人生にヴィジョン、すなわち、ハッキリした目的があれば、自分が自分の人生の主人公であり、自分の人生にはっきりした方向性を感じて、生きるに値する確かな価値があることに手応えを感じて生きていけます。しかし、ヴィジョンを見失い、何のために生きているのか分からなくなると、消極的で、困惑し、圧倒された感じが広がってしまいます。秋葉原事件のようなものは、消極的で、困惑し、圧倒された感じを感じながら、生きづらさに行き詰った激怒がハッキリした形で現れたものだと考えて大過ないでしょう。 Toys and reasons. P.161,第2パラグラフ。
シーモア・ハーシュの見事な記事を読まなくてはなりません。その記事は、18~22才のアメリカ人 の、半分は黒人、半分は白人の1中隊が、ほとんどのものがまだ一度も見たことにない敵に対する最初の作戦で、遠方の1小村に降下させられたのは、敵の拠点と思われたその村で殺戮を行うためでした。隊長にとっても、それは困難な戦いに見えました。 隊長は、部隊の者たちに少なくとも2対1の割合で、数で勝ることを要求しましたが、同時に、自分の部隊の火力と、ヘリコプターと武装ヘリの乗組員の火力を信じていたのでした。もちろん、その時までに、ゲリラ戦術という共産主義者がやってくれる対抗的な礼拝を目の当たりにして、それまでの科学技術に頼った戦争の物流(兵たん)とプロ意識が大きく殺がれることになりました。というのも、「背後から狙い撃」たれることが常,になっていたからです。 そこで隊長は 「(作戦は)仕返しだ」と語り、自分の部隊の者たちに、自分たちの部隊が通過する時には、「誰も歩いてやしないし、育ってないし、匍匐前進もしてない」し、実際「生きているものなどいない」と熱く語っていたのです。この矛盾した命令は、1人の兵士が語ってくれたことですが、「人それぞれ、その時の気分で、バラバラに受けとめられてた」のです。まさに、命令(order 礼拝 秩序)なんぞ,1つもなかったのです。そして、現実に、そこで実際に起こったことと言えば、道理に外れた暴虐の限りでしたでしょ。いろんな軍事教練という、日常生活の礼拝を急速に喪失する時に現れる暴力的な症状は、一発ぶっ放すことによって、通過儀礼が執り行われることになっています。
日常生活の礼拝が失われると、生きる目的も見失われるので、人々の行動がバラバラとなり、暴力が蔓延するのです。集団が目的を失うと、秩序を維持するものは、力(暴力,人をコントロールしようとする力)だけしか残っていないからです。一発打つこと(実際に打つ場合もありますし,人事などで脅す,と言う場合もあります)は、日常生活の礼拝を喪った世界で執り行われる,力しか信じなくなった集団の通過儀礼になります。そこでは、やり取りは、仕返し(倍返し?)に変わってしまいます。信じられるのは、力と「人間を上下2つに分けるウソ」だけになるからです。
お役所仕事の世界もこれです。
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