会津古城研究会長 石田 明夫
戸ノ口原にある戊辰戦争、白虎隊のざんごう
会津若松市湊町、河東町 猪苗代湖北西岸国道49号線沿い強清水東側 磐越道猪苗代ICから15分
戊辰・会津戦争の激戦地、白虎隊が戦った戸ノ口原の古戦場は、会津若松市河東町強清水にあります。国道49号線南側、強清水本村の東側丘陵の雑木林内に、1868年8月22日、会津藩で構築した塹壕(ざんごう)跡・陣地跡が8カ所残されています。当時は、胸壁(きょうへき)や要害(ようがい)と呼ばれていました。 慶応4年・明治元年(1868)8月22日(今の新暦では10月7日にあたる)会津藩の白虎隊が、強清水東の菰土山(こもつちやま)に夕方4時ころ到着し、飯盛山で自刃した篠田隊は、新選組にのそ場を譲り、さにら東の姥山(うばやま)に移動します。そこで、徹夜で陣地の構築と話しをし23日(現在の10月8日)をまったのです。23日早朝約5時30分から6時ころ、東で戦闘が始まり、姥山の塹壕を出で、約東へ100メートル移動し、土佐藩の板垣退助が指揮する西軍が近づいたので、溝内に入り、迎え撃ったのです。決戦は、白虎隊隊の射程約2から300メートルのヤーゲル銃に対し、西軍はスペンサー銃とエンフィールド銃と大砲で攻め、決着はすぐにつきました。 戸ノ口原古戦場には会津藩の佐川官兵衛が指揮した白虎隊と臨時集成の者が1日で構築したざんごう跡が三段構えで100メートル以上残っていますが、公開されているのは、市道脇の菰土山と姥山だけです。会津古城研究会で地権者の承諾のもと、草刈りを見られるようにしています。 西軍が構築した塹壕跡も県会津リクレェーシヨン公園内に53メートル残っています。その跡は、明治時代後半に若松の連隊によって再使用されています。 白虎隊隊は、敗戦後、強清水の集落内をとおり、戦死者の見ながら、会津若松市湊町の赤井新田をとおり、小坂の金山地蔵前で人数を確認し、おにぎりを分け合って食べ、金山に向かい、最終的に飯盛山に出ました。なお、原田隊と山内隊は、南の新四郎堀へ移動し、別行動でした。 会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ