石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の城1 向羽黒山城 日本三大山城

2006年08月29日 | 会津の城
日本三大山城の一つ 歴代会津領主の最後の砦 国史跡

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津美里町 会津若松市の南西に位置する焼物の町 磐越道会津若松ICより20分

 永禄11年(1568)16代葦名(あしな)盛氏が8年の歳月をかけて築いた山城。葦名氏は、黒川城(現在の若松城)が居城。いざ戦争があると山城の小田山城に立て籠もることになっていましたが、小田山城は、黒川城に近いことや、敵が小田山城を占拠した場合、黒川城はひとたまりもないことから(事実戊辰戦争では小田山に西軍が陣取り大砲を撃ち込まれ甚大な損害を受けています)最後の砦となる山城を6キロ離れた向羽黒山城に築城しました。面積は約50ヘクタールあります。葦名氏の隠居城ではなく、本格的な山城で、その後も伊達政宗が6ヶ月かけて大改修し、蒲生氏郷も2年、上杉景勝も2年かけて大改修しています。最後の姿は、上杉景勝の手によるものです。越後の春日山城以上にしたものです。石垣もあり、葦名氏と蒲生氏郷が築いています。  城全体を大きな竪堀と竪土塁が囲む「総構え」の造りとなります。上杉景勝が文禄の役の時、朝鮮半島の釜山の西に築いた熊川倭城を模したものです。  慶長6年(1601)関ヶ原の戦いでは、上杉景勝は石田三成方であったことから、敗北し、この城や神指城は破城され米沢に移りました。

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