聖書の言葉:εἰρήνη エイレネ,平和,福祉セラピーは礼拝 コンプレックスが強みに代わる時 マルティンは、いわばコンプレックスの塊です。しかし、それが無駄でなかったのですね。 Y......
今朝は,ちょっと,宿題を片付けます。
Young Man Luther 『青年ルター』p.208の下から3行目途中から。
禅の理解が深まりましたから,改訳します。
意義深い意味が失われているのが,passivity 受け身になって生きる、という何気ない言葉なんですね。失われた意義深い意味の中でも,自分の感性を生かして,五感を駆使して生きる,歓んで直観のあの声を「生みの苦しみとして引き受ける」,a Passion,キリストの十字架を1つ生きる,という全人格を掛けた人生の習慣です。すなわち,全人格を掛けて受け身を生きる人生の習慣においては,じっくりと星回りを考えて,損得勘定を犠牲にして,自分を超越することを通して,人は,何の保証もないリスキーな状況(空)に自ら飛び込んで行く立ち位置を取り戻して,そのようにして,救われます。これは心理学の謎の1つですし,「十字架のバカ」のあの英知の中にあります。
神様の声,直観の声に従うのは,まさに「生みの苦しみを引き受ける」ことになります。旧約聖書でアブラムが,神様の声に従って,定住の地から出て,荒野を彷徨ったことと重なりますね。アブラムも,神様に不満を言いますよ。「いい年して,子どももいないのに,私の子孫が,砂粒ほど数え切れない位になる,という約束を神様は果たして下さるのですか?」と。その時,神様はアブラムを外に連れ出して,星空を見させて,「あなたの子孫はこの星の数ほどになりますから」と再び同じ約束をしたと言いますでしょ。有名ですから,クリスチャンでなくても,ご存知の方が多いでしょう。
禅でも,最後は「百尺竿頭一歩を進む」といいますもんね。頂点に達したと自分では思った30メートルの上は,真の頂点ではない,30メートル上空から真の超越である空(何の形もない何の保証もない危なそうに見える所)に飛び出せ,というわけでしょ。
日常生活の中には,日常生活の延長ではない,超越が隠されています。その封印されている超越を発見して引き受けること,全人格を掛けて受け身を生きることが,洋の東西を問わず,救いになります。
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