エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#ならではの呼び名

2024-07-07 10:17:00 | エリクソンの発達臨床心理
「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。 
 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』
 p.85から。

 
毎日の生活の中にある礼拝

赤ちゃんの時期とヌミノース(訳注:驚きと感激)
あの光 あの顔 あの名前


 お母さんと赤ちゃんが、毎朝,お互いにする挨拶から,始めましょう。お母さんの気持ちも,話し言葉も,相手を思い通りにする行為も様々ですが…。そのお母さんは,その赤ちゃんに近づきます,微笑みながら あるいは 心配そうに心明るく あるいは 心配そうに その子の名を呼んで 朝の挨拶を始めます。よくよく見て,手で触れて,匂いを確かめて,そのお母さんは,赤ちゃんが不機嫌な訳とどのように世話を始めるかを探り出します。赤ちゃんの姿勢を変えたり,抱き上げたり,などなど。このような毎日の出来事が,高度に礼拝になっているんです。それは,お母さん感謝の気持ちでいるように見えますし,とても歓んでいるように見えます。すると,お母さんが何かをすると,赤ちゃんは見通し通りのことをしてくれます。赤ちゃんが見通し通りなのは,聖書の神様のいのちが一巡する中で,お母さんが朝の挨拶を進めます。
この朝の挨拶のような毎日礼拝は,その人ならではである(特定のお母さん「特有」ですし,特定の赤ちゃんにもピッタリ)と同時に,人類学が伝える伝統に則った典型でもあります。毎日礼拝は,大なり小なり,心から自由なやり取りですし,大なり小なり,果たすべき義務として強いられるものです。毎日礼拝本当の生き方は,生きるのに必須な 周期的な身体のニーズの上に乗せられています。毎日礼拝本当の生き方は,には,創造が進む中で,已むに已まれぬ気持ちもあります。また,毎日礼拝本当の生き方は,子どもの認知の力が育つことや子どものやる気が育つに頼っています。私はあえて申し上げるつもりではないのですが,ここで申し上げている毎日礼拝の舞台は,有力なピアジェさんの舞台の筋道とピッタリ一致する ということです。ただし,まず,観察する場を想像しなくてはなりませんでしょう。観察の場は,
(訳注:①)赤ちゃんが「環境であるお母さん」との感覚運動的なやり取りを図示するだけではなくて,
(訳注:②)お母さんが,赤ちゃんが理解するために探索することに応えてするやり取りも図示する と共に
(訳注:➂)赤ちゃんとお母さんが,観察者とするやり取りも 図示します。
 私どもが申し上げたい要点は,陽気で楽しくする日々の関わりが細やかでも,価値があるのは,あの真っ当で,畏敬の念を覚えずにはいられない聖書の神様の創造を讃える 細やかでも,粘り強い関わりである場合だけだ,ということです。お母さんと赤ちゃんが,上記のような最初の毎日礼拝の中で向かい合う時,赤ちゃんは,生きていくのに欠かせないこと(…)やすぐに必要なものの塊をさしだしますが,それは,お母さんに世話をしてもらうことで,自分にもお母さんにもピッタリなことにして,返してもらうためなんです。出産後のお母さんも,赤ちゃんと2人生きる習慣の中で,必要不可欠です。と申しますのも,そのお母さんが,赤ちゃんを世話する,どのような本能を与えられていても,そのお母さんが,赤ちゃんを世話することに どんな喜びをいつでも探し求めようと,そのお母さんは,親身なやり方で,特別な仲間である その赤ちゃんのお母さんにならなくてはなりません。この赤ちゃんのお母さんに,このお母さんが成るのですが,心配で赤ちゃんと関わることから逃げたり,毎日のことや自分の役割を強いられることに対して怒りを覚えるのを 大なり小なり我慢したり しながらなんです。お母さんに大事にされたイメージの確かさが仲間から認められ,見守られることと共に,ああはなりたくないなと感じるイメージの要素もあります。ああはなりたくないなと感じるイメージは,そのお母さんがなってはならない相手ですし,少なくと,「よそ者」だと思う相手ですし,嫌い,蔑み,憎み,また,罰当たりで悪く,汚らしく道を踏み外していると恐れる相手です,あるいは,そのお母さんが守っている 女性らしさ によって,導かれることもあります。幸いなのは,そのお母さんが,自分を大事に育ててくれた自分のお母さんと一心同体になったお陰で,自分が引き受けた いのちを一巡させるお役目 の中で,神様から力を頂くことです。他方,そのお母さんが母性は,赤ちゃんの願いにますます応えていくことによって,心から優しい と繰り替えし赤ちゃんに認められます。
聖書の神様のいのちが一巡する中で,その赤ちゃんも、全能で,しかも,一番慈しみ深い「聖書の神様」と一体であることを実感する中に土台がある 好意に満ちた自己イメージを育てることができます。お母さんのサンゴの状態が,このやり取りを強めるのですが,遅かれ早かれ,真実にお母さんらしいお母さんが「生まれたてのお母さん」に取って代わることになります。
 そのお母さんが,その赤ちゃんを 名前で呼ぶ事実に意識を向けてみましょう。名前は,名づけの大切な儀式の中で,丹念に選ばれ,真心が込められます。この名づけの大切な儀式は,両親にとっても,暮らしの場を共にする人たちにとっても,欠くべからざるもの と思われています。しかし,どんな手続きが,その名前にどんな意味を与えようとも,その意味は,母子が毎日出会う中で,その名前を呼ぶ呼び方に 深い意味を与えます。また,そのお母さん(達)にとっても,また,最終的にも,その子どもにとっても,その人ならではの値打ちを示す(訳注:フランクルが言う 態度価値)がキラリと光ります。このようにして,母親も,自分には自分ならではの呼び名で呼びます。


 お母さんにも,自分ならではの呼び名があると言いますね。日常的で当たり前の呼び名が,とても大事です。
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