おばあちゃんの誕生日なので、好物の「おいなりさん」を作りました。
ひじき煮入りと、白ごま入りの二種類。
常備菜で作る時は、具沢山にするのですが、いなり寿司にするときは、ひじき、にんじん、ちくわにしています。
ひじきは風味、ちくわは、味がしみて、食感がいいです。
ところで、その肝心の油揚げを煮るレシピ。
未だに完全に決められないのです。
小さい頃から大好きで、自分で作るようになって20年くらいになると思うのですが、毎度毎度、ばしっとは決められず、最後の最後まで調合している感じです。
何に、味を合わせようとしているかと言うと、やはり、母の味。
なぜ、母はいつも同じ味になるのか不思議です。
とにかく目分量でどばーっと作りますから、見ていてもよくわかりません。
いつのまにか、その味になっているのです。
こんな話をお盆にした時のことで、
「使っている調味料の種類を同じにしても、どうしても同じにならないのよねー」と言ったのは、すぐ下の妹。
お盆の時のたびたびの食卓でも、妹の次女三歳のみーちゃんが
「どうして、ばあちゃんの作るのはおいしいの?」と言って、その可愛らしい質問に、何度も笑いを誘ったのですが、おうちに帰っても、時々、「ばあちゃんの作って」っと言うそうです。
実は、私のところでも、下の娘が食事の時、宇都宮で食べた同じ料理とかぶったのか(私は忘れちゃっているのですが)、ふいに「ばあちゃんの○○美味しかった。もう一回作って」ということがあります。
それも2,3歳の頃の話もしたりします。
小さい頃の舌は、味を記憶する力が長けているのでしょうか?
やがて、忘れてしまう出来事も今、小さいから覚えていて、その出来事は忘れても、舌にはきっと残るのでしょうね。
いなり寿司の味は、私が好物故に忘れない味で、母が作れば、母の味として受けとめられるもの。
母から離れて再現してみると、それは、母の味にならぬもの。
つまりは、私は、ずっと調合していくのでしょうね。
母との台所での思い出を味の決め手に。
語りもそうかもしれません。祖母や母から聞いたおはなしははっきり覚えています。ほとんどは、寝る前の数分のおはなし。
あの頃の声は忘れていないけど、話も忘れていないけど、でも、ちょっと変わったのは、私の方かもしれません。
覚えているお話を、私のことばでもう一度再現しようとしています。
楽しいお話を自分だけの宝物にはできませんから。
毎回毎回少し味が違うおあげさんのように。
大切な思い出を語りの決め手に。
「おいなりさん」から「語り」の話になってしまいましたが、日常に宿る話がなんといっても心に残るものです。
いつでもどこでも、特別なことではなく、家庭の味のような語りができるといいなと思います。