いわゆる、『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』で描かれたシロー×アイナのようなラブロマンスはアリか?という事なのですが、私的には「無し」だと思っています。
シロー×アイナの関係が、ロミオとジュリエットのような悲劇的かつ運命的な関係であると際立たされるほど、どうでもいい猿芝居のように見えてくる。
なぜなら、彼らの置かれている状況が戦争という「非日常」の中だからです。
普通の日常生活を知っている人間が非日常生活の中に置かれれば、彼らの意識は確実に「非日常」に適応するために変容する事になります。
暴走したキラ・ヤマト(SEED前半)、狂人化したカテジナ・ルース(Ⅴガンダム)、精神崩壊したカミーユ・ビダン(Zガンダム)等はその典型でしょう。
非日常の中で「非日常」を描くからこそ、その非日常性が強調されるのです。
このような状況では、日常的にはどうでもいいような恋愛や雑事が、その非日常性ゆえに至高のものに見えてくるのです。
だからこそ、『ポケットの中の戦争』において、「非日常(戦争)」から「日常(平和)」に帰還したアルは「日常(当たり前のような平和な毎日)」こそが至高のものであるという考えを持つに至ったのです。
「日常(平和)」から「非日常(戦争)」に移行する事によって、普段、どうでも良かったような事がどうでも良くない至高のものへと変化する事になる。
この定義から外れたのが08小隊であり、戦争という「非日常」の中に「恋愛の成就」という日常的な時間感覚・空間感覚を持ち込んでしまっているのです。
過去のガンダムシリーズにおいて、ことごとく「悲恋」が描かれてきたのも、「非日常」の中に「恋愛の成就」といった日常的な感覚を排除するためだったからだと思います。
だから、ミハルは大西洋を血に染め、ヘンケン艦長はエマと添い遂げられず、バーニィとクリスは殺し合わなければならなかったのです。
08小隊で描かれるラブロマンスが三文小説以下の猿芝居にしか見えない理由は、「非日常」の中に「日常」の感覚を持ち込んでしまったからであり、ZZ前半のノリがチグハグな印象を受けるのも、戦争の中にギャグや日常生活を取り込んでしまったからです。
「かけがいのないものだからこそ、かけがえない」と表現するのは容易な事だが、「どこにでもあるものだからこそ、かけがえない」と表現するためには、「非日常」の中で変容するキャラクターを描き「日常」を至高のものであると位置付けなければならないのでは、と思う次第であります。