エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

真理はあなた達を自由にする ルターの場合

2015-05-09 12:01:27 | アイデンティティの根源

 ルターの登場は、さながら、こんな夜明けでしたでしょう。幸いなるかな…。

 

 

 

 

 ルターはギリシャ語もヘブライ語も読んで分かったから、宗教改革を起こすことになっちゃった…。

 Young Man Luther 『青年ルター』p199の3行目から。

 

 

 

 

 

  しかし、私どもが最初に関心を持ったのは、「聖書という母体」についてマルティンの考えが生まれて来たことでしたね。当時の聖書注解は、旧来の定説を、学問的に苦し紛れに、しかも、原典に基づかなくとも、証するのが役割でした。旧来の定説とは、旧約聖書はキリストの生死を予言するものだ、ということでした。世界史は聖書の御言葉にありましたから、『創世記』は、創造物語であるだけではなくて、キリストの受難のクライマックスに至る聖書全体に隠れされた、しかも、寓話的な歴史的方向でもありました。聖書注解は、カトリック教会が教会史を新たな神学的な方向性に従って、聖書的に予言する、価値を巡る駆け引きとなりました。すなわち、聖書注解は、高度な知的で言語学的な訓練でしたし、学問的な名人芸が示されたものとなりました。ところが、それには一つのルールがあって、ある程度の教育とある程度の頭の回転がないと、聖書注解を正しいものにできない、という事情がありました。

 

 

 

 

 中世カトリックの聖書注解、学問は硬直化してたんですね。それは習慣、慣習を見直す、新鮮な心の動きを見失っていたからですね。ルターは病気のおかげで、その習慣、その慣習に馴染めなかったんでしょう。それが新鮮な心構えで、学問に、聖書に向かう契機になったはず。中世カトリックの間違いだらけの聖書翻訳と、それに基づく間違った聖書注解を打ち破って、バイブルから再び命を戴けたのは、ローマカトリックではなくて、ルターとルターに続くものでした。

 いまも同じです。

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怒りのコントロールと 息を吸ってみてね…

2015-05-09 11:04:50 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
子どもはほんとに言葉の天才
  子どもの意識は完全 大人の見本 子どもが「新しい人」になれたと感じるのは、「闇の中に光を見つける」時ですから、子ども...
 

 ティグ・ナット・ハンさんの二回シリーズの番組。一か月もたたないうちに、NHKが再再放送をしました。いま、ティグ・ナット・ハンさんのお弟子さんたちが来日中ですから、いっそう反響が多かったからかもしれませんね。

 日本は、先が見えなくしてくれた自民党のおかげで、「閉塞感」が瀰漫してますしょ。些細なことで腹を立てて、しかも、それを自分の心に治めることができずに、外にぶちまけてしまう人が、実に多い。「臨床心理士」と言う資格があっても、やはり、自分の怒りをコントロールすることもできず、それを怒りのきっかけになった人にぶつけることもできないから、結局、「悪口」「陰口」になり、「嘲り」にして、怒りを解消したつもりになっている者もいますよ。そんなことをしても、結局は一時のことで、それが繰り返されれば自己嫌悪になる場合もあるでしょうし、いっそう多くの場合は、ご当人も知らないうちに、「本当の自分」を傷つけて、知らないところでその傷を繰り返し抱え込むことになります。

 怒りは、単一ではないんです。怒りはその場だけの怒りでないから、厄介なんですね。あるいは、「今ここ」を生きられなくなるから、自分の人生、「本当の自分」を生きることができなくなるから、厄介なんですね。ティク・ナット・ハンさんも、№2の番組の中で言ってましたが、未解決の過去の傷に伴う、たくさんな怒りに、知らぬ間に引き戻されて、そのたくさんな怒りと一緒にぶちまけることになっちゃうんですね。ぶちまけた本人は、そんな「昔の名前」で出ていることも気づかないんですね。意識としては「腹が立つから、陰口でも言わない限りは、腹の虫が収まらない」くらいに思ってんでしょ。でもその「腹の虫」は「陰口」を言ったくらいでなくならないし、返って、その「陰口」を餌にして増殖しちゃう、ってことも分からない。

 吸う息に意識を集中することを、ティク・ナット・ハンさんは勧めておいでです。それは、吸う息に意識を集中することが、「怒りの解消」(陰口、嘲りなど)に意識を集中することから、解放してくれるからでしょう。しかし、もちろん、それだけではありませんね。息は、ヘブライ語でルアーハ、ギリシャ語でプシケー、インドのウパニシャッド哲学の言葉で、サンスクリット語に由来する言葉では、アートマン。息を吸うことは、自分が生かされていること。死んじゃった者は、2度と息を吸えませんでしょ。ルアーハ、プシケー、アートマンを生かすことは、息を吸うことを意識することでしょ。ルアーハ、プシケー、アートマンが死んでれば、息も上がってきますよ。深呼吸しただけでも、脈が下がり、血圧が下がり、気持ちも落ち着いてきますでしょ。深呼吸も意識しなきゃぁ、出来ませんものね。意識して呼吸すりゃあ、体操の後の深呼吸ほどではないにしても、やや深呼吸になりますものね。息に集中していれば、自分のいろんな気持ち、思いも整理されます。すると、怒りを、激しい怒りを外にぶつけなくなります。

 あなたも息を吸うことに意識を向けて、自分が豊かにされてくださいね。

 ゆっくり息してみて、

 その息を意識してみて…ね。


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女の子の成長は、性差をどれだけ認めるかで変わってきます

2015-05-09 10:52:47 | エリクソンの発達臨床心理

 

 女性の発達にどのような変化をもたらしたのでしょうか?

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p38の11行目途中から。

 

 

 

 

 

(1)外側の器官を失っていることを強く感じることから、力強い内なる可能性(内なる空間)の芽生えを感じることまで。これは、移動や自発性に関する一般的な形において、強烈に「無理矢理に入る」ことを強く表現するようなことはありません。(2)男のやり口を「受け身」で捨てることから、生み育てる器官を持つことに相応しく、生み育てる機関がありますよと言い表すことをを楽しく陽気に求めることまで。このようにして、一定のバイセクシャルな傾向、すなわち、代わる代わる「無理矢理に入る」やり方と「全部を飲み込む」やり方を使う傾向は、性役割において、より一層大きな文化的、個人的なばらつきをもたらすことになります。ただし、思春期において十分に性的な違いが排除されなければの話ですが。

 

 

 

 

 女性の発達は、男女の性差をどれだけ認めるのか、それとも認めないかによって、性役割の違いのバリエーションの多寡も決まってくる、ということでしょう。

 具体的に申し上げれば、次のようになるでしょう。

 日本のように、性差を認めなければ、男も女も性役割が固定化して、男性的な役割をする場合は、女性もオヤジ化するということが生じるでしょうし、逆に北欧のように、性差を認めれば、たくさんの役割を、男も女も男らしさ、女らしさを失うことなく、果たすことが可能になるでしょう。

 

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