エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

私を確かにする時に、邪魔になるものの“しるし”

2013-12-15 22:13:33 | エリクソンの発達臨床心理

 

 エリクソンの関心は、あくまでも若い修道僧の頃のマルティンなのです。そのことを明確にします。

 

 

 

 

 読者諸兄は思い出すはずですが、聖歌隊でルターが発作を起こした物語に私が引き付けられるのは、もともとは、「私じゃない」という言葉によって、この発作が、自分を確かにする道を邪魔する、非常に厳しい危機(非常に厳しいアイデンティティの危機)の要素になっていたことを示すのではないのかな、と何となく感じたからなのです。その危機は、この若い修道僧が、「私(は、何かに取りつかれているんじゃない、病気じゃない、罪深い訳じゃない)じゃない」ことに抵抗せずにはいられないと感じるものでした。しかも、それは、ルターの現状と将来の予定を突き破るためでした。この後に私が申し上げたいのは、私が何となく感じていることと、その感じを手掛かりに理解しようとしていることです。

 

 

 

 

 

 発作となれば、「悪い病気」や「キツネ憑き」でも連想しがちです。しかし、ルターが、「私(は、「悪い病気」)じゃない」と言っていることから、その発作を、ルターが自分を確かにすることを邪魔している課題を示している、とエリクソンは感じたわけですね。

 臨床場面でやっている治療の枠組みを参考に、歴史と歴史上の人物であるルターを、エリクソンが見ていることがハッキリ分かりますね。 

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