1987・p132によって、「銭蔚起刊本」と確定されうる。
○官板 中央政府で刊行された本のこと。ここでは、既掲の渡辺幸三氏の考察により、「江西刊本」と確定されうる。
○?壽堂本 既掲の渡辺幸三氏の考察により、金陵本を景刊したものと確定されうる。
 馬継興・胡乃長・版刻簡録本草綱目・中華医史雑誌・1984第8期参照。
 「?」は、「久」の異体字。
○淆舛 入り乱れて間違いを生じる。
○鑄錯 大きな誤り。「鑄成大錯」の略とした。ここでは、「鋳るのを間違える」とすることは、歴史上考えられない。「鋳」を「刻」の比喩とすることも、可能だがとらない。
○陸務觀 陸游(1125~1210)中国南宋の詩人。
○「印本一誤遂無別本可證」 『渭南文集』28巻(四庫全書)跋唐盧肇集に、
「子發嘗謫春州、而集中誤作青州。蓋字之誤也。題清遠峽觀音院詩、作青州遠峽、則又因州名而妄竄定也。前輩謂印本之害一誤之後、遂無別本可證、眞知言哉。
○松下見林 寛文9年 (1669)『新刊本草綱目』を著す。
○紕漏 あやまり。落ち度。
○賀府…… 稲生若水:イノウジャクスイ(一六五五~一七一五)は江戸中期の本草研究者。名は宣義、字は彰信、号は若水。一六九三年に加賀藩主・前田綱紀の儒者に召され、このときから姓を中国風の一字で稲と称する。前田公の命により大博物書『庶物類纂』一千巻の編纂に着手したが、未完のまま没した。
○飛潛動植 生物学。
○貫穿古今 「貫穿今古」と熟される用例があり、博学他聞の意味。
○覈 しらべる。
○擬倫 ならぶ。
○考鏡 参考。
○瀕湖 李時珍の號。「瀕湖仙人」の略。
○李中立 『本草原始』12巻(1612)作成。
○何培元 何鎭。清代の医家。字培元。『本草綱目必読類纂』を著す。
○壬申 1712年
○昭代 政治が清明である時代。
○聖明 天子。
○達聰 書經・舜典に「明四目、達四聰。」
○洛紙之貴…… 晉代の左思の賦が出てから、皆争って書写したため紙の価格が上がったいう「洛陽紙貴」という故事を踏まえている。
 ちょうど、出版元が「京都」=「洛」なので、このように言っている。
○正徳  日本の宝永の後、享保の前。1711~1715。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。
中御門天皇は、1709年東山天皇から譲位されて即位。9歳で即位し、父東山上皇、ついで祖父霊元上皇が院政を行った。
○正徳甲午 1714年。
○蒲月 五月。
○龍生日 陰?五月十三日。その日が竹を植える適期だというと宋の范致明の文から。岳陽風土記「五月十三日、謂之龍生日、可種竹。」


本草2

2010-02-26 06:03:23 | 学問
新校本草綱目序
 
昔有人問陶隱居、
「吾欲註『周易』・『本草』、孰先。」
陶隱曰、
「『易』宜先、註『易』誤、猶不殺人。註『本草』誤、則有不得其死者矣。」
世以為知言。唐子西記「易庵」、不然其説曰、
「註『本草』誤、其禍疾而小、註「六經」誤、其禍遲而大。隱居知『本草』之為難而不知經尤為難。」
子西氏、其有激而言之也。
 嗟夫、聖人之仁天下萬世也大矣。使凡有生之倫、無一物之不得其所。故事為之備而無所不周、為之『詩』・『書』・『易』・『春秋』、以使人趨正而遠邪、為之禮・樂・兵・刑、以使人化于習善而懼于為悪、為之醫藥診候之術、以使人全其冲和保合之天、而免于扎瘥夭殤之患。故當其時也、善其事者互相爲用、而不相訽病。譬如一家之内、昆弟子侄各修乃職、以成幹蠱之任。然則凡事之當務者緩急本末之不一、而莫不互利民用、以賛化源焉。實有以相濟、而非所以相厲。故稷之播種與契之敬敷、其績焉。世降叔季道岐學渙、得乎彼則廢此、好虖此則疵彼、於是乎言論相軋、旨趣相左、殊不知聖人之於民也、教則有以啓其牖。
 『易』固不可誤解、養則有以全其生。『本草』亦豈可錯説也哉。吾意殽其藥物而使人化為夭抂短折之鬼、與謬其訓方而使人陷于無父無君之域、雖有遲速大小之差、斯民之厄一也。聖人豈二其慨乎哉。然則子西之所見雖正、隱居之説亦不可忽諸。
 賀府若水君、素精本草、匡謬補逸、其書滿屋。博物之譽、上達四聰、嘗經法皇宮乙夜之覽、褒旨殊優。青嚢家就問者、屨滿墻敗。頃書舗之請、就瀕湖『綱目』舊刻校訛字正物稱、又以図翼別集各四巻附諸其後、其功亦勤矣。此書行于世、其於濟世之澤亦豈鮮鮮乎哉。此聖人之所必取也、誦法聖人者之所樂其成也。豈唯方劑家之幸已乎哉。為序其首云。
 ?
正徳四年甲午夏至日東涯
伊藤長胤謹序
 
【解釈】
 昔、ある人が陶隱居に、
「私は、『周易』・『本草』の注をつくろうと思うが、どちらを先にしようか。」
と訊いた。隱居は、
「『易』を先にすべきであり、『易』を注して間違えても、依然として(誤って人が)人を殺すことはなかろう。『本草』を注して間違えれば、(本来の)寿命を全うできないことになってしまう。」
と言った。世間では、それを行き届いた考えとする。(しかし、)唐子西は、「易庵記」で、その説はいけないとして、
「『本草』を注して誤れば、そのわざわいは速くても少なかろうが、「六経」を注して誤れば、そのわざわいは遅くても大きなものになろう。隱居は『本草』の難しいのを知っているが、経典の方がとりわけ難しいのを知っていないのだ。」
と言った。子西氏は、憤慨するところがあってこう言ったのである。
 ああ、聖人が天下・万世を養いはぐくむのは、大いなるものである。生命のあるともがらにすべて居場所を与えるのである。事則をぬかりなく備え、『詩』・『書』・『易』・『春秋』を作って、人を正に赴き邪から遠ざかるようにさせ、禮・樂・兵・刑を作って、善行に習い、悪をなすのをおそれさせるようにさせ、医薬・打診の施術を作って、おだやかで、自らに授かった平穏な天命を全うし、夭折・疫病による死を免れさせたのであった。故に、その時その時に、よく行う者は、互いに助け合い、そしりあわなかった。たとえば、一家のなかで兄弟・その子供たちがそれぞれ自分の職分を果たし、各自の才能に見合った任務をこなすようなものである。ならば、およそ努力すべき事は(それぞれ)緩急本末が異なっており、相互に民生に利便をあたえて、教化のもとの確立賛助をするのである。まことに互いに助け合って成し遂げることができるもので、互いに苦しめるようなものではない。故に(昔の臣下である)稷(ショク)の播種と契(セツ)の謹んでの啓発、その功績は並び補い合うものであった。(しかし、)世が末期になり衰えると、道学はバラバラになり、あれを取ればこれを捨て、これを好めばあれをそしるようになり、かくて言論は押しのけあい趣旨は絡まって、聖人が民に対して教化するとき、窓をあけるように啓蒙したことをまるで分からないようになってしまった。
 『易』は、もともと間違って解してはならないものであって、養生すれば生を全うすることができる。『本草』もまた誤って説くことがあってはならない。思うに、薬物を混ぜ夭折させるのと、訓じ方をまちがえ父や君をなみする領域に人をおとしめるのと、遅速大小の差はあっても、民にとっての災厄は同じである。聖人は考えを二とおりに(記)したはずがない。そうなら、子西の所見は正しいとはいっても、隱居の説もまたおろそかにはできない。
 賀府の若水氏は、もともと本草に精しく、誤りを正し、抜けていた箇所を補い、その書は家一杯になっていた。博物のほまれは、聡明な天皇にとどき、法皇の閲覧を賜り、お褒めの言葉は格別であった。医者で質問に来たものは(とても多く)、靴があふれ塀が壊れるほどであった。ちかごろ書店の要請により、李時珍の『本草綱目』旧刻について誤字・物の名を校正し、図翼別集各四巻をその後に付けたが、その功績も努力して成ったものである。この書が世に流布し、世を救う恩恵もまた微々たるものではありえない。このような(救世)の書は、聖人が採用するものであり、聖人を手本にする者は、書物の完成したことを喜ぶ。薬剤家の福音だけではないのである。そのはじめにかく記す。
 時
正徳四年甲午夏至日東涯
  伊藤長胤謹序
 
 
 
【語釈】
○陶隱居 陶弘景456~536のこと。 煉丹家で、醫藥家・文學者。字は、「通明」、自ら「華陽隱居」と稱し、『本草経集注』の著あり。
○吾欲註…… 『眉山文集』卷二「易庵記」(四庫全書)に見える。
○世以為知言 同上。
○唐子西 宋の唐庚のこと。「子西」は字。
○六經 易経・書経・詩経・春秋・礼記・楽経の六つの経書。また、楽経のかわりに周礼を入れることもある。
○仁 やしない、はぐくむ。
○扎瘥 「扎」は、「さす・ぬく」などの意味があるが、ここでは「札」の俗字。『左伝』昭公十九・『国語』周語下に「札瘥」の語が見え、「札」は「大疫で死ぬこと」、「瘥」は「小疫で死ぬこと」とある(『左傳』疏より)。
○訽 「訽」は、「詬」と同じ。「訽病」で、「はずかしめる・そしる」の意味。
○昆弟 兄弟。
○子侄 侄は、姪の俗字。
○幹蠱 「カンコ」と読む。「才能」の意。
○化源 教化の根源。
○稷 農事を担当した役人の名。后稷とも。稷音:「ショク」。
○契 舜の時代の役人の名。この場合「セツ」と読む。
○敬敷 『史記』五帝本紀「契、百姓不親、五品不馴、汝爲司徒、而敬敷五教、在?。」による。
○殊不知 「たえてしらず」と読みならわす。「こんなことも……」というような意外性を含む言い方でも使われる。
○左 「軋」(もみあう・そしる)とほぼ近い意味でここでは使用され、「うとんじる・いやしめる」の意味とも取れる。
○夭抂 「夭」のこと。夭折。
○殽 まぜる。
○乙夜 天皇の読書。
○青嚢(襄)薬袋。医術。
囙 「因」の俗字。
○墻 「牆」の異体字。
○伊藤長胤 仁斎の子。

本草3

2010-02-26 06:01:03 | 学問
題重訂本艸綱目後
 『本艸』葢肇于炎皇、而陶・蘓・陳・寇諸賢相繼漸次増廣、論選品物益精、終至李東壁集古今之大成著作『綱目』一書、取材至富増物甚多、區別部類六十條・収載藥品一千八百九十二種、可謂備矣。此書一出、舊説悉廢、永爲青嚢秘簶・枕中鴻寶・必用不可闕之具。天下之談名物論藥性者皆於斯取法焉。及本邦傳播既廣刻愈多、而字畫訓點率多差訛、藥物倭名往々出於杜撰無稽之説、其遺害於人不少。
 此本乃係最初第一刻、中間西峯松下翁曾較訂之、爾来模印年?、復就漫漶焉。頃書肆某請稻若水先生曾點竄塗抹之本重梓之。舊圖誤寫失其眞者、一一命而改圖之、參攷以諸家『本艸』及稗官小説、又表出『綱目』不収而關于世用者数十種、以附其後。倭名謬呼文字舛差、悉加是正、於是又得一新、比較前諸刻燦然爽眼。
 先生者、當代博物君子也。明察物性旌別眞贋、逈出于東壁諸子之右。嘗病『綱目』書遺漏尚多、未免有承襲之謬、以脩經餘暇、寓意於昆蟲艸木之學、以平章群品爲己任、兀兀不倦纂輯多年累稿成堆、殆盈千巻、網羅古今籠架品彙、勒成一家之言。
 他日、就緒則群言之得失有所定、而庶物之眞贋者有所攷也。其舊所著『炮炙全書』二巻、既?行于世。其餘如『採藥獨斷』・『食物傳信』、猶未脱稿。予素有本艸癖、曾從受説、喜此刻之新成、遂述数語。
 夫格物・正名、聖學之所先也。而學者往々高談性理、而於名物之一事、則視以爲微事末技、未嘗注心於此。故偶舉『毛詩』名物一二以試問之、茫然不辨如夢如痴。既雖眼前至近者猶且不能通暁、何問其餘。
 此書非獨爲醫家一經、實格物究理之一端、不可不讀焉。或曰、
「夫子言多識於鳥獸艸木之名、未嘗言研究其實也。」
予以爲不然。聖人之言、従容不迫、非言讀詩者但止於多識其名而不要必究其實也。近讀清江汪鈍翁集作蘭室記云、
「家藝蘭数本、何必辨其孰眞蘭孰贋蘭。」
以予論之汪説與不辨菽麥者相去幾希矣。皆是掩拙飾辭耳。韓子爲儒宗、猶曰、
「『爾雅』注蠱魚、定非磊落人。」
其所著『原道』舉『大學』八條目、而遺格致一項、先儒已議其失聖經之旨、則其貶『爾雅』不亦宜乎。
 夫子不云乎、「必也正名乎。」名不正、則言不順、事不成。苟名實乖戻、則玉石混淆美悪無辨、人莫知所適從焉。其爲害也非細、故豈格物云乎哉、豈正名云乎哉。若夫誇無用之辨、務不急之察、遺實學而騖空文、無益於天下後生者、則固君子所戒也。予非阿所好、讀者勿以小技視而可也。
 ?正徳巳閏五月既望
平安後学松岡玄達成章甫謹題
 
【訳】
 『本草』は、神農の時に始まり、陶弘景・蘇敬・陳蔵器・寇宗奭ら諸賢らが、引き続きますます対象を増し広げ論じ選び精しくなり、遂に明の李東壁(李時珍)までになると、古今の大成を集め『本草綱目』という一書を著し、取った材・増した物の量はとても豊富で、六十条に分類され薬物一千八百九十二種が収載されており、整ったものと言っていい。この書が出ると、旧説はみな廃されて、ながく医者にとって貴重な書物で必ず用いて欠かすことができないものとされた。天下で物の名とかたちを語り薬性を論ずる者は、みな手本にするものである。本邦で広く伝播され翻刻がいよいよ多くなってくると、字画・訓点がたくさん誤ってきて、薬物の和名がいい加減な考えから記され、人へ及ぶ弊害が少なくなくなってきた。
 この本はというと、最初の第一刻で、その間に松下西峯がかつて校訂したものであり、それ以降、刻版が久しくなって、また文字が判別しにくくなっていた。ちかごろ書店の某が稻若水先生のかつて訂正・書き込みした本を請うて重梓した。旧図の誤写・本物の姿を逸したものを、それぞれ描き改めさせ、諸家の『本艸』やら稗官小説やらを参考にして、さらに『綱目』に収録してなくて世で用いられているものを数十種を項目に入れ、後に付した。和名で名前がおかしいもの・文字の誤りは、すべて是正され、かくて一新されて、以前の刻本に比して燦然たるさまで見るのに快適になったのである。
 先生は、現代の「博物君子」であり、物の本性を明察し真贋を識別し、東壁(李時珍)や諸子をはるかに上回っている。かつて『綱目』の書の遺漏がなお多く、いまだに受け継いだ誤りがあることをまぬかれなかったのを気にかけていたが、経学のひまに昆虫草木の学問に意を注ぎ、(本草関連の)多くの物を評定することを自分の任務とし、倦まずせっせと編集し長い間に、たまった原稿が山のようになり、ほぼ千巻に満ちて、古今を網羅し種類を整理し、まとめて一家の言説を成したのである。
 かつて、段取りがついて多くの言葉・物品についての得失・真贋が校定された。旧著の『炮炙全書』二巻は、すでに世に出て久しい。その他の『採藥獨斷』・『食物傳信』は、なおもまだ脱稿していない。私は、根っから本草について嗜好が強く、かねてから(若水先生)にしたがって説を承っていたが、この刻本があらたに成ることを喜んで、そのまま数語を述べる。
 そもそも、格物・正名とは、聖學がまっさきに手がけるものである。が、学者は往々にして性理を高談して、物の名や形のことについては、些細なこと・とるに足りないわざと思ってみている。そこで、たまに『詩経』の一二の物の名・かたちをあげて訊くと、茫然として判別できず朦朧とした様子になってしまう。目の前のとても間近なものでさえ、もはや分かり切っていないので、その他は問うまでもなかろう。
 この書は医家のためだけの一經典ではなく、まことに格物究理の端緒であり、読まないわけにはいかない。ある人は、
「孔子は、(『詩経』によって)鳥獣草木の名を多く知るとは言ったが、その実際を研究するとはかつて言ったことはない。」
と言う。が、私は、そうは思わない。聖人の言葉は、落ち着いていてせかせかしていないもので、詩を読む者ははただ名を多く知るだけで、その実際を研究しなくてよいと言っているのではない。近ごろ、清代の江蘇にいた汪琬が文集(『堯峯文)で「蘭室記」というのを書いていたのを読んだが、こう言っていた。
「家で蘭を数本植えていたが、どれが本当の蘭か偽物の蘭かを弁別するまでもなかろう。」
と。私から論じれば、汪琬の説と(豆と麦を区別できない)愚か者とはほとんど違いがない。みな、拙さを覆い隠し言葉を飾っているだけである。韓愈は儒家の宗師でありながらも、なお、
「『爾雅』の虫魚に注を施したのは、きっと志が大きくて些末にこだわらない人ではない。」
と言っている。彼の著した『原道』では『大學』の八条目を挙げようとしていながら、(大切な)格物・致知という条目を言い漏らしており、先儒は聖典の趣旨を逸していると既に議論しているわけであるので、韓愈が『爾雅』を貶しているのももっともなことではある。
 孔子は、
「是非とも名を正そうではないか。」
と言っていなかったか。名が正しくなければ、言葉も順当ではなく、物事もうまくいかない。名と実とが一致していなければ、玉石混淆で美悪も分からなくなって、人は往き従うところが分からなくなってしまう。その害は、微細ではないから、格物だけ、正名だけを言うわけにはいかない(両方とも大事なのである)。もし無用の弁舌を誇り、不急の考察に務め、実学をおろそかにして中身のない文にかけずりまわるのは、天下の後生に無益であり、それはもともと君子のいましめるところである。私は、自分の好み(である本草)をひいき目にしているわけではないが、読者が些末な技能として見るのでなければ、それでよい。
 時、正徳巳(1713)閏五月16日
京都の後学・松岡玄達成章甫謹題
 
【語釈】
○陶・蘓・陳・寇 南北朝の梁の陶弘景(『集注本草』)・唐の蘇敬(『新修本草』)・唐の陳蔵器(『本草拾遺』)・北宋の寇宗奭(『本草衍義』)。
○枕中鴻寶 貴重で軽々しく人に見せるものではない書物。漢書・卷三十六・楚元王劉交傳
○漫漶 刻された文字が判別できない状態になること。
○點竄 文章の字句をあらためること。
博物君子 万物に通じている人。『左傳』昭公元年にみえる語。
旌別 識別する。明らかに記す。
平章 公平に品評する。弁別し組み込む。
兀兀 「兀」音:wù。動じないさま。たえずつとめるさま。
○他日 「かつて・将来」どちらかの意味にとるか迷うが、稲生若水は『庶物類纂』千巻のうち三割ほどしか手がけていないので、前文にある「千巻」とは他の書物をあわせていったものと考え、「かつて」と訳した。。
○炮炙全書 稲生若水著。1692刊。
○採薬独断 稲生若水著。
○食物傳信 稲生若水著。
○名物 ものの名とかたち。
如夢如痴 意識が不明瞭なさま。「如醉如痴」・「如痴如夢」などと熟して用いられる。
夫子言多識…… 『論語』陽貨による。
 「詩、可以興、可以觀、可以羣、可以怨。邇之事父、遠之事君。多識於鳥獸草木之名。
従容不迫 落ち着いてせかせかしない。
○江汪鈍翁 蘇・呉県の汪琬(1624~1691)のこと。号は、「鈍庵・鈍」。堯峰先生と称された。『鈍翁類稿』『堯峰文抄(堯峯文鈔とも書かれる)』の著あり。
○家藝蘭数本…… 欽定四庫全書『堯峯文』卷二十三に見える。ここでの引用は、汪琬が自宅の蘭を自慢したら、それは先人の言う蘭ではないと言われ、琬が本物の蘭か偽物の蘭かの区別は必要ないと言ったという内容の一部分の文句を記している。
○不辨菽麥 愚者をいう。『左傳成公十八年
『爾雅』注蟲魚定非磊落人 「讀皇甫湜公安園池詩書其後二首」による。『爾雅』注は、郭璞による。皇甫湜は、韓愈の高弟。
 晉人目二子、其猶吹一?、區區自其下、顧肯掛牙舌、
 春秋書王法、不誅其人身、爾雅注蟲魚、定非磊落人、……。
(『荘子』則陽に見える戴晋人が堯舜を見るのは、剣の穴に息を吹きかけた時の音のように面白くなく思っていた。こせこせと堯舜の下に甘んじるようでは、結局歯牙にかけるにも足りぬ人物となってしまう。『春秋』は、王法を記して褒貶したもので、人を誅殺するためではない。『爾雅』の蟲魚に注したのは、きっと磊落の士ではなかろうー筆者訳ー。
 【参考】この詩は、「皇甫湜の詩を読むと『爾雅』注のようで『春秋』の王法には遠い」という趣旨ー久保天隋『韓退之全詩集』より摘要ー)
○磊落 志が大きくて細事にこだわらない。
○『原道』…… 「傳曰、古之欲明明德於天下者、先治其國。欲治其國者、先齊其家。欲齊其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。然則古之所謂正心而誠意者、將以有為也。今也欲治其心、而外天下國家、滅其天常。子焉而不父其父、臣焉而不君其君、民焉而不事其事。」とあるのを指す。
○先儒 朱子その他を意識して言っていると思われる。
 『朱子語類』卷第十八・近世大儒有爲格物致知之?一段に、「這箇道理、自孔孟既沒、便無人理會得。只有韓文公曾?來、又只?到正心、誠意、而遺了格物、致知。及至程子、始推廣其説、工夫精密、無復遺憾。」
○必也正名乎 『論語』子路篇による。
 子曰、「必也正名乎。」
 子路曰、「有是哉。子之迂也。奚其正。」
 子曰、「野哉、由也。君子於其所不知、葢闕如也。名不正、則言不順。言不順、則事不成。事不成、則禮樂不興。禮樂不興、則刑罰不中。
○「也」字についての補足 「必也」のような副詞の後の「也」は、一旦語気を止めて下に続ける働きを持つ。
 「此類「也」字、是用在「必」「今「郷」等副詞和「過」「更」等動詞作起詞的後面、使語気略作停頓、而有強化語勢和引起下文的作用。」倪志僩『論孟虚字集釋』台湾商務印書館より。
云乎哉 『論語』陽貨篇にも見える反語的な言い方。
 子曰、「禮云禮云。玉帛云乎哉。樂云樂云。鐘鼓云乎哉。」
無用之辨・不急之察 『荀子』天論篇にもとづく。
○既望 16日。
○平安 京都の美称。
○松岡玄達 稲生若水の弟子。
 
【評】
 この序文は、他の序文がそうであるように、幾多の先輩・同輩の目を経たあとで脱稿されたはずであり、すべて松岡玄達一人により成ったものとは考えにくいが、古典からの引用が多く、また、自己主張のつよい点でも目を引く。

本草4

2010-02-26 05:58:36 | 学問
本草綱目序
 
 紀稱、望龍光知古劍、寶氣辯明珠、故萍實・商羊、非天明莫洞。厥後博物稱華、辯字稱康、析實玉稱倚頓、亦僅僅晨星耳。
 楚蘄陽李君東璧、一日過予弇山園謁予、畱飲數日。予窺其人、晬然貌也、癯然身也、津津然譚議也、真北斗以南一人。解其裝、無長物、有『本草綱目』數十卷。謂予曰、
「時珍、?楚鄙人也。幼多羸疾、質成鈍椎、長耽典籍、若啖蔗飴。遂漁獵羣書、搜羅百氏、凡子・史・經・傳・聲韻・農圃・醫卜・星相・樂府諸家、稍有得處、輒著數言。古有『本草』一書、自炎皇及漢・梁・唐・宋、下迨國朝、注解羣氏舊矣。第其中舛謬差遺漏、不可枚數。廼敢奮編摩之志、僭纂述之權。??三十稔、書攷八百餘家、稿凡三易。復者芟之、闕者緝之、譌者繩之。舊本一千五百一十八種、今增藥三百七十四種、分爲一十六部、著成五十二卷。雖非集成、亦麤大、僭名曰『本草綱目』。願乞一言、以託不朽。」
予開卷細玩、?藥標正名為綱、附釋名為目、正始也。次以集解・辯疑・正誤、詳其土産形?也。次以氣味、主治、附方、著其體用也。上自墳典、下及傳奇、凡有相關、靡不采。如入金谷之園、種色奪目、如登之宮、寶藏悉陳、如對氷壺玉鑑、毛髪可指數也。博而不繁、詳而有要、綜核究竟、直窺淵海。?豈禁以醫書覯哉。實性理之精微、格物這通典、帝王之秘籙、臣民之重寶也。李君用心加惠何勤哉。噫、碔玉莫剖、朱紫相傾、弊也久矣。故辯專車之骨、必竢魯儒、博支機之石、必訪賣卜。予方著『弇州巵言』、恚博古如『丹鈆』『巵言』後乏人也、何幸覩?集哉。?集也、藏之深山石室無當、盍鍥之、以共天下後世、味『太玄』如子雲者。
?
萬?歳庚寅、春上元日、弇州山人鳳洲王世貞拜撰。
 
 
【訳】
 古書に、名刀の光によって古剣のありかを知ったり、宝の発する気勢を見て宝の珠であるのが分かったりしたと言うが、(吉祥を伝える)萍蓬草の実・(大雨を知らせる伝説上の鳥である商羊の意味は、(孔子のような)天賦の才能でなくては、見抜けない。その後、博物では張華をあげ、文字の弁別では?康を挙げ、玉の判別では倚頓を挙げるが、これとても(わずかに朝見える星のように)非常に少ない。
 湖北、蘄陽の李東璧(李時珍)は、ある日、我が弇山園に私を訪ね、数日留まって飲食した。彼を見ると、つやつやとした面持ちで痩せていたが、興味つきず論じあったところ、まことに天下第一の人であった。荷物を開くと、余計なものはなく、『本草綱目』数十卷があり、私に、こう言った。
「わたし、時珍は、楚の者です。幼いとき病がちで、愚かななりでしたが、長じては典籍を飴をなめるように読みふけりました。そして、群書・百家を渉猟し、およそ子・史・經・傳・音韻・農事・医・卜・星相・詩歌などの諸家について、やや得るものがあるたびに数言を記しました。昔、『本草』の一書は、炎皇から漢・梁・唐・宋、そして我が明朝までありましたが、注解した諸氏のものは古い。ただ、その中の誤り・遺漏は数え切れない。そこで、僭越ながらも思い切って編集・撰述しようとしたのです。三十年を経て八百余りの氏の書を考察し、原稿を何度も改めました。(もとの『本草で』)重複しているところはけずり、欠けているところは補い、誤りは正しました。旧本は、一千五百一十八種で、今回、三百七十四種の薬を付け加え、十六部に分けて、五十二卷を書きあげました。集大成ではないですが、それでも概ね備わっています。はばかりながら名を『本草綱目』とさせていただきました。どうか一言書いていただいて、ながくのこるようにしていただきたい。」と。私が巻を開いて、じっくりと玩味したところ、薬ごとに「正名」をしるして「綱」となし、「釈名」という欄をつけて「目」となして始めを正確にしていた。次に、集解・辯疑・正誤の欄で、産地・形状を精しく述べていた。次に、氣味・主治・附方の欄で、(それぞれの薬物の)本質・働きを書き記していた。古くは古籍、下っては小説類まで、およそ関連のあるものは、すべて採択していた。あたかも、金谷園に入ったかのようで、種類・色彩が目を奪い、あたかも宮中にもうでたかのようで、集められた貴重品がすべて並んでおり、あたかも氷を盛った玉器のごとき清らかな玉の鏡に対しているようで微細なところまではっきり分かるのである。広範囲にわたっているが繁雑ではなく、詳細ではあるが(ごたごたしていなくて)要を得ており、総合的に考査しながら深く研究し、広くまた深く物の性質を間近に見るかのようである。医書としてのみ見なしていいものではない。まことに性理の精微であり、事物を追求する上での大典であり、帝王の大切な書物であり、人民の大切な宝である。
 李氏は、苦心し(人々に)恩恵を施したのだが、なんとも精進したものだ。ああ、似非玉と玉とが区別されることなく、(正当な)朱色と(混じり気のある間色の)紫色とがしのぎあう弊害はながく続いた。だから、車一杯の骨の正体を分かるのは、魯の儒者(である孔子)を待たなければならず、織女が機を支えた石に詳しいのは、嚴君平に問いに行かなければならなかった。私は『弇州巵言』を書くにあたって、(楊慎が書いた)『丹鉛』『巵言』のように、昔に詳しい人の乏しいの残念に思っていたが、なんとも幸運にこの集を見ることができた。この集は、奥深い山の書庫にしまっておくのは、ふさわしくなく、刻して天下後生で、『太玄経』を研究すること揚雄のような(篤実な)者に提供しないわけにはいかない。
 時
 万暦庚寅(1590)、春の元宵節に、弇州山人・鳳洲・王世貞拝して著す。 
 
【註釈】
○紀 (古書の)記載。
○望龍光……  空に名刀の発する紫色の気を見て、古剣を探し当てたという故事。『晋書張華傳。
○覘寶氣…… 唐の蘇鄂『杜陽雜編』卷上による。
○萍實 萍蓬草=和名コウホネ(河骨)の実のこと。楚昭王が川で見つけた実が何か分からず、孔子に訊いたところ、吉祥をあらわすものと答えたという。『説苑』弁物・『孔子家語』致思に見える。「楚昭萍實」と熟され、吉祥を示す物の意味で用いられる。
○商羊 伝説上の鳥。大雨が降りそうになると現れて舞うという。斉でこの鳥を見かけ、孔子に訊いたら、大雨にために溝を設けるよう勧めたという。『説苑』弁物参照。
○博物稱華 物知りでは、晋代の張華が挙げられる。張華には、『博物志』の著がある。『晋書』の伝参照。
○辨字稱康 古文字の読解では、?康が挙げられる。『神仙傳』王烈、また『晉書』?康伝参照。
○倚頓 「猗頓」とも書かれる。玉の真偽を見誤らないことでは、春秋時代の人である倚頓を挙げる。玉と倚頓に関する記述は、『淮南子』氾論訓参照。
○晬 「晬」は「生まれて一周年」の意味。ここは、「」の誤植で、「つやつやしている。純一なさま」の意味。すぐ後の「痩せている」と「つやつや」したさまとは、相容れず「一途な面持ち」とでも訳せるところだが、『孟子』盡心上「」を下敷きにしたと考えて訳した。
○癯 「臞」と同じ。「やせる」の意味。
○譚 「談」と同じ。
北斗以南一人 「天下第一の人」の意味。「北斗以南」は「天下・全国」の意味。『唐書』狄仁傑伝から。
僃 「備」の本字。
○僭名 「名をおかす」の意味。「僭號・僭稱」と構造的におなじで、「分を越えて」という意味合いを含む。「」と刻されていたが、「」は「わるがしこい」の意味で、「僭」とは別字なので、改めた。
○釋名 別名・その出典・名称の由来や字義。この説明は、小野蘭山著・木村陽二郎訳『本草綱目啓蒙』東洋文庫によった。
集解 産地・形状・識別法。説明は、同上。
氣味 寒・熱・温・涼の四気、酸・甘・辛・苦・鹹の五味、有毒無毒をいう。説明は、同上。
主治 薬効。説明は、同上。
附方 簡単な処方。説明は、同上。
○金谷之園 晋代の石崇の園。
○綜核究竟 「究竟を綜核し」と読む和刻本があるが、誤り。「綜核」「究竟」は、後に続く「淵海」、つまり、「広さ」と「深さ」に呼応している。
○辯專車之骨…… 『国語』魯語による。
○博支機之石…… 『集林』による。
○丹鈆巵言 「鈆」は、「鉛」の俗字。楊慎の著。明史に『丹鉛総録』・『巵言』の著が記されている。
○共天下後世 「共」は、「供」の意味。和刻本では、「ともにす」と訓ずるものと、「きょうす」と音読みにするものがあるが、後者が妥当。
○? 旹の譌字。「時」の古字。
○弇州山人・鳳洲 「弇州山人」・「鳳洲」は王世貞の号。王世貞は、明人(1526~1590)。字は、元美。号は弇州山人。日本の荻生徂徠との関連性は多く指摘されている。
 
【あとがき】
 年末年始にかけて、買った家のリフォームに労力をとられ、なかなか訳が進まなかった。
 そんな理由以上に、王世貞の文章の書き方に面食らったという事情もある。
 
○日本漢文の歴史的意義はなんなのか
 長い間、中國哲學にのめり込んでいた自身にとって、これは大問題なのである。
アジアの共通言語、いわば欧州のラテン語のような存在であったとされる古代中国語は、もはや時代の流れの中で、価値を失ったかに見え、くわえて、日本の詩文は、本家の標準を無視したものが多くあった。
 愛知県豊田市にいたとき、地元の図書館で挙母藩にいた人物の伝記の漢籍を調査し探し當て、図書館員にコピーしてもらったが、研究対象としては、もの足りないものであった。
 また、最近、愛知県ゆかりの鈴木正三の著書の木版が見つかったと賑やかであったが、仏教関連にまで責任を持てないため、研究対象として扱うことができなかった。
 現在、日本漢文は見捨てられっぱなしという状況を何とかしたいのだが……、という思いの一端を、今回序文の訳出という形でのこした次第である。