前回お話しした日経新聞「私の履歴書:野村万蔵氏」を掲載します。
若干、見づらいので、「木脇」に関わるところを抜粋してみます。
『本所林町の貧乏暮らしの中で、私は4才の時ジフテリアにかかってし
まった。当時、ジフテリアは大騒動だったらしい(最悪1~2週間で死亡)。
問題は病院だが、金がないから入院治療など及びもつかない。治らなけ
ればそのまま死ぬしかなかった。見るに見かねた一人の医者が費用を出
してくれ、私は明治病院に入院でき、お陰で私は助かった。
医者は木脇良さんという。いわば「赤ヒゲ」のような人と言えよう。私財をは
たいて各界の人たちの面倒をみていた。本所かいわいに住む、桜間弓川
とか、力士・芸能人を贔屓(ひいき)にし、その人達が体調をこわすと、親
切に診療した上に、勘定はある時払いの催促無しであったと言う。木脇さ
んの世話になった芸能人・文化人は、ずいぶんいることと思う』。
ここで、明治病院とありますが、木脇医院のメインは外科、その上、ジフテ
リアは法定伝染病で隔離病棟が必要なため、大きな明治病院に入院し
たものと思われます。
しかし、この履歴書を改めて読みますと、万蔵氏も幼少時は本当に辛く苦
しい修行を積まれていたのですね!(ゆえに、大成されたワケですね。
昔の人はホントに凄~い!!!)
サテ、話は変わって15年ほど前に遡ります。
当時、池田君という<ホ~ら、やっと出てきましたよ(笑)>東京時代の友
人と、大阪の私のチッチャな会社で、一緒に仕事をしておりました(彼は現
在、札幌近郊で、環境調査会社の社長に)。
ある時、「アスカさん! 私の曾祖父は池田賢斎と言い、幕府出身の医
者で、明治3年、新政府よりベルリン医科大学に留学を命ぜられ、明治9
年に帰国しては、東京大学医学部を創設し、陸軍軍医監、宮中顧問官、
明治天皇侍医長<木脇の佐土原藩御殿医頭とは月とスッポン!(笑)>
などを歴任し、後に男爵になったのですよ」と言われました。
この余りに信じられないお話に、当然、私は卒倒せんばかりに驚愕したもの
です(ブログをお読みくださる皆様も、この情景を十分ご想像いただけること
でしょう!)。
怪訝な顔をする池田君に、「実はな~池田君!」と、木脇の話を致します
と、今度は池田君のオメ目がマン丸になってしまいました(笑)
明治の初年時、ドイツはおろかヨーロッパ全土に於いても、日本人は皆無に
等しく、共に新政府から派遣された池田と木脇は、当然、面識・交流があ
るわけで、その曾孫どうしが130年の時空を越え、大阪の一隅で一緒に仕
事をする仲とは、これを『奇縁!』『決して、到底、ありえへん、世にも不思
議な因縁話!』と言わずして、何と申して良いのでしょうか!!!
後日、調べたところでは、池田と木脇は、それほど深い交流はなかったみ
たいで、これにはヤハリ、幕末~維新に掛けての無理からぬ事情が絡んで
いるようです(木脇と桂は同じ官軍仲間)。
ここで、再び佐土原藩に話を戻しますと・・・
武術も盛んな藩でした。薩摩示現流(剣術)の使い手も多かった為か、勇猛
果敢な戦いぶりは有名で、薩摩藩(官軍)1番隊として、真っ先かけて江戸
に進撃し、また、各地を転戦したわけです。その目覚ましい働きは、3万石
の小藩にも関わらず、「薩摩、長州、土佐、鳥取、大垣藩に次ぐ」と称讃さ
れたほどでした。
維新が成って、新政府からは多大な慰労金が下り(そのお金が留学費用
に)、また後年、藩主・島津忠寛公は伯爵に列せられ(この石高ですと、普
通は子爵)、準大藩なみの叙勲で報いたわけです。
つまりは、池田と木脇がドイツで邂逅したときは、敵味方に分かれて激しく
戦った戊辰戦争から、まだ6~7年ほどしか経っておらず、お互い、抜きが
たいワダカマリがあった事は、十分理解できる所です<但し、曾孫同士は
相変わらず良い友人関係ですよ(^-^)>。
余談ですが、母の国は島津の佐土原藩(官軍:勝ち組)、父の国は盛岡の
南部藩(賊軍:負け組。よって廃藩置県の際、陸中花輪は岩手県より秋田
県に割譲される)。私は、当然、勝ち負けの真ん中生まれで、気質も、北国
秋田(艮:ウシトラ)と南国宮崎(坤:ヒツジサル)の真ん中。生国もホボ真ん
中の東京生まれ。これも奇縁といえば奇縁のようで、道理で(自称)バラン
ス感覚が良いわけだ(爆)。
<以上、「明治の偉人:池田謙斎」参照>