フクシマからの警告ブログから転載します。
この考察は、8月14日に放送された「フクシマをあるいて 徐京植」(NHK『こころの時代:私にとっての「3・11」』)に基づいたものである。この番組で徐京植氏が語るのは、3・11大震災あるいは福島原発事故そのものというよりも、それによってむき出しにされた日本という社会のおぞましいあり方、そしてそこに生きる人間のあり方についての考察である。日本における「核の平和利用」は1960年代以降の「安楽全体主義(藤田省三)」の中で本格的に開始された。そしてそれは高度成長の終焉機に、大勢の人々を「根こぎ」にし無残な運命へと追いやる圧倒的な暴力として立ち現れている。日本人のほとんどが意識せずに構成員となっている現代の全体主義は、やがてもっと無残なファシズムへと脱皮するのだろうか?(2011年8月28日)
※フクシマからの警告ブログ記事
http://doujibar.ganriki.net/fukushima/up-rooting_and_totalitarianism.html
この考察は、8月14日に放送された「フクシマをあるいて 徐京植」(NHK『こころの時代:私にとっての「3・11」』)に基づいたものである。この番組で徐京植氏が語るのは、3・11大震災あるいは福島原発事故そのものというよりも、それによってむき出しにされた日本という社会のおぞましいあり方、そしてそこに生きる人間のあり方についての考察である。日本における「核の平和利用」は1960年代以降の「安楽全体主義(藤田省三)」の中で本格的に開始された。そしてそれは高度成長の終焉機に、大勢の人々を「根こぎ」にし無残な運命へと追いやる圧倒的な暴力として立ち現れている。日本人のほとんどが意識せずに構成員となっている現代の全体主義は、やがてもっと無残なファシズムへと脱皮するのだろうか?(2011年8月28日)
※フクシマからの警告ブログ記事
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