第2世代の精神科薬も、使わない方が良いなんと空しいことか 改訂版 なんとむなしいことか、と言うと、ニヒリズム、と思われるかもしれませんね。 1月17日を迎えて、また、まもなく、3.1......
神様の名前。本田哲郎神父様は、それを「エヒエー」だと言います。『旧約聖書』の最初から2番目の「出エジプト」、モーセがユダヤの人たちと一緒に、奴隷であったところから脱出して自由になる、解放の話です。その中の第3章14節に神様の名前が出てきます。
ユダヤ・キリスト教の歴史の中で、名前はとても大事です。言葉と出来事が同じ言葉、ダーヴァールであるように、名前は、その実態を示すものでなくてはならないからです。看板倒れ、名前負け、であってはなりません。
その翻訳には、いろんな翻訳があります。http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E5%87%BA%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E8%A8%983%E7%AB%A014%E7%AF%80。関根正雄先生が「わたしはあらんとしてある者である」と訳していることは、注目に値すると感じましたね。
ギリシア語では、Ἐγώ εἰµι ὁ ὤν エゴー・エミ―・ホー・ウォンです。ὁ ὤν ホー・ウォンは、動詞εἰµι エミーの現在進行形ですから、神様は常に現在進行形です。以前にこのブログでも申し上げました。関根先生は、この現在進行形を上手く翻訳していると感じますね。
神様は、現在進行形で、常に私どもと「共にいる」存在です。そして、特に辛い状況、苦しい状況の時に、私どもひとりびとりが「共に見る」ことを支えてくださいます。昨日のブログ聖書の言葉 : イエスが見る εἶδεν 不思議に、ここで繋がりますね。
神さまはいつでも「共に居る」存在だからこそ、私どもと「共に見る」ことができる、という訳です。
ですから、神様がいつでも「共に居る」存在であることが、私どもの圧倒的で、静かな、湧き上がる悦び、ヌミノースの源です。
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