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「桂太郎:ニコポン宰相」

2013-02-04 17:01:33 | 日記




前回に続き、明治のお話です。

明治の諸事多難のおり、「ニコポン首相」と言われた傑物がおります。
ニコポンとは「ニコニコしながら相手の肩をポンと叩き、親しげにする
ことで人を懐柔したり、人に物を頼むという処世術の一つである」と言
われ、余り良い意味では使われないようですが、人をまとめ動かすリ
ーダーに取っては、大切な処世の術と思えます。「人たらし」と言われ
ながらも天下を掌握した太閤秀吉を見れば、良く理解できましょう。
ニコポン首相とは 「桂 太郎」その人で、早速wikiを見れば、

『桂 太郎(かつら たろう)。1848年(弘化4年)~1913年(大正2年)
は、日本の武士、陸軍軍人、政治家、元老。
階級は陸軍大将(元帥贈号の内示を固辞)。位階は従一位。
勲等は大勲位。功級は功三級。爵位は公爵。
台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第10・11・12・13代)、内閣総理大
臣(第11・13・15代)、内務大臣(第22代)、文部大臣(第23代)、
大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第25代)な
どを歴任した。
長州藩士であり、戊辰戦争に参加し、明治維新後、ドイツへ留学。
帰国後は山縣有朋の下で軍制を学んで陸軍次官、第3師団長、台
湾総督を歴任した後、第3次伊藤内閣・第1次大隈内閣・第2次山縣
内閣・第4次伊藤内閣で陸軍大臣をつとめた。
1901年(明治34年)、首相に就任。日英同盟を締結し、日露戦争で
日本を勝利に導いた。
西園寺公望と交代で首相を務め「桂園時代」と呼ばれ、総理在職日数
2886日は佐藤栄作を凌ぎ、歴代1位』・・・
とあり、勲等・名誉・位階・官職を総ナメです。

何と言っても、日英同盟締結(あの、7つの海に君臨した世界に冠たる
大英帝国が、唯一、対等な同盟を結んだのが、この日英同盟)と、ボロ
ボロになりながらも、日露戦争を勝利に導いたのが最大の功績です。
元勲・山縣有朋に匹敵します(東京の椿山荘は山縣の別邸)。

桂ほどの人物なら、親友もさぞや多いことでしょう。
そのウチの一人を、私は明確に指摘できます。
その名は、「キ・ワ・キ リョウ」で「木脇 良」と申します。
そうです。木脇の一員です(笑) 
薩摩(木脇)と長州(桂)は本来、仲が悪いのですが、にもかかわらず、
何ゆえ親友関係になり得たのか、と申せば、その鍵はプロシア(ドイツ)
に有るのです。

 (以下、続きは後日に) 

「池田謙斎:明治の医学巨人」

2013-01-26 15:32:42 | 日記


久しぶりの更新です^^;

皆様は池田謙斎ってご存じでしょうか?
幕府出身の医師ですが、謙斎の才能に惚れ込んだ明治新
政府が登用し、期待に応えて謙斎は、黎明期の西洋医学
発展に多大な貢献を為しました。
Wikiには、
『池田 謙斎<いけだけんさい、天保12年生~大正7年(19
18年)死去>は明治時代の医者で、日本の近代医学の礎
を築いた人物。
1841年、入沢健蔵の次男として新潟県に生まれる。その後、
当時幕府付の医員であった池田多仲の養子となり、「適塾」
へ入学し、1862年に西洋医学所へ入学した。
1864年、長崎の精得館で邂逅したオランダの医学者ボード
インに師事する。1868年(明治元年)、江戸に戻った後は
小典医として医業に従事。
1870年よりベルリン大学へ留学、1876年に帰国し、陸軍軍
医監、三等侍医、東京医学校長を経て、翌年1877年には、
医学校と東京開成学校の統合により設立された東京大学の
初代医学部綜理に就任(~1881年頃)した。
1888年に日本では初となる医学博士号を受けた。1898年
には男爵の爵位が授けられ華族に列し、1902年には宮中
顧問官となる。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争などでは従
軍医として活躍した』と、あります。
興味のある方は、長谷川つとむ著『東京帝大医学部総理 
池田謙斎伝』(近代医学の先駆者 波乱の人生! 攘夷
少年がやがてドイツ医学を学び、初代の東京帝国大学医学
部総理となるまでを描く、感動の物語!)
などをご覧下さい。

サテ、なにゆえ、池田謙斎のことをブログに書くのかと言えば、
私と、世にも不思議な因縁話が有るからです。
この詳細については、後日記していこうと思います<関心の
ある方は、それまで、暫し待たれよ(笑)>

「木脇氏・陰徳あれば陽報あり」

2012-09-07 12:05:11 | 日記





 <今後の記載予定>
ブログの更新が思うように進みません。 
当初、内外の政治・経済について、隠されたこと
も含め色々書いていくつもりでしたが、ある尊敬
する人から、ホントの事を書き過ぎると無用な摩
擦を呼ぶ,と助言され,以降、控えるようになりま
した。このため更新もママならない訳です(*_*)  
それで、無難な先祖の事などを書きまして、一応、
父方の変わった先祖話(笑)は記載済なので、今
後は母方の先祖の『木脇氏』の話を記していこう
と思います(敬愛して已まない祖母から、ナゼか
私にだけ伝えられた一族の物語)。
その伏線として、「明治の偉人:池田謙斎」「佐
土原藩と島津貴子さん(清宮内親王)」「日露戦
争時の桂太郎首相」「世にも不思議な、決してあ
り得ない奇跡の出会い」等を順繰りに書いていく
つもりです。
主に、曾祖父に関わるお話です。

木脇氏は、代々、佐土原藩(薩摩藩筆頭分家)の
御殿医頭(殿様の侍医長)の家系でした。ルーツ
は、西暦1198年、源頼朝より、日向(宮崎)の地
頭に任じられた伊豆の豪族・伊東(工藤)氏で
(八男が日向赴任)、後年、島津氏との抗争に敗
れ、島津の軍門に下りました(今も木脇城の遺跡
あり)。同族の伊東氏が、江戸期末まで宮崎南部
の飫肥(オビ。現在の日南市)伊東藩として存続
しました(明治期、子爵に)。
祖母の話によりますと、木脇一族は『 家訓 』と
して、とにかく【 医は仁術 】を実践し,善行・
積善に努めたそうです(後年、日経新聞 「私の
履歴書」 に、人間国宝の野村万蔵氏が、金もな
かった3才の時、『木脇先生に無償で命を助けら
れた。正に現代の【赤ヒゲ】です』、との掲載あ
り)。
私の小学生時分には、祖母が、父の木脇良(つま
り、私の曾祖父)に連れられ県内を歩くと、文節
様(曾々祖父。戒名は『法雲院文翁道節居士』)
の孫が来た、と各地で大歓迎された事を、つい昨
日のように語ってくれたものです。
文節の墓は何故か、日向市細島と宮崎市佐土原の
2カ所にあります。大学1年の夏、ひとりで初め
て母方の故地宮崎に下り、祖母の細々とした記憶
を頼りに、やっとの思いで2つの墓所を探し当て
ました。
何れも苔むし倒れ朽ち果てた、文節たち祖先の墓
石と初めて対面した際は、線香の煙と共に哀れを
催し、般若心経を唱えながらも、しばしの落涙を
禁ずることは出来ませんでした<正に、「夏草や
ツワモノどもの夢の後」の情景>。 
私が適当に察するに、文節より2~3代前の先祖
が、恐らく、悪業をやらかしたのでは無いか、と
想像します。このため、子孫への余殃(ヨオウ:
祖先の悪事の報いとして7代子孫にまでも祟る災
難)を恐れ、以降の先祖は善行を尽くしたのでは
なかろうか、と? <故人曰く、「陰徳あれば陽
報あり。積善の家には必ず余慶あり、積不善の家
には必ず余殃あり」と>。

その木脇氏も母系の私を以って実質、オシマイと
相成ります<もしや私が7代目で、余殃の完成
か?(爆)>。 
父系は既に絶家しており、ゆえに、今のウチに、
木脇の記録を留めておかねば、誰知ることなく、
歴史の彼方に追いやられ埋没してしまいます。こ
れは、残された最後の子孫としての私の義務であ
り責務です。
あと何年生きられるか分からず<当人は、90まで
カクシャクとしてピンピン生きるつもりですが、
寿命ばかりは誰にも分かりません(笑)>、です
ので、先祖の遺徳を一番良く知る私が、記録保持
に努めなくてはならないと思っています。
当人とすれば、有終の美を飾って幕引とせねば、
あの世で、一族に顔向けできない道理です(笑) 
後世、歴史の好事家が、ドイツのライプチッヒ医
科大学あたりで,木脇の業績を発掘してくれるか
も知れません。ここでの記述はその一助にでもな
れば、との微かな期待でもあります。
つまらない話かも知れませんが、今まで歴史に登
場しなかった、明治初年の「万里の波濤を越えた」
お話でもありますので、しばらく、お付き合い下
されば幸いです
 
マ~ こんな話を綴っていくつもりです。
実は、秋田の姉に、木脇の歴史をブログに記すつ
もりだ、と話したところ、余り自慢話はしない方
が良いわよ、と釘をさされてしまいました。私と
しては、その点も十分踏まえ、事実を淡々と記し
ていければ、と思います<もし、自惚れ話と受け
取られてしまいましたら、お許しの程 m(_ _)m>。
又、祖母の手持ち資料は今次大戦でことごとく灰
燼に帰し、わずかな写真くらいしか残っておらず
<その中には、東京・本所緑町(国技館の近く)
の邸内の池で、釣りをしている書生さんの面白い
写真なども>、全ては祖母から聞いた記憶であり、
正確さに欠けるかも知れません。その点、ご了承
下さい。

ついでに、母の戒名(あの世での正式名)は「華
明院仁慈脇光大姉」と言いますが、「脇光」の脇
は無論、木脇一族を、光は、俗名:光子から取り
ました<母の遺言で私が命名しました(^_^;)  
親族からは結構、好評です(妹夫婦からも付けて
欲しいと言われてますw)。でも、坊さんが知っ
たら怒るだろうな~(爆) 同じく、遺影も希望
通り、母の20才の写真を用いました>。
なお、木脇一族の特長は、中年以降、瞼のしたに、
クッキリとクマが出来ます。あまり、かっこ良い
ものではありません(笑)


写真1枚目は母の葬儀写真。

2枚目の「木脇氏先祖代々之墓」の、左脇にある
のが文節の墓です。高さは1m程あるので、「先
祖代々」の石碑は優に3mは超えるでしょうか? 
とにかく圧倒されるほどの巨大さでした。
でも、最早、この光景を目にすることはありませ
ん。25年ほど前、遠縁の爺さんが、この有様は忍
びない、と供養の上、撤去してしまったからです。

3枚目は、邸内の池で、釣りをしている金田一耕
助さんです。冗談です。書生さんです(笑)。


<後記1>
この項に関し、新たに加筆修正し、2014-02-24付
け日記に、『朽ち果てた先祖墓所(;_;) 初墓参
の記』としてアップしておきました(木脇城跡の
写真も)。

<後記2>
木脇文節は、大阪の適塾(阪大医学部の前身)出
身と分かりましたので、その旨、2014-05-18付け、
<大阪の『適塾』で嬉しい発見!>と、記しまし
た。


紫根染(南部染)について

2012-06-03 15:20:51 | 日記




前回、秋田の祖父は「呉服商」とお話しました。
その際、商売道具として写真にあるようなカラーの「紫根染チラ
シ」を用いました。考えてみますと、これは、当時としては、と
ても画期的でハイカラな販促ツールと思えます。
何しろモノクロが当たり前の時代、しかも雪に半年は閉じこめら
れ、鉄道も開通していなかった秋田の山中の田舎町にあって、
カラーのチラシなど、地元の人達にとっては見るも初めてで、恐
らく度肝を抜かれたことでしょう。人によっては、呉服より、この
カラーのチラシを欲しがったに相違ありません(笑) 
祖父の商売のアイデアとセンスが光ります<何で、私に隔世遺
伝してくれなかったんだろう!(笑) >。 これも、霊能修行
で大都会・東京に通った賜でしょう(都会ではカラー広告が普及
し始めた頃)。
「角昌呉服店」は、東北北部では結構知られた存在だったそうで
すが、祖父が死に、後を次いだ長男以降、時代の推移もあって
かウダツがあがりません(*_*) 

ところで去る4月、秋田の実姉が我が家(大阪)に滞在しました
が、その時のお話です。
以前、姉が、紫根染に興味を持ち、当時、伝統工芸士(秋田県
指定の無形文化財)の栗山文一郎さんの所に話を聞きに行った
そうです。その際、「私は角昌の孫なんです」と伝えますと、
栗山さんはビックリして、「実はね~松五郎さんの奥さん、つ
まり貴女のお祖母さんは、紫根染の名手だったんですよ!」と
聞かされて、大いに感激した、と言う話をしてくれました。
つまり、角昌呉服店は夫婦二人三脚で繁昌していたわけですね。


<紫根染を詳しく>
紫根染(戦後すぐ、国の無形文化財に)は、秋田県鹿角地方に
産する野生のムラサキやアカネの根を染料に使い、古代紫(鎌
倉時代から続く)とも云われている鹿角の文化の古さを代表す
る染色の技法であり、全国的にみても鹿角地方にのみ伝承され
続けてきた秘法と言える。
紫根は殺菌性が強く、伝染病予防効果に勝れていること、決して
変色しないこと、着物や夜具は湿気を呼ばず、身に着けると病気
にならないとか、難病を防ぐと云われた。特に痔・肺病・くさ・瘡
などには効果があると口伝され(紫根染のシーツはダニなどの虫
も避ける)、こうした効果を利用して、湯治の人に湯見舞として
紫根染を贈ると云う風習もあった(華岡青洲の作った痔の妙薬
「紫雲膏」の主原料は紫根である)。
三越呉服店名産品陳列会に於いても、夜具・布団・襦袢・下着用
として好評を博した。そして、秋田県の各種競技会に出品して、
幾度となく入賞するなどして、鹿角の紫根染は秋田県もしくは東
北地方の特産品として名声を高めた(江戸時代は、南部藩が保
護・普及したので、「南部染」とも)。
近年は主に羽二重などを使い、高級反物として知られている。
現在は、手間(人手)と時間がかかり過ぎることや、原料のムラ
サキ・アカネの入手難から、染色の技法を継続していくことははな
はだ困難な状況になり、一部でしか行われていない(そのため高
価です)。
ただ、とても優雅で気品があり、長く使用できるところから、今
でも根強いフアンに支えられているようです。
有名なところでは、盛岡・紺屋町の「草紫堂」さんが知られてい
ます(二枚目の写真は草紫堂さんのパンフレット。私のセミナー
の先生から、先日頂戴しました)。


<写真の文字>
製造発売元
角昌商店 ●●松五郎(父方の祖父名)
陸中国 鹿角郡 花輪町 
鹿角特産 紫根染

宮内省お買上げの光栄を賜る
御大礼奉祝の為 陸軍より献上したる御太刀装束品 謹んで染
めの大栄を蒙る 
立太子礼奉祝の為 陸海軍より献上したる御太刀装束品 謹ん
で染めの大栄を蒙る 
於 奥羽六県連合共進会賞牌を受く

超能力者になった祖父

2012-03-02 20:37:22 | 日記


私の父方の祖父は超能力(霊能力)者でした。
秋田県の山中の町で、呉服屋を営んでおりました。ソコソコ、
田舎の名士のようで、製造販売品の「紫根染め」が宮内庁に納
品されたり、東北六県連合共進会の賞牌を受けたり、郡の繊維
協会の理事長なんかも務めていたみたいです。
なかなか進取の精神に富んだ人物だったらしく、都会から旅人
がやってくると、何日も自宅に逗留してもらい、中央の話(情報)
を聞くのを楽しみにしておりました。
又、店先に、当時、最先端の情報機器である短波ラジオ(笑)
を置き、株投資などもしていたそうです。

大正から昭和の初めに掛けては、日本中が一種の霊能力・超
能力・神霊ブームであり、多くの新興宗教や心(神)霊術者が
現れました。祖父も、大変興味を持ち、東京での霊能力養成
講座みたいなものに積極的に参加し、時には、1週間から1ヶ
月も泊まり込んだ程の熱心さでした。
その結果、「大霊道霊○術」の極意をマスターしました。その時、
マスターした人は二人で、もう一人は東京で、霊能治療院のよ
うなものを開業したそうです<この人が、私の父と母を引き合わ
せたのですから、世の中はそれなりに面白いです(笑) >。
祖父は、呉服屋の本業があるので、身につけた霊能力は専ら、
家族や友人・知人のみに留めておりました。

サテ、昔、父が胃潰瘍になり、日本医大で胃の2/3の切除手
術を受けました。手術は無事に終わりましたが、その際、執刀
医が母に、「お宅のご主人は、以前、腹膜などをしましたね?」
と問い、母は全く記憶にないので「いいえ、主人からはそのよう
な話は一切聞いておりません」と応えたところ、「それはヘンだ
な~!? 確かに開腹して癒着を治療した痕が見られるのだが
な~」と不思議がっていたそうです。
母は帰宅後、ふと、あることを思い出したのです。
それは、父が若い頃、原因不明の難病にかかり、万策つきて、
どうせ死ぬのなら、東京ではなく、故郷の秋田で死にたい、と言
うことになり国に帰りました。秋田では、祖父が毎日、朝夕1時
間ばかり、父のお腹の上に手を当てて施術してくれたそうです。
すると、みるみる回復し、一ヶ月ばかりで完治し、無事、東京に
戻られた、と言うものです。そして母は、執刀医の言う「癒着治
療痕跡」とは、このことに違いないと確信したワケです。
それと先年、親族の盛岡での結婚式に参加した際、となりに座
った叔母さんが、「私が娘時代(20才くらい)までは、病気にな
ると、父がいつも手当療法で治してくれたので、薬を飲んだり、
病院や医者に掛かったことは一度もなかったのよ」と、ビックリ
するような話をしてくれました。
<叔母は優しく正直なうえ、岩手大(国立)の教授夫人ですので、
ウソを言うような人では無いですし、その必要もありません。又、
この項の下書きを書いている際、従兄弟から「3/1未明に亡く
なった」との電話がありました。とても不思議な気持ちとともに、
心よりご冥福をお祈り致しますm(_ _)m >。

母と、叔母の話からも、祖父がモノにした後天的霊能力は、相当
なものだったと想像されます。私が学生時代から、スピリチュアル
(精神世界)に大いに関心を持ち続けたことや、25才くらいから、
証券投資をするようになったのも、この祖父の隔世遺伝かも知れ
ません(笑)

<写真は父方の祖父>

『武士の娘』 

2012-02-17 14:12:19 | 日記




『武士の娘』(杉本えつ子著、大岩美代子訳。ちくま文庫)と言う、
とても素晴らしい書物があります。

<アマゾンより> 
著者は、1873(明治5)年、越後長岡藩の家老の家に生れ、武士
の娘として厳格に育てられた。結婚によりアメリカに住むように
なり、すべてがめずらしく目新しい暮らしの中で「武士の娘」と
して身につけたものを失うことなく、また自分にとじこもること
もなく、みごとに自立した考えを身につける。
今日に通じる女性の生き方を見る上にも、当時の風俗や生活の
ありさまを知るためにも、高い価値をもつ。

<佐々木圭子氏より>
1925年、日本人女性がニューヨークで出版。この本を読むと日本
のことが分かるといわれ、全米で大ヒット、後に世界各国で翻訳
された世界的名著である。

評論家の櫻井よし子氏も、「かっての日本人の精神の高貴さ、挙
措(キョソ)の美しさ、際立つほどに尊い価値観」として、「武士
と呼ばれる人たちとその家族が、いかに厳しく自らを律して清廉
に生きていたか、人間に対する思いやりがいかに深いか、いか
に謙虚で美しい生き方を全うした人たちなのか・・・!」と、大絶
賛しております。

著者は、満4~5歳から四書五経や習字を学ぶ(これらは特殊で
はなく、武家にあってはどこでも普通に行われていたとの事)。
時間の学習時間中は、正座のうえ微動だにしない。
厳寒にあっても、開け放された部屋(越後の冬は寒い。無論、暖
房など無し)での勉強や稽古事! 約2時間の学習後、お祖母さ
んが居るコタツの部屋に行くのですが、そこでお付きの婆やが、
オオ! ご苦労さま、と言ってカジカンだ著者の両手を雪で揉ん
であげるのです(急に暖めると手に悪いので)。
「正座のうえ微動だにしない!」 それが、まだ年端もいかぬ幼
女なのです!(今で言う、幼稚園前) その上、男児は、尚、厳
しく躾られ育てられたそうです!  凡そ、現代では全く信じられ
ない程のお話です! 全世界を見回しても、このような教育を施
した国が、かって日本以外にひとつでもあったでしょうか!? 
しかし、つい戦前の日本では、多くの武家の家系では当たり前の
ように行われており、この様に薫育されて成人した人たちが、後
の旧制高校生達を輩出していったわけです<「旧制高校・後ろを
見る目・真実を知るために」参照>。

昔、学生時代、栃木県鹿沼市にある友人の実家に遊びに行った
ことがあります。翌朝一番、友人は、お祖母さんの部屋に行き、
シッカリと正座をし姿勢を整えてから、徐(オモムロ)にフス
マを開け、「お祖母さん、お早うございます!」と、両手の上に
深々と頭を下げ、朝の挨拶をしたのです。伝統を重んじる家系
では、戦後もそれが当然のように行われていた訳です。
翻って、私は、その友人の行為を目のあたりにし、ホトホト感心
すると共に、自ら恥ずかしさを覚えた記憶があります(自分の祖
母に、そのような丁寧な挨拶をしたことは一度もなかったので)。

サテ、プロフィールにも書きましたが、私は(母方の)おばあち
ゃん子でした。物心つく頃より、祖母が88才で亡くなるまで
(不思議なことに命日は私の誕生日と同じに!)、私を「坊や」
と呼んでおりました(^_^;)
又、祖父は早くに亡くなり、祖母が頑張って子供達を育てた訳で
す。出来損ないの問題児であった孫の私は、祖母にとって、いた
わしく思われたのか、とても可愛がってくれました。更に色々と
薫陶もしてくれました<将棋も祖母から教わり、小学校時代はか
なり強かった、つもり^^; >。
今日まで大過なく過ごしてこられたのは、祖母のお陰と申しても
過言ではありません。祖母を思い出すたびに、大恩あるにもかか
わらず、それこそ何の恩返しも出来なかった事が、唯今も、大
変、悔やまれてなりません(*_*) 
上掲の写真は祖父母と祖母(80才時)です。祖母への、せめて
もの感謝の気持ちを込めて、本日よりPFにもアップ致します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<蛇足>
「本日、石川調書の証拠採用却下されました」。
『石川知裕衆院議員(38)と池田光智元私設秘書(34)の捜査段
階の供述調書を証拠採用するかが注目されたが、地裁の大善
文男裁判長は石川議員の供述調書の証拠採用を却下した。
石川議員の調書が却下されたことで、検察官役の指定弁護士は
大打撃だ。4月下旬と見込まれる判決が、無罪となる公算が高ま
った(日刊ゲンダイ)』。とあり。

★阿修羅コメント欄より。
------
02. 2012年2月17日 12:52:34 : RdBB9sU9Vo
小沢さんが証拠も無いのに有罪にされてしまう事は哀しいが、実
はこれが真実に目覚める人を一気に増やすという結果になるの
は間違いが無い。
結局、最高裁事務総局という悪の巣窟(仕組み)が、多くの人に
知られるわけだから、その意味は大きい。
(推認で有罪の登石裁判官と同じく)大善裁判長が有罪と言うの
はホボ間違いが無い。事務総局の指示なんだろうから。でも、事
務総局は薮蛇となることを知るだろう。その時は遅いが。
------
06. 2012年2月17日 13:03:48 : nXnS8NqpCo
郷原弁護士のコメント
郷原信郎@nobuogohara[元秘書の供述調書採用せず 小沢氏
公判、有罪立証の柱失う] http://bit.ly/ye2lPu 当然の決定。
これで常識的には、「小沢氏有罪」はあり得ない。万が一、有罪
判決が出されるようなことがあれば、それはもはや「裁判」では
ない。
------
07. 2012年2月17日 13:07:41 : BIgfJMRMNE
もうマスゴミは殆ど小沢の「政治とカネ」などは叫ばなくなって
いるよ。小沢事件が到底無理筋な事を、検察とマスゴミが強引に
進めてしまった訳で、ここに来て「政治とカネ」を叫ばなくなっ
た事を裏付けている。

神懸かった「年賀状」?

2012-02-06 15:20:51 | 日記
1)の年賀状抜粋
 *地球温暖化により、地形的に、「今後日本列島に超大型台
 風襲来が恒常化→風速70m以上も→山地の高圧送電線切
 れる→復旧に1ヶ月以上→この間、都市は停電状態に」。
 *秘教知識を学び、段々と感覚が研ぎ澄まされて行くようです。

2)の年賀状抜粋
 *小生、事務所のエレベーターには乗らず、11Fまで、階段2
 段飛びを実行しております。また、子供の時から、『努力』しな
 い『怠け者』ゆえ、中途半端な人生を歩んでしまい、心中、誠に
 忸怩(ジクジ)たるものがあります。来世、もし万一再び『人間』
 に生まれる『幸運』を得られたなら、その時こそ『努力家の子供』
 として歩みたい。
 *バブル最盛期の1989年賀状に「フロン問題・温暖化等、諸
 悪の根元は、世界に横溢する底知れぬ『拝金・拝物思想』その
 もので、このため全人類に危機的状況が迫っている」と記してお
 きましたが、今年はどうやら、その『天を驚かし地を動ぜん』
 (要するにキョーテンドウチ)のスタート年『何でもありの年』
 となりそうです。

と書きましたが、1)2)それぞれ何時の賀状と思われますか? 

1)は1991年投函の賀状で、その年の秋、台風19号(別名
 「りんご台風」)は見事に(?)風速70mを記録し(非公式では、
 鹿児島の自衛隊ヘリ基地で、最大瞬間風速88m!)、山地の
 最新式鉄塔39基も倒壊し送電線はズタズタに(ニュースに大
 きく載る)。
 西日本各地は大停電となり、特に、人口100万の広島市は塩
 害も加わり1ヶ月以上も! 

2)は1995年の賀状です。
 この年は、一体何があったのでしょう? 
 そうです! あの「阪神大震災」と「オーム事件」で日本中がテン
 ヤワンヤの、正に『驚天動地』の『何でもありの年』となったわけ
 です。後日、多くの人から、「世界の超一流と言われる予言者さ
 え、予測した者はいない、一体どうして分かったのだ?」と大い
 に不思議がられたものです。
 私には、超能力などは無論ありません(反対に『鈍い』くらい)。
 所が、ポイント、ポイントで閃く事があるのです[天の声?(笑)]。
 単にそれだけです。でも、このお陰で、今日まで、どれほど多く
 の危機的状況を救われたことか! 
 この お声さんには(笑)、ただただ感謝あるのみです。

<追伸>
ついでにこの際、自慢話で本当に恐縮ですがm(_ _)m
1990年のバブル崩壊も正確に読みとっており、その対策もバッ
チリで、友人・知人達にもバブルが崩壊するから「不動産を直ちに
売るように!」と連絡し、未だに感謝されています(汗!) 
当時、三越本店がバブル景気に乗って、宝飾品売り場を大金を掛
けて大改造する、との日経記事を見て、「なんと愚かな!」と友人
達に話したものです(天下の大三越が、大局を見通す「参謀」すら
いない事を露呈)。
案の定、大赤字で、ついには今日の伊勢丹に実質吸収されるハメ
に繋がった次第。 又、私どもが不動産を高値で売却以降、例の住
専各社が銀行に変わって不動産に突っ込み(大融資し)、数年後、
住専問題として火を噴き、各社は軒並み倒産していった訳です。
船井総研の船井幸雄会長は、数ある著述の一冊に、「当時、バブ
ル崩壊を正しく予測した日本人は5%も居なかっただろう。私自身
もそうであり、経営コンサルタントとして不明を恥じる」と正直に告
白されております。
私のPFに記した「船井幸雄さんの言う5%」とは、この様な意味な
のです(^_^;)

エッセネ派・「不食は不死の入り口」

2012-02-05 16:44:14 | 日記
昨日、誰でも簡単に出来、効果も高い(と思われる)『太陽(宇宙)
エネルギー吸収法』をお知らせしました。
ここで、不食にたどり着けそうと申しましたが、実は「不食は不死の
入り口」でもあるのです。
仙人は実質、不死者であることから、不食→カスミを喰う仙人→
不死、の流れも、ご理解いただけるでしょう。
これに関連し、以前、マイミクさんにお話したことを、加筆してお伝
えします(ご参考迄に)。

 『太古、地球の知識は全て同一でした。エジプ・トート(エメラルド
タブレット)、ギリシア・ヘルメス、エッセネ派、旧約聖書のエノク、イ
ンドや中国の聖者、古神道・・・などを通じ、真理が伝えられました。
例えば、エジプト第18王朝のイクナートン(ツタンカーメンの父?)
は初代ファラオと言われ、人と神(シリウスから)の両面を持ちます。
彼は秘教学派を設立し、300人の不死の弟子を育成した後、毒殺
されました(公式の歴史に於いては。 彼は無論、不死です)。
この300人は後日、イスラエルに移住し(旧約聖書時代)、エッセネ
同朋団を組織し今日に至ります(この同朋団からイエスが出現した
ワケです。今日のキリスト教徒にはビックリのお話でしょう。 尚、ア
メリカの故ドーリル博士も)。
エッセネ派自体のルーツは、人類の起源よりも古く、400万年以上
前の天の川銀河から、と教えられました。エッセネ派が人口に膾炙
(カイシャ)し始めたのは、戦後、死海のほとりのクムラン洞窟で、
「死海文書」が発見されて以降ですから(その筈?)、まだまだ秘密
のベールに覆われております(不死者のグループなど)。カソリック・
プロテスタントの顕教と違い、エッセネ派は密教ですので 』
と言うものです。

以上、この簡単な『太陽(宇宙)エネルギー吸収法』を実践すると、
誰でも、仙人同様の不死者に成れる可能性があるわけです。
ただ、不死者として永遠に生きるのと、人間として寿命通りに死ぬ
のと、どちらが幸せか? と問われれば私は迷わず後者を選びま
すね(笑)


<追伸>
「400万年以上前の天の川銀河」に驚いてはいけません(笑)
25年ほど前、友人と初めて「鞍馬寺」に行き、奥の院までの九十九
折り(木の根道)の途中、確か、「この地は、今から200万年前、金星
からサナートクマラ(魔王尊)の降り立った地である」との、白いペン
キの立て看板があった記憶があります。
2年前、再び同寺に行った際、山門でもらったパンフレットには、「650
万年前、金星より地球の霊王として天降り、地上の創造と破壊を司
る護法魔王尊」とあり、450万年も古くなっているので、ビックリ致し
ました(笑) 

太陽(宇宙)エネルギー吸収法<聖白色同朋団より>

2012-02-04 17:08:58 | 日記
方法はとても簡単です(すべからく、真理はシンプルのようです)。
右手を握り左手は開き、両手を頭上高く上げ、息を十分吸い込み
ながら同時にユックリとつま先立ち。ピーク時に10~30秒ほ
ど息を止め(この時、左手から太陽エネルギーが入ってくるとイ
メージすると尚よい)、のちユックリ両手とカカトを降ろしなが
ら息を吐く(目は開けたまま。呼吸は共に鼻で)。これを3回繰
り返し、朝・昼・夕・就寝前、の4度、太陽方向(東・南・西・北)
に面して行う。
ただ、これだけです(雨でも曇りでも可)。出来れば大地で素足
なら最高。でも、都会では無理でしょうからビル内でも可。慣れ
と、実際、左手がチリチリとし、宇宙プラナー(気のようなもの)
が入ってくるのが実感できます。

東京時代に実践した経験を申しますと、右手の指先(特に中指)
から気を発射する事が出来るようになりました。又、机の上に、
ミカン、ニンジン、石、名刺など、好きな物を間隔を空けて並べ、
目をつぶりながら、その30cm位上を、左手の平でなぞって行
きますと、それらの上に来たとき、ポッ!ポッ!ポッ!とした気
が感じ取れます。
最大の経験は、食事の量が大幅に減ってきたことです。沢山食べ
られなくなり、小食でもお腹が一杯で、それでも体重は減りませ
ん。その際、古くからの「仙人はカスミを喰って生きている!」
も満更ウソとも思えなくなり、極めれば「不食」にたどり着けそ
うな予感がしたものです。

正直いいますと、これだけ簡単な方法にも拘わらず、大阪に来て
からは、仕事の多忙を理由に止めてしまいました。「何時でも出
来る」と言う思いや、その上、私は根がダラシなく、とかく三日
坊主なものなので(*_*) 
もし続けていたら、今頃は仙人になれていたかも知れません(笑) 
最近は時間が取れるようになりましたので、今度こそ本腰を入れ
て実践したいと思います!

<追伸1>
東洋思想では、外界から精気を取り汲み、常に体内の圧力を高め
ておくと、人間に悪さをする、ウイルス・細菌や、ガン・有害添
加物などを寄せ付けなくなったり、排出するそうです。病気など
は、体内の気の圧が減少したことにより、禍々(マガマガ)しい
ものが侵入した結果だそうです。

<追伸2>
そうそう、最初に両手をすり合わせ、摩擦してから始めると良い。

旧制高校・後ろを見る目・真実を知るために。

2012-01-30 21:26:08 | 日記
ご存じかも知れませんが、戦前、旧制高校生のバイブルであった、倉田
百三の「出家とその弟子」中に、『後ろを見る目』の有名な話があります。
私も学生時代に読み、深い感銘を受けたものです。

ネットの紹介文には、
『倉田百三は生涯病身でした。血気盛んであるべき自分が、病床に伏し
ているばかりで何の役にも立っていない。こんな人間が生きている資格
があるだろうか? と深刻に悩み仏書もあさりました。その結果ハッと気
付いたことは、自分は生きる資格(権利)があって生きているのではない、
ただ(許されて)生きているのだと言うことでした。
私どもは空気を吸い太陽の光に浴しています。また、米・大根・魚・牛肉
を食べられるのは、多くの動植物の犠牲の上に許されている、としか解
釈の仕様がない。自分自身にはそれだけの値打ちがある、といえるもの
が何もないのだから。
そして許されていると言うことにおいては、金や、地位のある人も無い人
も頭のよい人も悪い人も善人も悪人も全て平等で、これこそが人間平等
の真の根拠なのである…
この気付きを倉田は「後ろを見る眼」が開けたと記しています。今までは、
ただ前ばかり見て、あれをしたい、これをすべきだ、とモガいていたが、
後ろを見る眼が開けてみると、許されている事を、ただ有り難く受け取る
(受け入れる)だけで十分なのでした<ここに至れば、彼等の犠牲を無
碍にはできなくなる> 』
とあります。

言うまでもなく、彼等、旧制高校生達が、戦後の焼け野原から、世界第
2の経済大国を築き上げた原動力である、と断言しても良いでしょう(無
論、正直で勤勉な国民大多数の力もあって)。
彼等が去った後(リタイア後)、アメリカ流戦後教育を受けた、エリートと
称する人達(新制高校、新制大学出)が社会の第一線に登場してから、
日本はまるで坂道を転げ落ちるように劣化していったわけです。
まず政治が悪い。それに勝るとも劣らないのが司法(警察・検察、裁判
所)と、マスコミの目を覆うばかりの退廃です!(当然ですが、この背景
にアメリカの思惑があるわけです)。 特に、地検特捜部(ルーツは、終
戦直後、CIAによって作られた隠匿物質摘発部隊)や、過日、[証拠主
義][推定無罪]の法の大原則に悖(モト)らず、単に胸先三寸のデタラ
メな「推認」によって、小沢秘書3名を強引に有罪にしてしまった登石裁
判長(今日、東京地裁の“ミスター推認”と揶揄されている)など、劣化の
最たるものでしょう! 
司法・マスコミは国民の最後のよりどころです。その根底が腐りきってい
るとなれば、ことは甚大で、本当に我が国に未来はありません(この国
の子供達が可愛そうです!)。この弊害は全国民に及ぶのです。現在、
ノウノウとしている権力側とて事情は同じです(明日は我が身と知るべき
です)。実際、つい先日まで、大阪地検で権力を振るっていた、大坪・前
特捜部長ですら、都合が悪くなれば簡単に切り捨てられるのです(彼の
言辞が傑作です。「検察のストーリーに全面対決していく!」と。自ら散
々、ストーリーを書きまくり、多くの無実の人を苦しめてきたであろう御仁
が!)。故に(権力・体制側を含む)全国民の為に、[証拠主義][推定無
罪]の法の大原則が真に求められるのです。
残念ながら、司法・マスコミの腐敗体質は、メッタに表面には出てきませ
ん(村木事件などは例外中の例外で、冤罪は何度でも作られます)。ただ、
ネットの世界のみ真実を知ることが可能なのです<特に「阿修羅掲示板
(政治)」や「リチャードコシミズ」「副島隆彦」「植草一秀」「飯山一郎」など
の秀逸なブログ情報・・・>。
記者クラブ(役所のリーク記事オンリー。官庁の単なる伝書鳩)による、マ
スコミ情報のみの人は、彼等によって100%洗脳され放っしも同然です!
シリアもギリシャもリビア問題も、米共和党指名選も(善戦「ロンポール」
情報など皆無)、政治も経済もTPPも、さてまた20年前の10万円天皇
在位60年ニセ金貨事件(イランコントラ事件やニカラグア内戦と密接にリ
ンクしている)も、子宮頸がんワクチンや人工甘味料(アスパルテーム等)
の危険性なども・・・本質を知ることなど到底不可能です。積極的にネット
を見る(調べる)、約20%以下の国民が、小沢事件やTPP、消費税問題
の真実に迫れるのです。

戦前は、短波ラジオを持つだけで、スパイとして、特高<特別高等警察。
治安維持法にかかわった秘密警察のようなもの>や憲兵に捕まりました。
「敵空母2隻撃沈!我が方の損害軽微なり」(実体は逆さま)の、連日連
夜の大本営発表がバレてしまうからです。国民に、真実が知られては困
るのです。 今日、まともなマスコミと言えば、情けないことに、唯一、タグロ
イド版の「日刊ゲンダイ」しかありません(それと、東京・中日新聞、週刊朝
日が若干マシ)。それ以外は読めば読むほど洗脳(マインドコントロール)
され、おバカになるだけの話しです。
マスゴミ、ゴミ売り新聞、夕日新聞、埋日新聞、惨軽新聞、しんぶん垢畑、
とは良く言ったものです。TVに至ってはNHK(日本呆葬協会)以下、痴呆
のオンパレード!です。
先日も、原発事故において政府がSPEEDIなどの放射能拡散予測を、国民
に隠し続けて重大被曝させる一方、米軍・米国には即刻提供していたこと
が明らかになりました。政府と一体化したマスコミの隠蔽により、多くの国
民が被曝してしまった訳です(このSPEEDI情報に基づき、アメリカは直ちに
原発から80km以上の避難を、自国民に緊急発信したわけです)。
莫大な国家予算を使ったSPEEDIです。このバカバカしさは、一体何なんで
しょう? 
しかし、ネット情報(現代の短波ラジオ)に常にアクセスしている人は、原発
事故直後のメルトダウンも、福島市や飯舘村方向への風向きも、多くを正
確に把握できました。古くからの筋金入り反原発作家「広瀬隆さん」や、
京大原子力研「小出助教」(共にマスコミには出られない)の正確な情報
に接しており、又、親切なドイツ気象庁予報(日本人のために、福島原発
からの風向きや強さを、直後から毎日発信してくれた)を見られたからです。
この間、ネット以外の国民(約80%)は、総動員された御用学者や保安
院や枝野官房長官の言辞(「安心」・「安全」・「直ちに」)に惑わされ、真
実を知ることは出来ず、結果、東北や関東では、外部どころか体内被曝
までもさせられてしまったのです! 戦前の「大本営発表」が未だにまか
り通っているのです!? 
皆様の内、情報入手先として既成マスコミが主な方は、今後は、真実情
報に無料で触れられるネットの特性を大いに生かし(強調しますが、「現
代の短波ラジオ」です)、自分とご家族の命を是非守ってください!

以上、もし! 現在! 旧制高校生達(当時、世界最高の知的エリート
集団と思います)が、尚、社会の第一線で采配を振るっていたら、日本は
ここまで劣化しただろうか? と思うと誠に残念でなりません(旧制高校
制度は、昭和25年、アメリカの日本弱体化策の一貫として廃止させられ
た。それほど、この仕組みは優れていた証拠)。


蛇足1)
日本一新の会の平野会長が、1月12日に、東京地方裁判所、登石裁判
官の、「弾劾訴追請求状」を提出したそうです。『サンデー毎日』と『日刊
ゲンダイ』が報道しましたが、相変わらず、巨大メディアは無視を決め込み
ました。

蛇足2)
私が30年以上も昔から肉食をしなくなったのは、当然、「うしろを見る目」
の影響もあったのでしょう。