エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #1人豊か  #いのち

2018-12-09 05:20:17 | 聖書の言葉から

 

 

 

マハトマ・まど・みちおさんの言葉から

無限の

いのち

 

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#薬 #儲かりまっせ #患者のためにはならない #自己中心的な製薬会社と医者が儲かるための薬

2018-12-09 05:12:03 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 
#医者中心の医療 が #発達トラウマ障害DTD #苦しめる #間違い #義憤から始まる改革
 現世考 : ギャンブル法の野蛮な肝   本物の祈り    日本の公教育の病理 その5 主権在民の忘れ物  日本の学校がウソとゴマカシの組織になっちゃってんのは、1......
 

 

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 第2章。「心と身体を理解する,革命」,p.37の,第3パラグラフら。その前もご一緒に。

 


脳を落ち着かせること


 1985年のアメリカ精神薬理学会の総会は,可能ならば,それ以前の会よりも,はるかに知的刺激に満ち満ちたものになりましたね。キングスカレッジの教授,ジェフリー・グレーは,扁桃体の話をしました。扁桃体は,音,イメージ,体感が,脅威を感じるかを判断する脳の塊です。グレーが教えてくれたことは,扁桃体の感受性は,少なくとも一部は,脳の部分にセロトニンという神経伝達物質の量による,ということでした。セロトニンが低レベルの動物は,ストレス刺激に過剰に反応しましたが(大きな音を立てる),セロトニンが高レベルの動物は,警戒システムを弱めましたから,脅威になるかもしれないことに対して,攻撃的にならず,凍り付くこともありません

 1985年のアメリカ精神薬理学会の総会は,私にとって,大切な発見となりました。私の患者さんは,小さなことがきっかけで,怒りを爆発させますし,ちょっと断られたくらいで,ひどく落ち込みます。私はPTSDにおいてセロトニンが果たす役割について,強い関心を持ちました。他の研究者の報告によれば,男のボス猿は,低い地位のサルに比べて,セロトニンレベルが極めて高い,ということでしたが,かつてエバっていたサルにアイコンタクトを続けると,セロトニンレベルが下がる,ということでした。反対に,低い地位のサルが,セロトニンのサプリメントをもらうと,ボスになろうとして,群れから離れる,というわけです。人という環境は,脳内の化学物質と呼応しているんです。一匹のサルを操作して,上下関係の中で低い位置にすると,その猿のセロトニンレベルが下がりましたし,化学的にセロトニンを増やすと,以前は下にいた者たちのランクが上がりました。

 トラウマを負わされた人に対する意味は明らかでした。グレーのセロトニンレベルが低いサルと同様に,トラウマを負わされた人は,多動でしたし,人の言いなりになりやすい場合が多かったんです。セロトニンレベルを上げる方法を見つけたなら,トラウマを負わされた人が,多動であることと,人の言いなりになりやすいことを解消することができたのかもしれません。同じ1985年の学会で私が知ったのは,いくつかの製薬会社が,セロトニンレベルを正確に上げるために,2つの新製品を開発中だということでしたね。その新製品は,まだできていませんでしたが,健康食品のお店で手に入れられるサプリメント,L・トリプトファンを,少しの間試しましたことがありました。このL・トリプトファンは,身体の中でセロトニンの化学的前駆体になる物質です(いずれの結果は,ダメでした)。研究されていた2つの新製品の1つは,市場に出回ることはありませんでした。もう1つの新製品は,フルオキセチンは,プロザックという商品名ですが,かつて作り出された向精神薬の中で,一番成功することになりました。

 月曜日,2月8日1988年,プロザックがエリ・リリー製薬会社から販売されました。私がその日最初にあった患者さんは,ぞっとするほどヒドイ子ども時代の若い女性でしたが,過食に苦しんでいましたから,人生を食べ吐きに費やしてきました。私は新しい薬のプロザックを処方しました。それで,その次にその女性がやってきたのが,その週の木曜日でしたが,「この2日3日,とても違うんです。食べるのはお腹がすいた時だけで,後は勉強をしています」というわけです。これは,今まで聞いた話の中で一番劇的に変化したことを示す言葉でした。

 金曜日には,別の患者さんに会いまして,月曜日にプロザックを処方していました。その女性も慢性的にうつの人で,小学生のお子さんが2名いましたが,母親として,妻としても,失敗も多く,子どもの頃に辛い子育てをした両親からの様々な求めに,圧倒されていました。4日間プロザックを服用して,次の月曜日の診察を休んでもいいですか,と言ってきたんです。その日は,ワシントン誕生記念日でお休みでしたから。その女性は「結局は,子どもたちをスキーに連れて行ったことがないんです。いつも主人が連れて行ったんです。子どもたちはその日お休みなんで,いい思い出に,一緒に遊びに出掛けるのがいい,と思うんです。

 この人は,一日を過ごすだけで大変な思いするのが常の患者さんだったんですよ。この女性の診察のあと,エリ・リリー社の知り合いに電話して,言ったんです「あなたのところで出した薬は,人が,過去に縛り付けられるのを止めて,今ここにいられるようにするのに役立ちますよ」と。リリー社は,私に少し研究助成金をくれて,64人のPTSDの人にプロザックが効くかを研究することになりました。この研究は,PTSDに対して新種の薬が効く効果を研究する最初の研究になりました。私どものトラウマ治療チームは,33人の退役軍人ではない人と,私の同僚たち,退役軍人局で以前同僚だった人たちを加え,また,31人の退役軍人を加えました。8週間2つのグループのそれぞれ半分がプロザックを,それぞれ後の半分が偽薬を飲みました。研究は,盲検法でした。どの患者さんも,自分が飲んでいる薬が,プロザックなのか,偽薬なのか,知りませんでしんから,私どもの先入観によって,私どもの査定がゆがまないようにするものでした。

 このプロザックの効果研究の中で,偽薬を服用した人でさえも,少なくともある程度,PTSDがよくなりました。PTSDのほとんどの治療研究によって分かったことは,偽薬でもかなり効果がある,ということでした。バイト代も貰えず,繰り返し注射をされ,しかも,効果のある薬を服用できる可能性が50%だけの研究の研究に参加する勇気をふり絞った人の本音は,自分の課題を解決したいという一心でした。もしかしたら,この勇気をふり絞った人たちのご褒美は,自分を診てもらえる,ということだけだったかもしれません。自分が診てもらえる,とは,自分が感じて気持ちや考えていることに関する問いに応えてもらうことでした。しかしながら,お母さんからキスしてもらうと,キーキー言っていた子どもが大人しくなりますから,「本物」の薬なのかもしれませんよ。

 プロザックは,トラウマ・クリニックの患者さんたちにとっては,偽薬よりもかなりましでした。患者さんたちは,夜はすやすや眠れましたし,砂糖の偽薬をもらった人よりも,気持ちを上手にコントロールできましたし,過去に囚われることも少なくなりました。ところが,驚いたことに,プロザックは,退役軍人局の戦闘体験者には,全く効果がありませんでした。戦闘体験者のPTSDの症状は,全く変わりませんでした。プロザックが退役軍人の人たちには効かなかった結果は,退役軍人の人たちに対する,これに続く様々な薬理学的研究にも,大体当てはまりました。少し良くなった退役軍人も少しはいましたが,たいていの退役軍人には,全く効きませんでした。なぜなのかは,これまでわかりませんでしたが,一般的な説明には,納得できませんでした。軍人恩給や障害者年金を手にしているから,よくならない,と言われていたんです。結局は,扁桃体は年金を知らないんですから。扁桃体は恐怖を見つけ出すだけなんですから。

 それにもかかわらず,プロザックや関連する薬,ゾロフト,セレクザ,シンボルタ,パキシルなどの薬は,トラウマ関係の様々な障害の治療にかなり役立っています。私どものぷろざっく研究では,ロールシャッハテストを用いて,トラウマを負わされた人たちが,どのように周りの人たちを受け止めているのかを調べました。この研究のデータのおかげで,この種の薬(公的には,セロトニン再取り込み阻害剤,SSRI)がどのように効くのか,ということの手掛かりを得ることができました。プロザックを飲む前は,こういった患者さんたちの様々な気持ちによって,様々な反応が抑制されていました。たとえば,オランダ系の患者さんは,子どものころにレイプされたことを治療しに来ていた人ですが,その女性は私の英語のオランダ訛りを聞いた瞬間,私もその女性をレイプするに違いない,と確信したんです。ところが,プロザックを飲みますと,全く違ってきました。プロザックのおかげで,PTSDの患者さんたちは,見通しを持つことができて,自分の様々な衝動に対して,だいぶコントロールすることができるようになったんです。ジェフリー・グレーの言ったことは,本当だったんですね。PTSD患者さんたちのセロトニンレベルが上がると,私のPTSD患者さんは,物事に動じることが少なくなった人が多かったんですから。


薬理学の勝利


 薬理学が精神医学に革命をもたらすのに,そんなに時間がかかりませんでしたね。様々な薬のおかげで,医者たちは「自分も結構やれるもんだなぁ」と自信をもたらしましたし,お話しセラピーに勝る道具を手にしました。様々な薬のおかげて,医者たちは,収入を得てがっぽり儲けました。製薬産業から補助金がガッポがっぽと来るので,私ども医学教育をする者には,エネルギッシュな大学院生と高価な研究器具とで溢れ返りました。精神医学教室は,病院の地下室にあることが相場でしたが,精神医学教室の地位とフロアーが,共に上がりだしました。

 この変化の象徴の1つは,マサチューセッツ州立精神衛生病院でもありました。そこでは,1990年代はじめに,病院のプールに蓋をして,研究所にするスペースを作りました。また,室内のバスケットボールのコートが,真新しいクリニックのいくつもの診察室に早変わりしました。何十年もの間,医者と患者は,プールに水しぶきを上げて,民主的に一緒に遊んできましたし,バスケートボールのコートでは,ボールをパスしてきました。体育館で何時間も患者さんと一緒に汗を流したのは,病院研修生だったころのことです。体育館は,私ども医者も患者も,身体の良い状態を実感する実感を回復する場でしたし,体育館は,私ども医者と患者が直面させられていた深い悲しみの中にある,救いの小島でしたね。いまや,その場所は,患者が「良くなる」場になってしまいました。

 薬が革命的に変化が,たくさんの約束を伴って始まったことから,その革命的変化の終焉も,良かったことと同じくらいの弊害を伴っていたのかもしれませんよ。病気は脳内の化学物質のバランスがおかしいから生じるんだから,特定の薬によって,バランスを取り戻せば,治るはずだという理論が,広く受け容れられましたが,それは病院関係者ばかりではなくて,マスコミや一般の人もそうでした。多くの病院で,薬がセラピーに取って代わりましたし,背景をなす発達トラウマの課題には目もくれずに,症状だけを取りました。抗不安剤のおかげで,日々の暮らしをしていくのに役立つ,という点で,世界が変わりました。睡眠薬を飲むのか,それとも,ちょっとの間眠るために,グデングデンに酔い潰れるまで毎晩お酒を飲むのかを選ぶなら,選択の余地はないでしょ。ヨガ教室,トレーニングをする習慣,単に耐え抜くことを通して,自分の力でうまくやろうとすることに疲れている人にとって,薬を飲むと,ホッとできて救われた思いをする場合が多いんです。様々なSSRIは,トラウマを負わされた人が自分のいろんな感情に捕らわれていることから解放してくれるのに役立ちます。ところが,様々なSSRIは,あらゆる治療において,補助的なものと考えるべきです。

 PTSDの患者さんたちに薬を試すたくさんの研究をした後で,分かったことは,精神病薬は深刻な副作用がある,ということでしたね。病の背景をなす様々な課題を無視しがちだからです。脳の病のモデルは,人々の運命を,当事者から奪い去り,問題解決を,医者や保険会社の手にゆだねてしまうことになります

 この30年以上,精神病薬は,私どもの精神医学の会の主流になりましたが,様々な怪しい結果が出ています。抗不安剤のケースを考えてみましょう。抗不安剤は,私どもが信じたような効果が実際に出せたならば,うつ病はもう,アメリカの社会では,小さな課題になっていたはずでしょう。でもそうはならずに,いくら抗不安剤の服薬量が増えても,うつ病で入院する人の数は減りません。うつ病を治療している人の数は,ここ20年で3倍になりましたし,アメリカ人の10人に1人は,いま,抗不安剤を服用していますから。

 新世代の抗精神病薬,アビリファイ,リスペダール,ジプレクサ,セロケールは,アメリカで一番売れている薬です。2012年には,1,526,228,000ドル(およそ,1,500億円)の公費が,アビリファイに注ぎ込まれました。その金額は,他の薬よりも多額でした。


 薬は莫大な利益を製薬会社と医者にもたらします。

 薬は患者にとっては,害が大きいです。

 ですから,薬は製薬会社と医者のために存在するといえます。

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#子ども は #キリスト

2018-12-09 04:51:14 | エリクソンの発達臨床心理
 
#聖書の言葉 #1人豊か #追いかけられますよ #☺
 インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 自分の感性に従った行動すること   相対性の時代   ブレークの警告  幼稚な道徳と、青年の価値意識と、大人の倫理の区別......
 

 

 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.118,8行目の途中から。その前も,ご一緒に。

 

 日常生活を礼拝にする礼拝を繰り返しより善いものに作り直す

 

 さて,いま,この本のど真ん中を通り過ぎて,私が日常生活を礼拝にすることや,日々の礼拝が発揮するあの力を,殊の外,大切にしていることに,お里が恋しくてお里を守らなくちゃとばかりに抗議する読者もおられるやもしれませんね。日常生活を礼拝にすることや日々の礼拝が,「上手に働く」と,私がほんとうに思っているんでしょうか,とか,日常生活を礼拝にすることや日々の礼拝が,人格や仲間にとって欠くべからざるものと,私が思っているんだろうか,とか,思っている読者もあるいは,おられることでしょう。それに,もしも,こんな「生まれながらの」やり方が,仲間を作る動物や,原始社会やある種の伝統的な社会の中で見ることができるならば,私がここで図表にしたことの核心は,どうしようもない危機のように見えますが,人口が増えすぎて,汚染され,工業化され,機械化された現代社会には,役に立たないのかもしれません。人間の中で,日常生活を礼拝にすることが進化論上極めて大切だ,とすれば,特に,新しく心から優しい話し言葉を話す日常生活を礼拝にする礼拝を創造する,今に合う道をいかにして見つけ出すのか,という問いを,回避することができるでしょうか? この日常生活を礼拝にする礼拝は,マスコミによるものであったり,あるいは,動物行動学者や精神分析家の訓練し過ぎたお眼鏡には適わないかもしれないやり方であったりします。私自身が申し上げたように,驚き感激するヌミノースと自分が生きている実感を善しとして生きる指針にすることや,生きている実感を遊びにすることや,生きている実感通りに繰り返し生きることは,1つの新鮮なスピリットからのみ生まれますから,全てはキリストのおかげです。この新鮮なスピリットであるキリストは,究極的には,人類全てと一心同体になることを具現化しますから,人類皆兄弟が現実になります。というのも,私どもは,全部が全部,いま一時的に流行りの生き方はしていても,「人間らしい,心から優しい存在」に,最深欲求と結び付けて本気で,なっていない場合がほとんどでしょ?

 聖書の神様が創造の前に天からお示しくださった,もう1つの地図に関しては,私の学生さんたちは,「こういった綺麗な指針は,エリクソン自身が心から礼拝で確信しきたことなんだろうか」とずっと疑わずにいたんでしょうかね? 「様の命が一巡するのって,特権的な人だけができることなんじゃないの?」私が示した人生地図は,理にかなった,命を育むガイドブックみたいなものだ,ということに訝る向きもおありでしょう。でも,そういう疑り深い人たちは,ハッキリとしていることまで否定しがちです。すなわち,大人とは,人生の様々な舞台で,陽気で楽しいことを失ってしまっている,という事実によってまさに定義される人が多い,ということです。貧しくて,ゆとりのない人ばかりではなく,ゆとりが多い恵まれた立場の人も,陽気で楽しいことを失ったら,人はバラバラのままになりますし,生きている実感を感じなくなります。陽気で楽しいを失った大人が,その子どもたちに与えるゆとりにとって,大人たちがさまざまな舞台で陽気で楽しいことを失ってしまっているということによって,大人になることから,あの聖書の神様の命漲る歓びをなくしてしまいますし,結局は,反抗そのものも失敗して墓穴を掘るだけです。

 こういった様々な留保に対して,ここで私が申し上げるのは次のことだけです。様々な生き方をよくよく見てごらんなさい。今日の工業化した市民社会が,以前より,より多くの人と,より大胆に自由に,赤ちゃんのころと,大人同士の関係を,繰り返し,日常生活を礼拝にしようとしているのか,をよくよく見てごらんなさい。そうすれば,さまざまな学問を交えた議論か必要になるでしょう。しかしながら,私が指摘したいのは,1960年代に散発的に起きた若者たちの反乱の中で,全人類を大切にする,日常生活を礼拝にする礼拝の作り直しが,果たして行われたのか? という重大な問いが問われるようになったのか? ということです。あの反乱は,全ての対になる心耕す生業同様に,(訳注:弱い立場の人の痛みに対する)想像力をなくしていることに対する腹の底からの痛みと,高い代価を支払わなくてはならない,(訳注:弱い立場の人の痛みに対する)想像力をなくしていることを,世の指導者たちが否定していることに対する,心の底からの痛みとを示していたんです。その世の指導者たちは,若者たちを血塗れの源である戦争の中で「奉仕させる」ことに頼り続けていますから,若者たちは,その血塗れの源である戦争は,互いに大切にし合う目的には適わないと感じましたでしょ。それは,序文で示した引用が示すように,植民地戦争という,ウソとゴマカシだらけの現実でした。植民地戦争という,ウソとゴマカシだらけの現実は,ますます,殺しすぎる化学兵器に頼るようになりましたが,同じくらい,ますます,人を絶望的に不安にさせることになりましたでしょ。ウソとゴマカシだらけの現実じゃぁ,聖書の神様から頂いている命をイキイキと生きる者にとっては,聖書の命の一巡する中では,聖書の神様の命が生きる「命の道」としては,その命が生まれませんし,死んでも死に切れません(殺され損です)。

 しかし,日常生活を礼拝にする礼拝を繰り返し善いものに作り直すことが,人を復活させる力に関する問いについて,私がここで改めてお示しできる唯一のことは,私が生まれる時にも,仲間が生まれる時にも,すなわち,個人の歴史においても,人類史においても,過去は現在に刷り込まれている,ということです。というのも,こういった過去が現在に刷り込まれているという心眼がありますと,過去が刷り込まれた現在を,未来のために解放することができるからです。しかも,現在に刷り込まれた過去のパターンを明らかにして解放する点で,動物行動学者と精神分析家は,同じ仕事をすることになります。動物行動学者は,本能パターンと呼ばれる物の力を明らかにしますし,精神分析家は,いわゆる,本能似のパターン,すなわち,現在に刷り込まれた過去の愛着パターンの力とひとりびとりの心の仕組みと 自由にされた仲間の意識とを,明らかにしますから。それから,人が育つ見通しは,歴史や科学技術が早く変化するのに比べると,育つのにとても時間がかかることを考慮に入れなくてはなりませんから,精神分析家の見通しは,殊に,人間が最初に作る愛着パターンを変えるのには,とても時間がかかることを肝に銘じなくてはなりません。そして,中でも,日々の生活に密着する,この世の中に対するイメージがほしい気持ちと人類皆兄弟のヴィジョンを一体にすることは,とても時間が掛かることも肝に銘じなくてはなりません。

 さて,日常生活を礼拝にする古臭い様々な礼拝は,新世界が登場する中で,簡単に打ち捨てられるものかもしれませんね。なんせ,新世界には,科学技術を駆使し,マスコミのやり方で,互いに間違いを正して,ピッタリ合わせることを強制する「聖書の神様が定めた」素性の分からないお上が,「互いに大切にしあう生き方を勧める聖書の神様」,の代わりをする,生活習慣がつきものですから。しかし,現代の科学技術が,それに見合った日常生活を礼拝にする礼拝を,家や仕事場でのニーズとチャンスにくっ付ける時,また,世界中を駆け巡るマスコミによって,新しい,さらに広範な仲間を作るとき,新たな預言者が,日常生活を礼拝にする礼拝を打ち捨てることで,生きる場を空っぽにします。ですから,私どもの務めは,「私が生きている実感」を育てて様々な法則にすには時間がかかる,ということを具体的に示し続けることです。「私が生きている実」を育てて様々な法則にすることは,心からの優しさを見失った偽物の理想に傾きすぎますと,人は忘れるきらいが大きいんですから。というのも,子どもが生まれますと,新くて古臭いキリストが立ち現れて,世の中に対す新しい特別に良い見方(訳注:互いに大切にし合うこと,そして,人類皆兄弟)を求めることになります。このことは,私どもが肝に銘じておかなくてはならないことです。それは,「共に見通す」様々なヴィジョンの役割と言葉とを見極めた所に立ち返る時でもあります。



 子どもは,キリストです。

 ですから,互いに大切にし合う,という特別に良い味方になる見方を,思い出させてくれますし,そこに繰り返し立ち返らせてくれます。

 

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#サイコセラピストの勤め #子どもを悪い良心から守ること #悪い良心の人 その特色 #不信を招くことをやる #コソコソしている

2018-12-09 04:08:16 | エリクソンの発達臨床心理
 
#相手の気持ちにピッタリと #母子関係 #サイコセラピストの務め
 インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 自分の感性に従った行動すること   相対性の時代   ブレークの警告  幼稚な道徳と、青年の価値意識と、大人の倫理の......
 

 

 発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきて,かなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。

 

 Identity and the life cycle  『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.84の,第2パラグラフ,下から3行目途中から。 その前も,ご一緒に。





  生きる指針にした≪私≫が生きている実感に従って自ら関わりを始めること 対 ≪私≫が生きている実感に恥じて隠すようになっているから,≪私≫が生きている実感を出してはダメだぁと自分をいつも責める気持ち



 ≪私≫が生きている実感を生きる指針にするという目の前にある自分の壁から,腑に落ちる自分らしい不動の生き方に気付きますと,4歳5歳のその子どもは,次の舞台に直面します。次の舞台は次の分かれ道でもあります。自分が一個の人間として「生きている」ことを確信したので,次は,自分はどんなに心から優しい人になれるのかを見つける番です。そして,ここで,自分の生き方を,他ならない一番星に結びつけます。その子は,お父さんお母さんみたいに,とても強くて,とても美しくなりたいと願います。ただし,お父さんお母さんは,時には全く納得できないほど傷つけることもあるけれども。その子は,「お父さんお母さんと一心同体になります」し,神様の心から優しい御心がお父さんお母さんにとって,どんな意味があるのか,という物の見方と遊ぶのです。3つの力強い発達が,この4歳5歳の舞台では,子どもを自分の分かれ道に近づくのに,助けになりますし,役立ちます。(1)その子どもは,自由に,しかも,力強く「(聖書の神様の命が)ぐるっと一巡する」ことを身に付ける様になりますから,ずっと大きくて,その子にとっては,無限に光り輝く目標を立てることも身に付けます。(2)その子の「舌」で感じる体感は,自分が分かるところと,よく分からないたくさんのことを質問できるところとにピタッと手が届きます。そして,(3)おしゃべりしたり,動き回ったりできるから,自分がビックリせざるをえないたくさんのことが,「いろいろとイメージを抱いて,こうかな,ああかな,としているうちに」,自分が夢見てきたことや思い付いてきたこととピタッと一体にすることができます。それにもかかわらず,これら全てから,その子は,「決して打ち砕かれることなど出来ない不動の,自ら歓んで快く関わり出す関わり」を,互いに大切にし合いながらも,同時に,独立自尊でも居られる,気高くも,実感のある心の習慣のための,たった1つの岩盤にして,育つことになります。

 こう申し上げますと,ここで問いたくなる御仁もおいでになるかもしれませんね。「私が生きている実感に従って,快く歓んで関わりを始める,決して壊されることのない心の習慣ができた,ということの判断基準は,いったい何でしょう?」と。ここでお話ししている全ての心の習慣に当てはまる,その判断基準と,同じです。1つの分かれ道は,様々な恐れ,すなわち,創造することに伴う不安と緊張が少なくとも伴いながら,自分自身がいっそう自由に繰り返しなれる,と見なされることです。というのも,その子は心も身体もやり取りができるほど「親らと共に育つ」と見なされるからです。その子は「いっそう自分らしく」なったように見えますし,いっそう愛らしく,いっそう自由にゆったりと構えて,自分の判断がいっそう賢くなっているように見えます(こういったことが,4歳5歳の舞台になります)。ほとんどの者は,以前のように,自分から関わりを始めるものです。その子はかなり過剰なエネルギーを歓んで手に入れていますから,失敗はすぐに忘れ,ほしいと思ったものは(多少のリスクがあっても)相変わらず,より善い目標がハッキリと見定めた努力によって,手に入れようとします。自ら関わりを始める道で,その子も親も,上手に次の別れ道に直面できます。

 私どもは,2歳の終わりに近づいています。その時期に,歩くのは容易なこととなり,あるいは,力強いものになります。拙著によれば,1人の子どもは「歩くことができる」のは,ずっと前のことです。しかしながら,人品が発達する視点からは,1人の子どもが1人で人生を歩むためには,2人3人の助けを借りて,短期間の内に,大なり小なり,あの神様の命が一巡する,互いに大切にし合う,あの聖書の神様が統べ給う場を,満ち満ちたものにしなくてはなりません。2歳の子どもは,自分が主人公でいられる時空で,自分の化身になる1つの玩具を歩かせますし,走らせますが,それは,その子が「心の中に」気高い自分を感じている時ですし,自分がその玩具を歩かせていることは忘れて,その代わりに「自分の化身である玩具と共に」できることを発見できる時なんです。互いに大切にし合う場で自分を発見できて初めて,2歳の子の両脚は,自分が無意識に動かせるものになるわけで,外側にある,まだまだ当てにならない歩く部品になるんじゃあないんですね。互いに大切にし合う場で自分を発見して初めて,2歳の子は,自分が「今できそうな」ことを,自分が「今できると分かっている」ことに加えて,素晴らしい心眼で,発見するようになります。

 振り返ってみることにしましょう。最初の通過点は,ホッとすることでしたね。あの聖書の神様を信頼する信頼は,息,消化,眠り,などの生きていく上で欠かせない働きが,与えられる食べ物や元気が,一貫していて,馴染みあるものになるように,(訳注:聖書の神様の命が)回っている経験に基づいているものですから,赤ちゃんが生きている実感が,まず自分の居場所をシッカリと体感し,その次に立ち上がることができるようになる,自由になる力に,人品の芳香を添えることになります第2通過点は(2歳になってはじめて,通過できるものです),自分の居場所で安心していられる通過点であるだけではなくて,いわば,1つの素晴らしい業績です。この素晴らしい業績のおかげで,2歳3歳になる赤ちゃんは,選び取ったり,手放したり,あるいは,積み上げたり,上手にかわ(躱)したりすることを,よりハッキリと見極めるために,あるいは,よりハッキリと生きている実感に従って生きるために,次第に筋肉が使えるようになります。

  第3通過点は,その4歳5歳の子どもは,人に頼らず元気に関わりを始めることができるようになる,ということによって,分かります。4歳5歳の子どもは,自由平等友愛を陽気に楽しんで生きている大人と同じように,自分は偉大だ,とみなすようになります。4歳5歳の子どもは,創造の大小の違い,特に男女の性差を比較し始めますし,あくなき好奇心を育てがちです。4歳5歳の子どもは,将来自分でもできそうな,聖書の神様の命が一巡する様々な役割をシッカリと一纏めにして納得しようとしますし,とにもかくにも,どんな役割が真似するに値するのかを見て分かろうとします。ど真ん中を空にすればするほど4歳5歳の子どもは,聖書の神様の命が一巡する役割を,自分自身が生きている実感という生命力と1つにすることができます。目上に子どもの導きや特別に素敵な女性の導きがあれば,4歳5歳の子どもは,次第に,幼稚園,街角,内庭での,子どもの政治に入っていきます。4歳5歳の子どもの体感して分かることは,大いに遠慮などせずに,人に自分から関わり,元気でいることです。遠慮せずに人と自分から関わり,元気でいられるからこそ,その子どもは,自分の限界を超えて,将来の様々な可能性を開いていけるわけです。

 この「遠慮(忖度)せずに自分から人に関わる生き方」は,この舞台の主の生き方の特色は,「1つの」様々な関わり方と様々な空想がある,ということです。この「遠慮(忖度)しない関わり方」には,身体をぶつけて,人の身体の中に,入り込むことも含まれます。すなわち,遠慮せずに話すことによって,人の耳と心に入り込みます。元気に動き回って,時空に遠慮(忖度)せずに,突っ込んで生きますし,あくなき好奇心で,未知な人や物事に,関わって生きます。「外の人や物事を仲間に入れる生き方」も,女の子にも男の子にも,創造されるように見えるのは,自分が,鷹揚で心から優しい聖書の神様やお母さんと一心同体になる経験の中です。

 この舞台は,子どもが性差に関心を持ち,創造することへの内的促しを体感し,性差を生み出すものに夢中になり,関心を持ちすぎることもある舞台です。この「創造性」とは,もちろん,土台部分ですから,来るべき様々なものを約束する約束でしかありません。しかも,「創造性」であるとは,気づかれないのが普通です。特にこと細かく,ピンポイントで,様々なことを禁じることによって(「触ったら,チンチン,チョッキンだからね」),あるいは,特定の様々な習慣によって(たとえば,女の子グルーブと男の子グルーブに分かれて,イチャツク遊び),早すぎる手遊びを呼び起こさないようにするのならば,そこで体験するのは,一連の心魅せられる体験にほかなりません。この心魅せられる体験こそが,人間の持ち味の魁になります。この人間の持ち味の魁のことを,フロイトは,「封印」の時期と呼びましたが,それは,子どもの頃に性差が分かること(動物では子どものころに性差が分かるとすぐに性的に成熟しますでしょ)から大きく遅れて,身体が性的に成熟する,ということです。

 この少年の性差の向きは,創造力,創造への内的促し,目的,意味に焦点付けされます。真っすぐ立つことが早々と起こる(柔軟に,あるいは,子どもが強烈に感じ取ることになる物や人に反応して)一方で,家族のみんなの関心が育っていくのは,女の子,男の子の創造性の中ですし,女の子らしい,あるいは,男の子らしい,陽気で楽しい関わりをしたいと願う気持ちの中であったり,あるいは,少なくとも,女の子らしさ,あるいは,男の子らしさを生み出す心の軌跡を辿る中なんです。次第に一つの場から別の場に移ることができるようになる4歳5歳の子どもは,いまここで偉大であることの中で,自分が主人公であることや誇りを感じますし,お父さんお母さんみたいに,「ほとんど」ピッタリくるほど,創造性の点で大きく劣っている,というわかりやすい事実の中で,一番重い逆回転を受けます。次第に一つの場から別の場に移ることができるようになる4歳5歳の子どもは,また,もう1つの逆回転も受け止めます。そう遠くない将来,お母さんと性的な関係を取るお父さんに自分はなるんだ,あるいは,お父さんと性的な関係をとるお母さんに自分はなるんだ,という事実の中で。この気づきと,この気付きに伴う不思議を畏れる畏れから生まれる最深欲求から,フロイトさんがいう「エディプス・コンプレックス」が生じてきます。

 精神分析が大切にしている,ウソとゴマカシが一つもない正直な結論は,少年たちは,お母さんみたいな大人に,創造の場で最初に一体になりたいという願う願いを,くっ付ける,ということです。そのお母さんみたいな大人は,子どもの身体に元気をプレゼントしてくれます。精神分析が大切にしている,ウソとゴマカシのない正直な結論は,また,少年たちは,その母親みたいな大人の性の相手である人と,母親の取り合いをする仲間に育つ,ということです。小さな女の子は,聖書の神様の命が一巡する中では,自分のお父さんや,他の大切な男性に,くっつけて,お母さんにやきもちを焼くようになるのは,お母さんを心配させるかもしれない発達です。というのも,小さな女の子が,お母さんを心配させる発達をしますと,自分にピッタリ同じなお母さんに後ずさりしなくなるからですし,そうなれば,お母さんは,無意識に「天のお父様に,そして,この世のお父さんに相応しい」と感じられるから,とても魅力的で生意気だ,と言って,非難しますから。

 小さな女の子たちは,4歳5歳の舞台で,1つの辛い時を体験するのは,4歳5歳の女の子たちは,心の中でも,人と関わる時でも,自分もいろいろと動き回ることが,男の子たちと対等に,願った通りに,増して来るし,お転婆娘になることも許されているのに,足りないことが1つあるのに気付くからです。あのペニスです。あのペニスがないと,誉と格の中に,心からのレディファーストがないことにも気づくからです。男の子は,この,目に見える,真っ直ぐに立つこともできる,以前からそれとよく分かる,心響かせてもらえるものがありますから,その心響かせてもらえるものに,大人の強さを夢見るその夢を,くっ付けますが,女の子のクリトリスは,男女が対等だと夢見る夢をくっつけるのにも,事欠きます。女の子はまだ,さえ,ないのです。そのは,自分の将来を知らせてくれる手近な知らせを,聖書の言葉に従って伝えてくれるものになります。女の子のお母さんみたいになりたいと願う願いは,空想と子どもに心を向けることを楽しむ自由に至ります。たほうで,その母親が一家をコントロールするところでは,その男の子は,今度は,対等ではないと感じる心の習慣を育ててしまう場合もあります。というのも,対等でないと感じる心の習慣を育ててしまうその少年が,この4歳5歳の舞台で,学ぶことは,自分は遊びでも仕事でも上手にできても,家の主人公に決してなれないし,家の主人公はお母さんやお姉ちゃんたちだ,ということだからです。お母さんやお姉ちゃんたちは,実際に,自分の中に迷いがあるものですから,“あんたは(のろまで,オムツまでしている)嫌な奴じゃないけど,下なんだから」と感じさせることによって,弟に近づくものです。心からのファーストレディーじゃないと感じた女の子も,あんたは下なんだからと感じさせられた男の子も,「私は,僕は,いつか,お父さん,あるいは,お母さんみたいに,善くなれる,おそらく,お父さん,お母さんよりも,もっとマシになる,という光の約束を確信していることを,常識外れに高く評価している訳です。その女の子も,男の子も,男女は対等だとする優れた教えが少しずつ,時を置きつつ,繰り返し唱えられてきたことを,喜んでいます。食べていかなくてはならないことや,家計は一つであることから,男女の役割や,それぞれの持ち味やそれぞれのご褒美も,1つにまとまるところでは,性差に対して,幼いころに学んだ間違った教えは,もちろん,男女の役割の違いに関する社会通念に,容易に組み込まれてしまいます

 4歳5歳の舞台には,男女の基礎的な対人間の適切な振る舞い方を創造する中に,目上の人の中で「事を成す」ふるまい方,今の俗っぽい言葉で言えば「うまくやれてる」という振る舞い方が加わります。以前には見られなかった対人関係の中の振る舞い方で,うまくやれてる以上に,分かりやすく,強い言葉はありません。うまくやれてる,という言葉が示しているのは,競うことを楽しむこと,目標を目指し続けること,ことをなすことを心から喜ぶことです。うまくやれて男の子の場合は,真正面から強く関わることによって,「事を成す」人に強調点があります。うまくやれてる女の子の場合は,自分を魅力的に,可愛くすることによって,「事を成す」ことに変化します。うまくやれる子どもは,このように,「男らしく人の自ら関わる関わり方」と「女らしく自ら関わる関わり方」をするためになくてはならないものを育てることになります。すなわち,対人関係の中にある様々な目標を選んで,それに近づくために,忍耐することが育ちます。このように,4歳5歳の舞台は,人生への入口のための全てを不動にします。ただし,人生はまず,学びの人生でなくてはなりません。学びでは,子どもは,大粋なことや一番したいことは我慢したり,忘れたりしなくてはなりません。そして,余計なことは考えずに,個人の気持ちを交えないことに関心を持つことを学びます。読み書きそろばんもまた学びます。個人の気持ちを交えないことに関心を持つことを学ぶことによって,人格を変えてしまうことがよく起こります。この人格の変化が,うまくやれている子どもの品性にとって,あまりにも暴力的である,ということがままあります。この人格の変化は,教育の結果ということだけではなくて,心の指針まで変えてしまった結果,ということになります。この人格の変化は,生物的事実(性的に成熟するのが遅いこと)と,心理的事実(子どもの時期の様々な願いを抑え込むこと)に基づいています。というのも,不吉なエディプスの願いは,想像することが非常に増して来て,いわば,あちこち動き回れる力が増すことで悪くすると,オッカナイ相手を心密かに空想することになりがちだからです。オッカナイ相手を想像した結果,この心の最深部にある,「もうダメダァと自分を責める気持ち」の心の習慣を持ちがちになります。奇妙な感じがするのは,「もうダメダァと自分を責める気持ち」の心の習慣があると,ひとりびとりが,悪いことや,結局はとてもやれない,とというだけではなくて,生きているものにはとてもできない,と思うようなことを,しでかすことになります

 生きている実感を生きる指針にするための闘いは,最悪の場合,似た者同士の仲間たちをのけ者にすることに凝り固まることになりますから,「妬みに駆られた激しい怒り」になる場合が実に多いわけです。この「妬みに駆られた激しい怒り」は,イキイキ生きている仲間など,心に引っかかって,気に入らない者に向けられる場合がほとんどで,自分から関わる場合は,「妬みに駆られた激しい怒り」イキイキ生きている仲間に向けます。そのイキイキ生きている仲間は,その場で一番大切にされている人で,しかも,お母さんらが関わってくれる順番が先の人です。妬みと張り合う気持ちは,恨み辛みに駆られる場合が多いけれども,生きている実感を生きる指針にして腑に落ちて生きる,という聖書の神様が教えてくださる全体像をハッキリさせることには,まったく役立たないのに,お母さんか,お父さんのお気に入りになりたいと思う時に,最高潮になります。必ず失敗しますし,また,失敗は不可欠でもありますから,妬みと張り合う気持ちが最高潮に達した人は,ダメだぁと自分をいつも責める気持ち不安に駆られます。巨人やトラに自分がなる空想に夢中になっている子どもは,しかしながら,その夢の中では,恐怖の中で,大切にされる人生を求めて,逃げているんです。それで,この4歳5歳の舞台は,命と身体のことで思い煩う舞台です。その思い煩いの中には,天罰で,男が創造できなくなることも(女の担当部分では,女も創造できなくなるかもしれないと信じることも)含まれますが,それは,子どもなのに性的な興奮を覚えることがくっ付いた空想をした廉で,天罰を受けるわけです。

 こういった話をしますと,読者の皆様には,奇妙に見えるかもしれませんね。読者の皆様は,子どものころの日の当たる側面だけをご覧になって,この4歳5歳の舞台に目覚め,しばらくの間は,表立って現れないけれども,後になって,チャンスが回ってきたときには,いつでも使える,心の中の破壊工場になっていく,あのぶち壊しにしたい恨み妬みの源をご存じないからでしょう。「源」,「呼び覚ます」,「チャンス」といった言葉を使うことによって,私が強調したいことは,心があんまり成長していない,ということです。心があまり成長しませんと,人と人を一体にして,心からの平和を生み出す関わりを自ら始めることになりません子どものころには,様々な諍いと様々な思い煩いがあることと,人類にとって子どもの頃がとても大切なこととを,よくよく理解するといいのですがね。しかしですよ,もしも,子どものころの光見逃したり,見下したりすれば,あるいは,子どものころの光を「一時の熱病」と見なす方を選択すれば(その人が,子どものころの最高の夢や最悪の夢を忘れている場合でさえ),私どもは,不安や諍いだけではなくて,人間がイキイキと生きていく力の汲み尽くせない源の1つを,ずっと見逃すことになりますからね。

 

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 自分から人に関わる舞台においてこそ,自分から人に関わる関わり方を決める素晴らしい舵取り手,すなわち,「キリストと共に見て知る善い良心」が確立されて,不動になります。ですから,聖書の神様に素直に従う者だけが,善い良心,すなわち,キリストに頼ること,を育むものですから,キリストに頼っていくと,その人は,人から当てにされる人になれます。また,聖書の神様が下さる根源的な人品という力に関して,徹底的に当てにされる時,人は単独者となることができますから,世代を繋ぐ信頼を育む生き方も,子ども等に教え,育むこともできます

 良心を育んでいる4歳5歳の子どもがただただを感じるのは,神様に見つかる時だけではなくて,神様に見つかるのを恐れる時です。その子どもはただた,いわば,姿の見えない聖書の神様の声を聴くことになります。さらには,その子どもは,誰も見守ってくれないままの思いや行いに対して,自分勝手に,もうダメダァと自分を責める気持ちになり始めます。善い良心が,人も,人々もバラバラにできない心の習慣を育む中で,人生の習慣の土台です。しかし,メンタルヘルスの観点から指摘しなくてはならないのは,善い良心という素晴らしい成果も,頭に血が上った大人たちが,重荷を押し付けるならば,魂にとっても,人生の習慣そのものにとっても,厄介な悪い良心になることもあります。といいますのも,子どもの良心は,意地悪で,残忍で,頑固になりがちです。それが見て分かるのは,子ども等が縮こまって,いたるところで,遠慮や忖度をするようになる場合です。子ども等が遠慮や忖度をする場合,その子ども等は,親が望む以上に,文字通り,言いなりになる生き方を何処でも生きるようになります。あるいは,子どもが遠慮や忖度をする場合,その子ども等は,いつまでも赤ちゃんのままですし,いつも恨み妬みを生きることになります。というのも,その両親自身が,互いに大切にし合う,あの新しい約束・新しい良心に見合った生き方ができていないように見えるからです。その新しい約束・新しい良心は,あの幼子キリストの中で育ってきたものなんですから。命の中で最深の諍いは,母親か父親が憎い,ということです。父親も,母親も,良心のひな型になりますし,悪い良心を行動に移す人のなるのですが,その子どもがもはや我慢ならない,まさにその聖書の神様の教えに背く悪事をいろいろやって,「こそこそ逃れよう」としているのも,子ども心にも分かります。こういった,聖書の神様の教えに背く悪事は,親子関係が上下2つに分けるウソに侵されていることの当然の結果であることが多い。しかし,聖書の神様の教えに背く悪事は,親子関係が不平等であることに,考えなしに漬け込んでいることの現れであるとともに,その子どもの心の中で感じていることは,お母さんたちがやってることは,全部が善いことというわけではなくて,むしろ,母親たちの自分勝手な思い上がりだ,ということです不信を招く振る舞いや,コソコソするやり口は,このように,自我の上に立つ悪い良心の,オール・オア・ナッシングという付き物の性質に混ざっています。この昔ながらの信頼に応じる悪い良心にために,融通の利かない形ばかりの道徳を重んじる人は,当人にも,その仲間の人たちにも,とても危険な人物になります。まるて,融通の利かない形ばかりの道徳は,ご当人にとって,復讐みたいなものですし,人を上から抑え込むようなものになります。


 この世の中で,悪い良心ほど危険で邪悪で意地悪なものはありません

 私ども,サイコセラピストの最大の役目の一つは,子どもを,悪い良心の大人から守ることです

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