「神指城」豊臣秀吉と上杉景勝、直江兼続が望んだ東日本の府城
会津古城研究会長 石田 明夫福島県会津若松市神指町 会津若松市市街地北西、国道49号線沿い 磐越道会津若松ICより5分
慶長5年(1600)2月10日、景勝は神指原に東日本を大表する当時最新城であった平城(模範は聚楽第と広島城)の築城(水攻めの臨時の城ではありません)を命じます。当初は会津盆地のど真ん中、湯川村の北田へ築城使用としましたが、そこは、日橋川と平坦地との落差が5メートル以上あり、運河や堀の水を引き込むことが出来なかったことから断念します。そして、大川(会津では当初から大川という。今では「阿賀川」と付けられています)や応湖川と湯川から水を引き込んで運河や堀として利用可能な神指を選びました。この城を築城する前の2年間、会津美里町本郷の向羽黒山城を大改修し、最後の砦としました。『旧事雑考』によると、築城には直江兼続が総指揮となり、本丸は家臣団で築城し、堀と石垣・門まで築きました。天守閣はも本丸北西に築こうとしましたが、完成しませんでした。二の丸は、家臣と領民8万もしくは12万ともいわれる総動員で築城にあたりました。兼続の配下、鉄孫左衛門泰忠が指揮しました。測量には、夜間、ちょうちんを使用して水平をとり、北は北斗七星を基準としました。そのため、ちょうちん土手の名が残っています。同年6月10日、家康の会津侵攻に備え白河や長沼、田島方面を主として領国の峠について防御する必要があり、城の改修と防塁の築城が急がれたため中止します。面積は、若松城の2倍、55ヘクタール、家臣団の屋敷は若松城外郭の2倍から4倍の、500ヘクタールに及ぶものでした。そのため、『塔寺長帳』には、神指城周辺の13村を移転したと記録されています。13の村とは、会津若松市神指町の高久と飯寺を除いたほぼ全域の村になります。
本丸には、石垣が今でも確認できます。慶長5年の関ヶ原敗北により、慶長6年、自ら築いた城を家康の命令に従い、本丸の石垣と門は崩され、破城したことを家康方が確認し、11月米沢に移転します。
二の丸北東角には、鬼門の御神木となる国天然記念物(樹齢600年、築城200前よりあり)の「高瀬の大木(ケヤキ)」があります。