goo blog サービス終了のお知らせ 

とことん青春!

愛は憎しみより高く、理解は怒りより高く、平和は戦争より気高い。

2005-05-04 15:55:31 | SEEDからDESTINYへ
今作では一貫して“力”に対して否定的なキラですが、実は前作においてキラもシンと同じように“力”を求めていた時期があったんですよね。
その時期はエルの死からバルトフェルドの死までの期間です。この時期の彼は対抗する相手を(現在のシンのように)明確な“敵”と見なして容赦無く討っていたんですよね。
16話ではバクゥのパイロットを踏みつけ至近距離からアグニを打ち込み、18話でもバルトフェルド率いるバクゥ隊を手加減抜きで討ったり、と。

そして、“力”を追い求めて守りたいものを“武力”で守ろうとする彼の意思が最も如実に表れていたシーンがカガリに平手打ちを浴びせ、『気持ちだけで一体何が守れるって言うんだ!?』と叫んだシーンだと思います。彼のこの一言は自身の経験が言わせた台詞でしょうね。
幼女エルを守れなかった【自責の念】に囚われ、武力という名の“力”を追い求めるようになった彼の「変化」が端的に分かる台詞かと。
敵との戦闘力の差を考えずに感情で突っ走った挙げ句、仲間(アフメド)を無駄死にさせてしまったカガリに幼女エルを守れなかった“過去の自分”を重ね合わせたのでしょう。
ゆえに、キラにとってカガリへの平手打ちは“過去の自分”との決別を意味する行為だったと思う次第です。
つまり、「綺麗事だけでは守りたいものを守る事はできない」とし、“武力”を追求するようになった、と。

キラは自分を分かって欲しくてしょうがないのでしょうね。
だから、“力”を持たないフレイに『私の想いがあなたを守る』と言われ、彼女に溺れてしまったんだと思います。
幼き命を守れず己の非力さに泣いた彼の辛さを理解してくれる唯一の存在がフレイであり、無力な彼女が自分を『守る』と言ってくれているのだからなおさら“力”を持っている自分は戦って守りたいものを守らなければならない、と。
その為には今より更に強大な“武力”が必要だと考えたのでしょう。

しかし、彼は“武力”を追い求めた自身の考えが間違いであった事に気付く事になります。
それを彼に気付かせたのは「バルトフェルドの死」なんですよね。
顔見知りでありキラに戦争について本音で語ったバルトフェルドを自らの手で討たなければならないという【戦争の非情な現実】を痛感した時、彼は自身の持つ強大な“力”を否定的に捉えるようになったのだと思う次第です。
つまり、己の“力”の無さゆえに大切な人だったエルを守れなかった事を省みて“力”を追求したが、結果、自らの“力”で(エルと同じくキラにとって大切な人であった)バルトフェルドを討たなければならなくなった、と。
エルの死後、守りたいものを守る為に敵を“敵”と割り切って戦ってきたキラの中に【何と戦わねばならないのか?】という疑念が芽生えた瞬間だったと思います。

このようにキラにも現在のシンのように“力”を追い求めていた時期があった訳なのです。
ここにキラとシンの接点を見出す事ができるのではないかと思います。
今現在、接点らしい接点が無いキラとシンですが、彼らを結び付けるものは【力,敵に対する考え方】という事になるのではないかと思う次第です。

2005-03-29 21:39:59 | SEEDからDESTINYへ
私がSEEDの異様な魅力の虜になったのはキラxフレイxサイの泥沼三角関係があったからなのですが、中でも混迷期のキラの涙には強く惹かれましたね。
特に何度見ても泣けるのがキラが17話でサイをねじ伏せた後に『フレイは優しかったんだ…』と涙ながらに呟いたシーンです。
キラにとって大切な人であった幼女エルの死によって彼が急激に「変化」した事が端的に分かったシーンかと思います。

バルトフェルドを討って『僕は殺したくなんかないのにぃぃ!!』と叫んだシーンより15話の『僕はあの子(エル)を守れなかった…』の泣きシーンや17話の『フレイは優しかったんだ…』の泣きシーンの方が感動的だと感じたのは後者の方によりリアルさがあったからです。
と言うのも、大切な人を失って流す“悲哀の涙”は失った直後に流すのではなく、後々で悲しみが込み上げてきて流すものだと思うからです。
これとは逆に嬉し涙はすぐ流れるものだと思うのですが、それゆえに1stの『まだ僕には帰れる所があるんだ』の嬉し涙は感動的だと思った訳です。

しかし、キラはとにかくよく泣きましたね。
人を殺す度に涙し、人を守れない度に涙し、と。
彼は自省を“涙”という形で表現していた訳ですが、彼に好感を持てたのは自身の行為を省みるという謙虚さがあったからかと思います。
戦場に出て人を殺す事が果たして正しいのか?という疑念が彼の中には常にありましたからね。
ゆえに、彼の流す涙は彼の“人間”たる所以でもあると思う次第です。
「戦争だから人殺しも仕方ない」として割り切る事で戦争を肯定してしまうと憎しみの連鎖にはまっていく事にもなりかねませんからね。
『殺されたから殺して殺したから殺されてそれで最後は平和になるのかよ!?』と言ったカガリの台詞を思い浮かべてしまう訳ですけどw

こう考えると、私の中ではキラが悟りを開いた34話が事実上の最終回だったのかもしれません。
それ以降、彼は自身の行為を省みる事も無く“不殺”というある種の逃げ道を作ってしまいましたからね。
つまり、人を殺さなければ戦場に出て戦う事は間違いでは無いという考えを固めてしまった、と。

そして、今作DESTINYにおいても、初回にシンは家族の死の直後に涙を流し、8話では慰霊碑の前で涙を流しています。
前述のように悲哀の涙は後々、悲しみが込み上げてきて流すものだと思うので個人的には8話の涙の方が感情移入できたな、と思う次第です。
キラも悟りきって自身の行為を疑わないキャラになるのではなくて前作の泣き虫キラのように常に自身の行為を省みて苦悩する(時には涙を見せる)謙虚なキャラで居て欲しいな、と思いますね。

愛国心

2005-02-09 09:13:40 | SEEDからDESTINYへ
前作SEEDで最も不可解だった台詞、それは38話でミリアリアがディアッカに『お前も(艦に)残るのか?』と問われて、『オーブは私の国なんだから』と答え、AAに残留する意思を表明した台詞でした。
つまり、彼女は(この時点では)オーブという【国家の為】に戦場に出ているという事になります。
ゆえに、彼女の戦う理由とはオーブへの【愛国心】という事になるんですよね。
しかし、このミリアリアの言動はストーリー上、あってはならない演出のはずなのです。
なぜなら、前作のテーマは【非戦】であり、【国家や民族の枠を超えた“個人”】を描写する事に最大の意義があったからです。
製作者側はそれまで、散々、【プラントや地球連合の為に戦う事は間違いである】と否定しておきながら、この38話で突然、その演出を覆して【国家の為】に戦場に出る覚悟を決めたミリアリアをヒロイックに描写してしまいました。
この辺りからストーリーが上手く展開しなくなったと思うのですが、ミリアリアのこの一言は前作のテーマを破綻させかねない台詞だったと思う訳です。

そして、この38話でディアッカもミリアリアの事が気になってザフトを寝返りました。
彼のこの行為も本来なら“軽率な行動”だと描写されなければならないはずなんですよね。
なぜなら、それまでのストーリー展開でラクスがキラやアスランの戦う姿勢に疑問符を付け、【戦う覚悟】を問い正す演出が為されていたからです。
それなのに、ディアッカは大した覚悟も無しに“ミリアリアの為に”自軍を寝返りオーブという国家に属する戦いを容認してしまった。
そして、オーブという国家に属する戦いの為に“敵”である地球連合を討とうとする学生達。
キラも泣くカガリに『オーブの為にできるだけの事はする』と言い、【オーブの為に】戦う事を決意します。
そして、アスランまでもが【オーブの為に】戦うキラを守る為に地球連合を“敵”として討つ事を決意しました。

『何と戦わねばならないのか?』という事について散々、苦悩してきた主人公達が結局は【国家の為に】戦う事を容認し、敵対する地球連合を討とうとする。
彼らの行為は【オーブに集結した正義の味方である主人公達が悪の親玉である地球連合を討つ】、という構図に映っても致し方無いんですけどね。
この演出は“リアルロボット”ガンダムSEEDではあってはならないものなのでは、と感じ得ます。
恐らく、製作者側はキラとアスランを共闘させる事が狙いだったのだと思いますが、演出としてはやや強引な感じに映りました。
その後、オーブも崩壊し主人公達は戦う目的がいまいち理解できない状態で“テロ行為”に走る事になる訳ですが…(←なぜかヒロイックに描写されていましたけど)。
今、考えると【キラとアスランの共闘】は無くても良かったのでは、とも思いますね。
彼らが共闘してしまった事によりストーリーが上手く展開しなくなってしまったのでは、とも思えます。

そして、今作DESTINYでも【愛国心】の問題は取り上げられており、6話で登場した【プラントの為に,死んでいった娘の為】に戦う旧パトリック派の人々の行為は、同じく憎しみ取り付かれているシンに疑念を抱かせる事になりましたし、【プラントや死んでいった仲間達の為】に戦う決意をしたイザーク等、【国家の為】に戦場に出る事を決意した人々が多数います。
製作者側が今作のテーマに【非戦】を掲げるのであれば、【国家の為に戦う】という行為は否定的に描写されなければならないので、彼らの行為は否定的に描写される事になると思います。
私としてはイザークには自身の行動を省みて【プラントの為】に戦う事が正しいのか否かについて考え直す機会が生まれて欲しいな、とも思います。
彼が尊敬してやまない議長を疑えるようになるか否かがポイントになりそうですけどね。

立派な大人

2005-02-02 07:01:39 | SEEDからDESTINYへ
バルトフェルドを討って『僕は殺したくなんかないのにぃぃ!!』と叫んだキラ。
彼のこの悲痛な叫びは“知っている人間”を殺してしまったという嘆きだけではなく“立派な大人”に救いを求める叫びでもあったのではないでしょうか。

前作19話でフラガとマリューはキラXフレイXサイの泥沼三角関係を知っていながら、『対処法に心当たりは無い』と言いました。
つまり、彼らは悩める少年達に助言を与えるだけのコミュニケーション能力に欠けていたのだと思います。
フラガやマリュ-は一見、“良い大人”のようにも映りますが、作中においては少年達の混迷に拍車をかける“コミュニケーションを上手く取れない大人”として描写されていたのでしょうね。
その事を最も端的に表したシーンが前作31話でトールを失って泣き崩れるミリアリアに何一つ声をかける事もできずに壁を殴りつけるフラガの姿に集約されていたように感じます。

一方でバルトフェルドはフラガやマリュ-とは対照的に“立派な大人”として描写されていたのだと思います。
それは前作19話でキラとカガリに“戦争の意義”を問い掛けた事からも分かると思います。
あの場面でのキラ&カガリとバルトフェルドの一連のやり取りはキラとカガリの心に刻み込まれた事でしょうし。
だから、キラは敵と言えどもそんな“立派な大人”であるバルトフェルドを自らの手で討った事を懺悔し『殺したくない』と叫んだのでしょう。
それは自分が所属しているAAという共同体には存在しない“立派な大人”を討ってしまった後悔の叫びであると。
つまり、彼はバルトフェルドのような“立派な大人”を欲していたのだと思います。
ゆえに、キラがAAにおける人間関係を崩壊させた事はキラ一人の問題ではなくそんな少年達を支える事ができなかった大人達にも問題があったのではないかと思う次第です。

キラは前作12話で“軍服を着る決意”をしてアスラン達と敵対する覚悟をしたのだから、フレイやラクスに『戦いたくない』と泣き言を言うのはおかしいのではないか?と感じる人も居るかもしれませんが、決意や覚悟というものは常に揺らぎ不安定だからこそ、それを支える土台となるコミュニティーがしっかりしていなければならないのです。
そして、そのコミュニティーであるAAにおいて実質的な権限を握っている(=ルールを決める権限を有している)のはマリュ-達大人なのです。
だから、キラが同年代の少女達に泣きつく前に、本当ならばコミュニティーを支えるマリュ-達大人がキラやサイ達の相談に乗ってやらなければならないと思う訳です。
しかし、前述のようにマリュ-達大人は悩める少年達に助言を与えるだけのコミュニケーション能力を持っていなかったのでキラの混迷に拍車をかけることになってしまったのだと思います。
このAAの大人と子どもの関係って何気に現代社会における大人と子どもの関係と酷似しているようにも思えて怖いなぁ、とも感じ得ます。
悩める少年達を腫れ物のように扱い、何一つ助言を与えられない大人達。そして、自分の殻に閉じこもってしまう少年達、という構図が。

そして、今作DESTINYでは議長が悩める青少年に助言を与える“立派な大人”として描写されているのでは、とも感じ得ます(←腹の内では何を考えているのか分かりませんけどw)。
それは、“父の呪縛”に囚われるアスランに助言を与えた事やイザーク達若者に『平和な未来を築いて欲しい』と演説した事からも分かると思います。
だから、前作のAAに議長のような悩める少年に助言を与える“立派な大人”が居ればキラ達は互いに傷つけ合わずに混迷の道へと歩む事は無かったのでは、とも思います。
大人と子どもの関係はSEEDだけに留まらず、歴代ガンダム作品でも大きな問題となっていますが(←ガンダムの主人公の家庭環境悪すぎw)、SEED&DESTINYにおいてもコーディネイターとナチュラルの対立と同じくらいに重要なテーマになっているのでは、と思う次第です。

脇役の役回り

2005-01-27 06:16:12 | SEEDからDESTINYへ
長いメンテが終わりました!そのせいで昨日は記事を書けなかったのですが、今まで書いた記事が飛んでなくてほっとしたぜよ^^;
さて、と言う訳で記事を書きまっせ☆

フレイ争奪戦を繰り広げてキラに敗れ去ったサイ。
彼の中には“コーディネイター”であるキラに対する偏見が間違い無くあったと思います。
ただ、その感情はフレイやカズイのように表立ったものではなく無意識(潜在的)のものだったのでしょう。
例えば、サイは前作8話でラクスの歌声を“綺麗”と評し、『でも、やっぱそれも遺伝子いじってそうなったもんなのかな?』と何気無くキラに言いました。
実はこの何気無い一言がキラとサイの対立を生むきっかけになっているんですよね。
と言うのも、このサイの一言は聞きようによっては、『コーディネイターは努力しないでも遺伝子のおかげで高い能力(=綺麗な歌声を発せられるetc)を得ている』という風にも捉えられて、コーディネイターに対する【差別的な感情,偏見】を抱いているとも解釈できるからです。

この8話でフレイもラクスに『コーディネイターのくせに馴れ馴れしくしないで!』と言って、コーディネイターに対する差別感情を剥き出しにしました。
彼女の場合は【自分はコーディネイターに対して嫌悪感を抱いている】という自覚があってこういった発言をしているのだと思います。
つまり、製作者側が前作8話で描写したかった事は、フレイは“意識的”にコーディネイターに対する差別感情を抱き、サイは“無意識”にコーディネイターに対する差別感情を抱いているという事であり、【フレイとサイの対比】を描きたかったのではないかと。
そして、コーディネイターに対して意識的に偏見を抱くフレイやカズイと無意識に偏見を抱くサイ達によって【キラの疎外感(=仲間の輪から外れている)】を演出する事が真の狙いだったのだと思います。

サイは前作10話でもラクスをアスランの元へと届けようとするキラに対して『お前は帰ってくるよな?』と問い掛けました。
この一言も聞きようによっては『お前が居なくなったら艦を守る人間が居なくなるので俺達は死んでしまう。だから絶対に帰ってきてくれ』とも解釈できるので、この場面でも製作者側はキラとサイの熱い友情を描写したかったのではなく、キラとサイの【偽りの友情】を描写したかったのではないかと思います。
多分、キラはそんなサイの自分に対する【無意識の偏見】を感じ取ったのだと思います。
だから、前作17話でサイからフレイを奪い『僕がどんな思いで戦ってきたのか誰も気にもしないくせに!』とサイに叫んだのでしょう。

ただ、キラのこの行為が“単なるわがまま”だと視聴者に映っても無理無いのは、製作者側がサイを【キラの疎外感を打ち出す人間】にする事ができなかったからだと思います。
つまり、サイのキラに対する行為が“本当にキラの事を思ってやっている”と視聴者に映ってしまっていたのではないかという事なんですけどね。
彼は【偽りの友情】で以ってしてキラの疎外感を打ち出す役回りだったと思うのですが、彼が“被害者”でキラが“加害者”かのように視聴者に映ってしまった事が製作者側の最大の誤算だったのだと思います。
サイが“偽善者”に為り切れなかったのでフレイを奪われた彼に同情票が集まり、キラの行為がわがままであるかのように捉える視聴者を生み出してしまったのでしょうね。
よって、本来なら、周囲から孤立したコーディネイター・キラが如何にしてそのような苦境を乗り越えて自らを【コーディネイターやナチュラルの枠を超えた“個人”】として捉えられるか、という事を描きたかった所が、わがままで友達を大事にしないキラ至上主義の作品というレッテルを視聴者に貼られる事につながってしまったのだと思います。

こういった事を考えても、脇役の使い方は難しく、今作DESTINYでもヴィーノやヨウランやメイリンといった脇役陣の使い方は物語を進める上で重要になってくるかと思います。
メイリンはアスランを巡ってのルナマリアとの対立軸が出来上がりそうですが、ヴィーノやヨウラン辺りが化けたら面白いかとも感じ得ますw
う~ん、でも、脇役で一番、化けそうなのはアーサーかなぁ。。。

悲劇のヒロイン

2005-01-18 19:26:31 | SEEDからDESTINYへ
ガンダムにおいては死んだ人間がヒロイン第一候補になるという伝統(?)のようなものがあり、1stではララァ,Zではフォウ,ZZではプルがこれに該当したと思います。

そして、時は流れて『機動戦士ガンダムSEED』が放映。
最終話でフレイが死に“真のヒロイン”に為れたのかと言うと、実は為れておらず、もう一人のヒロイン候補のラクスも“真のヒロイン”に為り損ねた形で幕が閉じたと思います。
と言うのも、前作SEEDの最大テーマは【ナチュラルやコーディネイターの枠に囚われない“個人”を描写する事】にあり、キラとフレイの相互理解によりこのテーマを結実させ得たにも拘わらず、「フレイの死」でその相互理解も描けず、派手に散ったフレイのせいでラクスもお座なりにされヒロインの座を奪えなかったからです。
つまり、製作者側がフレイとラクスのどちら側で【枠に囚われない“個人”】を描写したかったのかがはっきりせず、結果、両方とも“悲劇のヒロイン”になってしまったという訳なんですけどね。

前述のように初期ガンダムにおいては死んだ人間がヒロインになるという伝統のようなものがあり、恐らく『SEED』においては「フレイの死」によりキラとフレイが互いに理解できなかったという“悲劇”を描いて、「派手に死んだ人間がヒロインに為るとは限らない」とし、初期ガンダムに対するアンチテーゼを表現したかったのではないかとも思えます。
と言うのも、福田監督は雑誌か何かのインタビューで『最終話のキラXフレイのシーンはフレイの独白で彼女の“想い”はキラには伝わっていない』みたいな事を言っていましたからね。
即ち、あのキラXフレイのシーンは「フレイの死」による【相互不理解】を描いて“最高のコーディネイター”であるキラの力を以ってしても一人の少女を救う事はできないとして、【戦争の悲劇】を描写したかったのではないかと好意的に解釈してみました。
こう考えると、死んだ人間がヒロインと化していた初期ガンダムの流れに逆らっているとも捉えられると思います(←監督が「ニュータイプのような精神世界の会話では真の“相互理解”とは言えない」と言っていましたし)。

ただ、問題は「フレイの死」があまりに派手に描写されたせいでラクスのお座なり感が強まり、彼女が“真のヒロイン”に為り損ねた事にあると思います。
前作4クールのOP&ENDを見ると、明らかにキララク決定のカットばかりだったので、多分、製作者側はキラとフレイとの関係で【戦争の悲劇】を描写し、キラとラクスとの関係で【枠に囚われない“個人”】を描写しようと予定していたのではないかと思うのですが、「フレイの死」の後、キラXラクスの関係をフォローする場面が無かったので【枠に囚われない“個人”】の描写ができずに、テーマが破綻してしまったのだと思います。
そして、それまで“不殺”を貫徹していたキラも結局、クルーゼに対して“力で解決する”という手段に転じ物語の幕が下りました。

この一連の流れを見ると、前作でテーマが破綻してしまった為、今作にそのテーマが持ち越しになってしまったのではないかと感じ得ます。
だから、10話のアスランX議長の会話で前作の最大テーマである【枠に囚われない“個人”】を描写したのでは、と思います。
つまり、前作SEEDは続編である今作DESTINYを前提として作られたのではないかと(←終盤辺りで時間が無くなって“続編”を作らざるを得ない状況になってしまったのかもしれませんが)。
前作最終話のラストで普通のアニメなら表示されるはずの『THE END』,『FIN』といった表示が為されなかったのも(今考えると)前作が続編前提で作られていたからかもしれませんね。
よって、今作で新キャラより旧キャラの方が目立っているのも今作が“新作”ではなく【続編】だからではないかとも思えます。

ゆえに、今作DESTINYでシンはステラとの関係で前作のテーマである【枠に囚われない“個人”(=「家族を失った」という憎しみも悲しみも乗り越えた一人の“個人”)】の描写、議長との関係で今作の最大テーマである【なぜ戦争は起こるのか?】の描写という2つの責務を背負ったように思います。

この2つのテーマ消化を今現在、旧キャラに押されて全く目立っていないシンに託す事は難しいかもしれませんけどね(←製作者側の腕の見せ所かと)。
ってか、今作DESTINYは全6クールという噂もありますが、これらの事を考えると(描写する時間が必要ですから)あながちガセネタでは無いようにも思えます。

SEEDとDESTINYを比較しての「大人」のあり方

2004-12-28 07:52:57 | SEEDからDESTINYへ
私は、前作でキラの混迷に拍車をかけたのは「周囲の大人達」の影響もあったのではないかと強く思っているので、以下、この事についての見解を述べ、DESTINYにおいての「大人」のあり方についても考えてみたいと思います。

さて、前作でキラの生活の場となったアークエンジェル(以下AA)は一つの共同体とも捉えられると思います。
当初は、軍人・民間人を始め様々な年齢層の人々が集まっていました。

私は、このような共同体においては【大人が子どもに対して責任を持つ】という意識が根底になければならないと思います。
なぜなら、実質的な権限を握っているのは大人達であり、マリュ-達上官だからです。

一般的に、人の成長期は生まれてすぐの時期と13,4歳以降の時期に大きな山があると言われています。
自律性が芽生えアイデンティティを確立し、内省による抽象的思考が身に付くのは大体キラのような16歳辺りの年頃なのです。自己を確立し社会と適応し生きていこうとするモラトリアムの中で人生観や価値観を獲得し自己肯定し、社会の中での自身の存在を確信していく重要な時期であると言えます。
つまり、大人になる為の猶予期間とも言える時期だという事です。

当事者意識を欠くこの時期に一人だけ人種の違う人間の中に身を置き、戦い、傷付き疲れ果てたキラに周囲の大人達はどういう言葉をかける事ができたでしょうか?これはキラだけではなく他の学生達にも当てはまる事です。
彼らは、少年達を戦場に駆り立てておきながら、何一つ相談にも乗ることができなかった。
つまり、コミュニケーションの限界を感じていたのだと思います。

戦場でもプライベートでも少年達を大人扱いするという態度は大人のご都合主義にすぎません。
なぜなら、前述のように共同体におけるルールを決定する権限を有しているのは大人だからです。
だから、子どもをどう扱うかという事を決めるだけで、大人達自身が安心感や満足を得てしまうべきではないと思います。
大人が大人のするべき義務を放棄した時、子どもの権利は失われ共同体が崩壊するのはやむを得ない事なのではないでしょうか。AAではその事が顕著でした。

元来、大人は子どもを「保護の対象」として扱ってきました。
にもかかわらず、AAの大人達は少年達を「保護」できなかった。少年達を暴力から遠ざける事ができなかった。キラに混迷の途を辿らせてしまった。
ならば、その責任をキラだけに帰するという事は責任転嫁も甚だしいと思います。都合の悪い時にだけ、子どもを「保護の対象」から除外するというダブルスタンダードがまかり通って良いはずがありません。

キラと他の学生達の違いは【力を持っているか否か】という事だけなのだと思います。

対して、DESTINYにおいては、シン達ミネルバの少年兵は元々、軍に志願して入隊しているので大人を“上官”であると捉えています。
だから、前作SEEDのような大人と少年達とのぶつかり合いが少ない(と言うか無い)のでしょうね。
少年兵とは言え、職業軍人である以上は【戦争を戦争と割り切らなければならない】という意識が少年達の中にあるのだと思います。
だから、ミネルバの大人達は前作でAAの大人達に求められたような事を(少年達に対して)する必要は無いでしょう。

SEEDとDESTINYにおける「大人と子どもの関係」について比較してみると、子どもの側が【軍人であるか民間人であるか】でこんなにも大人の役割が変わってくるのかと思うと、ちょっと新しい視点を得る事ができたような気がします(笑)。


キラの不殺についての私見

2004-12-24 10:42:17 | SEEDからDESTINYへ
前回はキラとシンの“成長”について述べましたが、今回は、キラが悟りを開いた事についての私見を述べてみたいと思います。
キラは34話でラクスにフリーダムを渡され、今までの泣き虫キラから一転してまるで悟りを開いたかのように落ち着き払うようになりました。
あのフリーダム譲渡のシーンは、今回の議長Xアスランのシーンと酷似していた訳ですが、それもそのはず、あのシーンには“枠に囚われない個人の描写”という前作最大のテーマが表現されていたのです。

あのシーンで、キラがラクスに『君は誰?』と問いかけ、ラクスは『わたくしはラクス・クラインですわ。キラ・ヤマト』と答えました。
このラクスの返答は【私は(ザフトの歌姫という枠に囚われない)一人の“個人”という存在であるラクス・クラインです。そして、あなたも(コーディネイターという枠に囚われない)一人の“個人”という存在であるキラ・ヤマトです】という意味だった訳です。

ここまでは物語のテーマが語られていて流れとしては筋が通っていたと思うのですが、問題はキラが“不殺”に走った事にあります。
本当に戦争をリアルに描写しようとするならば、人を殺す事に対する罪の意識が克明に描かれるべきでした。
キラが悟りを開くまでは人を殺す事に対する罪悪感が描かれていたので尚更。
その罪悪感を内に秘めながらも戦争の理不尽さと向き合い、そのような理不尽な世界を変えようとしてこそ真の意味での“成長”と言えると思います。

35話での名も無き兵士との会話でも兵士の『なぜ助けた?』との問いにキラは『僕がそうしたかったから』と答えました。
この会話の意味は『(地球軍やザフトという枠を超えて)僕の意思がそうさせた』という事で、製作者側はこの行為を枠に囚われない“個人”の意思によるものであるとし、キラの成長を表現したかったのではないかと思いますが、戦場で敵を殺す事を嫌った上に助けるとまでなると、キラの行為が幼稚なヒューマニズムの体現であると視聴者の目に映っても止む無しかと感じます。

そして、土壇場でその不殺の信念もクルーゼに破られ、結局は“力で解決する”という形で物語の幕が下りました。
これが続編を前提にした演出ならば頷けますが、SEEDという作品だけで見ると「一体、キラは何を以ってして成長したと言えるのか?」ということにもなります。

詰まる所、キラの不殺の演出の意図も掴めないままになってしまいました。
それなら、素直に「人を殺して葛藤しながらも、その悲しみを乗り越えていく」という形で“成長”を描いた方が(ありがちな描写ですが)気持ち良かったと思います。

そういった意味でも、今作でシンの成長を描写するに辺り、人を殺して血反吐を吐き泥水をすすりながらも、憎しみや悲しみを乗り越えていくという風な形を採って欲しいという希望が強くある訳なのです。


キラとシン それぞれの“成長”について

2004-12-21 19:17:19 | SEEDからDESTINYへ
なぜか家庭環境が悪いガンダムの主人公達。
シンも地球連合軍の侵攻で家族を失うという悲劇の主人公です。もうこの時点で既に大きな挫折を経験しています。
で、なぜシンはガンダムの主人公としては珍しく最初から軍人なのかという事を以下、考えてみました。

シンとキラの最大の違いは初登場時から挫折を経験しているか否かという事なのではないでしょうか。
キラが最大の挫折を経験したのはエルを守れなかった事が最初です。そして、「失う事の悲しみ」に耐え切れず、戦争の現実と残酷さを突きつけられた彼は混迷しました。それを契機にAAの人間関係は脆くも崩れ去ったのです。

キラの場合は、当初、絵に描いた様に純粋な少年でしたが戦争を通して混迷したという「過程」がはっきりしています。
キラは、28話で両親と会わない理由を『今、親に会うと、どうしてコーディネイターとして産んだのか聞いてしまいそうで怖いから』と言いました。
1クール時の「純粋なキラ」が戦争を通して嫌が応にも変わってしまったということが端的に分かったシーンだったと思います。

問題は、キラが「悟りを開いた」ことを【成長した】とスタッフが安易に位置付けた事にあると思います。
あのような形で【成長した】と言うのは難ありかと(苦笑)。
崩れ去った人間関係を再構築する「過程」が全く描かれていなかったゆえにキラ至上主義のレッテルを視聴者から貼られることになったのだと思います(←伯仲志向を有する視聴者をアンチキラへと導く温床になったのでは?)。

今作でシンが最初から挫折している(=戦争の悲惨さを理解している)のは前回、キラの成長の「過程」を(時間不足で)描ききれなかったスタッフの反省からなのではないかと好意的に解釈してみました。
よって、キラのように純粋な時期を1クール丸々、描かなくてすむので余った1クール分で(余裕を持って)シンの成長する「過程」が克明かつ繊細に描かれるのではないかと期待しています。
[キラ~純粋(~1クール中盤)⇒混迷(~3クール中盤)⇒成長(~ラスト)]の流れを[シン~混迷(~2クール)⇒成長(~ラスト)]という形に持って行けるのではないかと。

だから、シンはガンダムの主人公としては珍しい【最初から軍人】という設定なのではないかと勘繰ってみました。

富野御監督が、「主人公の家庭環境が良い作品を作ってみたい」と仰ってましたが、SEEDではこれは該当しそうに無いですな(汗)。
ガンダムって昔から人と人とが紡ぎ出すSFドラマだから、人間関係ってすごい重要になってきますからね。
こう考えるとDESTINYは前作より期待を持って見られると思いますよ。
まぁ、福田監督が人間関係に重点を置いて物語を進めて行こうとする意思がある事が前提なんですけどね。



キラの“疎外感”を描けなかった事をどのようにシンの演出につなげるべきか?

2004-12-20 09:58:37 | SEEDからDESTINYへ
新作であるDESTINYが始まったので、折角だからこの機会に前作SEEDの事をまとめて、どのようにすればDESTINYに前作を活かせられるのかという事について私なりに考察していきたいと思います。
という事で、新しいカテゴリー『SEEDからDESTINYへ』を作りました
私の中では、SEEDとDESTINYはZとZZのような関係ですからね。DESTINYは新作と言うよりSEED2部作といった印象の方が強いですね。
よって、前作を振り返る事により今作での新たな発見があるかもしれないので一度まとめておきたかった訳なんです。


さて、(本題に入りますが)世間一般ではどうか知りませんが、私がかつて通っていた掲示板(←多い時には1日に100以上スレが立つような掲示板です)ではキラはとにかく叩かれる対象でした(私はキラ擁護派だった訳ですが)。
16話でフレイと関係を持った後から酷いバッシングが起こったんですがね。
そのバッシングは「キラは周りの人間の事を何も考えていない」,「すぐキレてすぐ泣く自己中心的な人間」といった意見が大半を占めた訳です。

でも、キラって実は一番人間らしいキャラだとも思うんですよ。
“友人を守りたい”という一心で戦場に身を投じ、結果、幼女を守れず、その悲壮感から勢いでフレイと関係を持ってしまった。
しかし、その背景には幼き命(=幼女エル)を散らせてしまったという【自責の念】や周囲の人間がナチュラルの中、独りだけコーディネイターであるという【疎外感】等が確たる要因としてある訳なのです。

問題は、キラを攪乱要件とするコミュニティーの維持に腐心したサイの扱われ方が酷かったという事なんですが。
キラの【疎外感】を打ち出す演出が思った以上に上手くできなかった(と言うか視聴者に伝わりにくかった)事がアンチキラ派を生み出す温床になってしまったのだと思います。

対して、今作の主人公のシンは、キラとは逆に自分から泥沼にはまり、殻に閉じこもるタイプのキャラでしょう。
つまり、彼の行動自体が彼の【疎外感】を打ち出す事につながっているという訳なんです。
スタッフが前作序盤でキラの【疎外感】を思った以上に打ち出せなかった事の反省が今作のシンの演出に活かされているのでは、と思います。

ただ、誰もが「シンより旧キャラの方が目立っている!」と思う事でしょうけど(笑)。
“仲間達の輪から外れる”という意味での【疎外感】を打ち出す演出は序盤の展開においては(中盤以降の物語をスムーズに進める上でも)最高の形だと思うんですがね。
今の状態はシンが作品から疎外されている感もあります(汗)。

DESTINY序盤の見所はシンが【仲間の輪から疎外されている】という演出を描写できるかどうかという点にもあると思います。
この【疎外感】を上手く描写できれば、その後の人間関係の再構築の度合いがシンの成長を計る物差しに為るという訳です。

私としては、シンの疎外感を打ち出す演出は、前作序盤のキラの疎外感を打ち出せなかった演出を省みた上で為されて欲しいという希望的な観測もあるんですけどね。