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石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津の文化8 オシラサマ

2007年01月11日 | 会津の文化

オシンメイサマと呼ぶオシラサマ信仰 会津若松市

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市高野町

070101_015 オシンメイサマと呼ぶものですが、全国的には、オシラサマと呼ばれることが多いようです。男女をかたどった木彫りの心棒に、着物を重ね着させる風習で、男女ではなく馬とする地方もあります。会津では、男女の神像が一般的です。私の家に江戸時代から伝わるもので、毎年大晦日に着物を着せています。養蚕や子孫繁栄を祈るもので、大きな集落に大体1軒の割りにありました。また、この神像を使用し、悪い部部に当てて病気を沈める呪いにも使用していました。今では、残っている家も少なくなっています。

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会津の文化7  「十日市」

2007年01月06日 | 会津の文化

会津の最大の初市 十日市 会津若松市

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市

200415_005 会津地方で毎年1月には初市が各地で開催されます。  1月10日は会津地方で最大、歴史が最も古い初市、会津若松市の「十日市」です。その始まりは、『富田家年譜』によると七代葦名(あしな)直盛が至徳元年(1384)正月十日、大町(当時の大町は若松城の西側に東西方向にありました。現在の竹田綜合病院付近)の西側入口に住吉大社を祀り、市を始めたのが最初となります。以後、630年以上の長い伝統がある「市」です。現在の大町は、文禄元年(1592)に蒲生氏郷が、城下町の北側(現在の会津信用金庫駅前支店)に東明寺を配置し、寺の正面に真っすぐ伸びるように配置した町です。  十日市は、大町の北に「住吉神社」、南に「春日神社」を祀り、商売繁盛、子孫繁栄を願う初市で、今では、鶴ヶ城築城の由来となった田中稲荷を「市神」として祀っています。  会津若松市には、三日町、六日町、七日町があり、毎月それぞれの数字が付く日に市がありました。なお、三日町と六日町は、室町時代には会津美里町本郷の向羽黒山城の城下に町があり、文禄元年に蒲生氏郷が現在地に移したものです。なお、八日町は、昭和の戦後、七日町の隣にあることから付けられた新しい町名です。  初市には、市飴と、商売繁盛を願う「風車」、子孫繁栄を願い家族より1個多く買う「起上り小法師」を買います。起上り小法師は、岐阜県の岐阜城を攻めた織田信長に由来するもので、信長は7回攻撃に失敗し、8回目に成功したことから七転び八起きとなったもので「起上り達磨」が由来です。2017年で450年となっています。その後、信長の家来だった蒲生氏郷が、僧侶や男子を意味する法師、それを小さくしたことから小さな僧侶や男子として「小」を付け「起上り小法師」として広く家臣に広めたものです。そのため、元は達磨だったことから赤、白、黒色をしているのです。 詳しい会津の歴史や町名は

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会津焼5  会津大戸窯の須恵器

2006年12月07日 | 会津の文化

東日本最大の窯跡、1200年前の「会津大戸窯」を復元 会津若松市

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市大戸町上三寄  室井新聞店

061015_046芦ノ牧温泉の北側、上三寄や雨屋地区には推定400基の窯跡、会津大戸窯があります。約1250年前の奈良時代から600年前の南北朝時代まで焼物を焼いていました。上三寄の室井新聞店、室井芳男さんの弟、正男さんが、須恵器の復元に成功ています。

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会津の文化6  北山薬師おんば様

2006年12月05日 | 会津の文化

会津五薬師、北山薬師の参道にある「おんば様」 北塩原村

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県耶麻郡北塩原村北山  磐越道会津若松ICから30分、喜多方駅から車で15分

061203_124 会津五薬師の一つ、天台宗の北山薬師には、奪衣婆のおんば様の石造があります。極楽浄土の境界線の結界を意味します。この内側は、神聖な浄土を意味しています。

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会津の文化5 切支丹、飯盛山謎の洞窟

2006年11月30日 | 会津の文化

白虎隊の墓がある飯盛山にある謎の洞窟 会津若松市

会津古城研究会長 石田 明夫

会津若松市一箕町飯盛山  会津若松ICから車で15分、白虎隊の墓から徒歩30分

Photo_17  会津若松市一箕町には白虎隊の墓があります。飯盛山の山頂近くには、白虎隊が会津戦争でくぐった戸ノ口堰の洞門とは異なる謎の洞窟があります。山頂には4世紀初頭と思われる全長65メートルの前方後円墳があります。  山頂近くにある洞窟の長さは、奥まで約50メートル、最奥部は水没しています。洞窟内には階段や灯籠のような石造物があります。洞窟の断面は、四角状に掘削されていることから、鉱山ではありません。金などの鉱山とは異なる掘形をしていることや階段があることなどからキリシタンの洞窟と推定されます。現在、その洞窟は封鎖され入ることはできません。その洞窟に入ったことがある人は、今では約4人となっています。

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