アスカのブログ!

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≪警告! 呪文を掛けときました。怖いですよ(笑)≫ 

2013-03-29 12:33:57 | 日記
知人から、面白いブログです「一気に読ませて貰いました」とあり(汗!)、
その際、これだけの資料や写真が添付されていると、中には悪用して
『(木脇に)成りすます』輩も出てくるのではないか、と指摘されました。

確かに、その恐れはあります。
そのようなことがあれば、折角、掲載したブログ内容が不本意な結果を
招いてしまいます。例えば投資詐欺や結婚詐欺などで、被害者が出るよ
うな事にでもなれば大変です。
そこで、≪西洋密教≫による『悪用厳禁!の呪文』を掛けておきました。
悪用を考えている人は、その後、「災害・交通事故・破産・ホームレス・
一家離散・病魔・火事・盗難・投獄」等、多くの凶事に見舞われる恐れ
十分です。

ただ、私が念じて凶事を起こすのではありません(そんなことは致しま
せん)。 「赤ヒゲの善行」を逆手に取る輩(ヤカラ)への天の怒りが、
この呪文と相まって凶事を呼ぶのです。
「天網恢々疎にして漏らさず」なのです。
このこと、決して甘く見ないようお願いしておきます!?

『華族女学校&坊や&小せがれ』

2013-03-26 20:28:16 | 日記

番外編として、木脇一族にまつわる最後のエピソ
ードを述べておきます。

私はPFにあるように、お祖母ちゃんっ子で、と
ても可愛がられました。私がものごころついてか
ら、祖母が亡くなるまで、「坊や!」と呼んでお
りました(汗!) 年に4~5回ほど叔父の家か
ら我が家に来るときは(各、1ヶ月ほど滞在)、
お土産として、多くの伝記物や偉人伝を持参して
くれました。いつも一緒に寝ており、私が眠りに
入るまで、それはそれは沢山の寝物語をしてくれ
たものです。
熱心な信仰家でもあり、春夏秋冬やすむことなく、
毎朝5時になると、私の脇でピタッ!と正座し
(冷暖房などありません)、同じお祈りを30分
ほど唱えておりました。内容は『坊やは神の子ホ
トケの子、いつもお父さんお母さんに孝行し、世
のため人のため、ムニャムニャムニャ・・・』と
言うもので、子供ながらに、いつの間にか頭に刷
り込まれてしまいました(笑)<三つ子の魂百ま
でも、かな?>   
神の子ウンヌンはおとぎ話としても、この世では
随分と辛い体験(修行?)をさせられてしまった
のは確かです(苦笑)。ただ私が,未だに「志し」
モドキを失わないのは、この祖母の薫陶のお陰と
思っております。88才で逝った祖母の命日は、
奇しくも私の誕生日でした。

祖母の思い出話として、父に連れられ、桂太郎首
相の箱根の別荘に遊びに行った際は、小田原駅
(多分?)で待つ迎えの馬車には、前後に、騎馬
警官の護衛が付いていたそうです。
同じく、ベルツ博士の屋敷を初めて訪問した時、
夫人(日本人)が、赤い羽織を着用していたので、
とても驚いた、と話しておりました。それまでの
日本の婚姻女性は、赤色は内側の色で、決して外
には出さない色だからだそうです。
また中学生時分、「坊やネ、おバアちゃんが娘時
代、お国から、どうぞ華族女学校にお入り下さい、
とお誘いがあったのよ。だけど、お父さんが『恐
れ多い』、と断ったの。それで、本郷にある普通
の女学校に入学したの」と聞かされた事がありま
す(祖母の世代で女学校出は大変珍しいそうです)。
この『恐れ多い』ですが、実際は、爵位も無いの
に華族学校などに行ったら、いじめられるに決ま
っている、との親心で断ったのかも知れません。
既に中学生であった私は、さすがに華族女学校
(後の女子学習院)の意味するところは理解でき、
当時、「私の大好きなおバアちゃんが!?」と、
絶句するほどギョーテンした記憶があります。

「坊や」「華族女学校」などと記しますと、私は
サゾや良いところの「ぼんぼん」とお思いのこと
でしょう!
んが~皆様!? ギッチョンチョン(笑) 
事実は私は、無い無い尽くしの貧乏商家のシガナ
イ小せがれに過ぎません(このため、母は大変な
苦労をしました。乏しい家計をヤリクリし、自ら
の楽しみも犠牲にして、私と兄を大学まで出して
くれました。亡き母への感謝も決して尽きる事は
ありません!)。
あれから、早や何十年も経ちましたが、「なんで、
私みたいな男に、こんな尊い祖母や母を持てたの
だろう!?」と、未だに不思議でなりません。

祖母には11人の孫がおりますが、詳しく木脇氏
の物語を聞かされたのは、ナゼか私ひとりです。
現在、風前の灯火である木脇一族にとって(父系
はとうの昔に絶家)、私が何の準備もなくこの世
を去れば、『赤ヒゲとして善行を重ねた木脇の痕
跡』は永遠に途絶えてしまいます。
しかし幸い、ネットのお陰で、こうして、木脇の
歴史をブログに留めることが出来ました。甥・姪・
いとこ、又はその子供達が、何時の日か、このブ
ログを見て、木脇一族の正しい歴史を再発掘し、
顕彰してくれるかも知れません。
その手立てを残し得たことで、何か私の役目も果
たしたようで、まるで肩の荷をおろしたような安
堵感に浸っております(笑) 

そんな日が来るのを楽しみに、以上で木脇の話は
終わります。


『決してあり得ない! 世にも不思議なお話』

2013-03-17 10:08:48 | 日記


前回お話しした日経新聞「私の履歴書:野村万蔵氏」を掲載します。
若干、見づらいので、「木脇」に関わるところを抜粋してみます。

 『本所林町の貧乏暮らしの中で、私は4才の時ジフテリアにかかってし
まった。当時、ジフテリアは大騒動だったらしい(最悪1~2週間で死亡)。
問題は病院だが、金がないから入院治療など及びもつかない。治らなけ
ればそのまま死ぬしかなかった。見るに見かねた一人の医者が費用を出
してくれ、私は明治病院に入院でき、お陰で私は助かった。
医者は木脇良さんという。いわば「赤ヒゲ」のような人と言えよう。私財をは
たいて各界の人たちの面倒をみていた。本所かいわいに住む、桜間弓川
とか、力士・芸能人を贔屓(ひいき)にし、その人達が体調をこわすと、親
切に診療した上に、勘定はある時払いの催促無しであったと言う。木脇さ
んの世話になった芸能人・文化人は、ずいぶんいることと思う』。
ここで、明治病院とありますが、木脇医院のメインは外科、その上、ジフテ
リアは法定伝染病で隔離病棟が必要なため、大きな明治病院に入院し
たものと思われます。
しかし、この履歴書を改めて読みますと、万蔵氏も幼少時は本当に辛く苦
しい修行を積まれていたのですね!(ゆえに、大成されたワケですね。
昔の人はホントに凄~い!!!)

サテ、話は変わって15年ほど前に遡ります。
当時、池田君という<ホ~ら、やっと出てきましたよ(笑)>東京時代の友
人と、大阪の私のチッチャな会社で、一緒に仕事をしておりました(彼は現
在、札幌近郊で、環境調査会社の社長に)。
ある時、「アスカさん! 私の曾祖父は池田賢斎と言い、幕府出身の医
者で、明治3年、新政府よりベルリン医科大学に留学を命ぜられ、明治9
年に帰国しては、東京大学医学部を創設し、陸軍軍医監、宮中顧問官、
明治天皇侍医長<木脇の佐土原藩御殿医頭とは月とスッポン!(笑)>
などを歴任し、後に男爵になったのですよ」と言われました。
この余りに信じられないお話に、当然、私は卒倒せんばかりに驚愕したもの
です(ブログをお読みくださる皆様も、この情景を十分ご想像いただけること
でしょう!)。
怪訝な顔をする池田君に、「実はな~池田君!」と、木脇の話を致します
と、今度は池田君のオメ目がマン丸になってしまいました(笑) 
明治の初年時、ドイツはおろかヨーロッパ全土に於いても、日本人は皆無に
等しく、共に新政府から派遣された池田と木脇は、当然、面識・交流があ
るわけで、その曾孫どうしが130年の時空を越え、大阪の一隅で一緒に仕
事をする仲とは、これを『奇縁!』『決して、到底、ありえへん、世にも不思
議な因縁話!』と言わずして、何と申して良いのでしょうか!!!

後日、調べたところでは、池田と木脇は、それほど深い交流はなかったみ
たいで、これにはヤハリ、幕末~維新に掛けての無理からぬ事情が絡んで
いるようです(木脇と桂は同じ官軍仲間)。
ここで、再び佐土原藩に話を戻しますと・・・
武術も盛んな藩でした。薩摩示現流(剣術)の使い手も多かった為か、勇猛
果敢な戦いぶりは有名で、薩摩藩(官軍)1番隊として、真っ先かけて江戸
に進撃し、また、各地を転戦したわけです。その目覚ましい働きは、3万石
の小藩にも関わらず、「薩摩、長州、土佐、鳥取、大垣藩に次ぐ」と称讃さ
れたほどでした。
維新が成って、新政府からは多大な慰労金が下り(そのお金が留学費用
に)、また後年、藩主・島津忠寛公は伯爵に列せられ(この石高ですと、普
通は子爵)、準大藩なみの叙勲で報いたわけです。
つまりは、池田と木脇がドイツで邂逅したときは、敵味方に分かれて激しく
戦った戊辰戦争から、まだ6~7年ほどしか経っておらず、お互い、抜きが
たいワダカマリがあった事は、十分理解できる所です<但し、曾孫同士は
相変わらず良い友人関係ですよ(^-^)>。
余談ですが、母の国は島津の佐土原藩(官軍:勝ち組)、父の国は盛岡の
南部藩(賊軍:負け組。よって廃藩置県の際、陸中花輪は岩手県より秋田
県に割譲される)。私は、当然、勝ち負けの真ん中生まれで、気質も、北国
秋田(艮:ウシトラ)と南国宮崎(坤:ヒツジサル)の真ん中。生国もホボ真ん
中の東京生まれ。これも奇縁といえば奇縁のようで、道理で(自称)バラン
ス感覚が良いわけだ(爆)。

<以上、「明治の偉人:池田謙斎」参照>