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【日独伊の楽勝!⑩ 終章(総力戦研究所)】

2018-04-30 20:00:12 | 日記

1941年7月、総力戦研究所(主に、若手官僚や専
門家を集めての継戦能力研究。1940年10月1日開
所)に於いて、日米戦争を想定した第1回総力戦
机上演習(シミュレーション)発表。
軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項<兵
器増産の見通しや食糧・燃料(石油)の自給度や
運送経路、同盟国との連携など。及び日米の国力
差>について各種データを基に分析し、日米戦争
の展開を研究予測した。
結果、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、そ
の後の推移は長期戦必至であり、その負担に日本
の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参
戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不
可能」という『日本必敗』の結論を導き出した。
これは現実の日米戦争における(真珠湾攻撃と原
爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致するものであ
った。
対して、東條首相(当時、陸相)は、「これはあ
くまでも机上の演習であり、實際の戰争は、君達
が考へているやうな物では無い。日露戰争で、わ
が帝國は勝てるとは思はなかつた。然し勝つた。
あの當時も列強による三國干渉で、やむにやまれ
ず帝國は立ち上がった。勝てる戰争だからと思っ
てやったのではなかつた。戰といふものは、計画
通りにはいかない。意外裡な事が勝利に繋がつて
いく。したがつて、諸君の考へている事は机上の
空論とまでは言はないとしても、あくまでも、そ
の意外裡の要素といふものを、考慮したものでは
ない。尚、この机上演習の経緯を、諸君は軽はず
みに口外してはならぬ<以上 ウィキより>。
と反論しています。

実際の大東亜戦争は、驚く事に、このシミュレー
ション通りに推移したので、今日に及ぶも高く評
価されています。
然し私は、東條首相の反論に半分同意したいと思
います。今まで、幾度と記したように、超新兵器
ゼロ戦などを擁した日本は、少なくとも1943(昭
和18)年初めまでは、制空権・制海権を握り、圧
倒的に強かったのです(米国の物量作戦が機能し
始めるのは、開戦も2年が経ってからです!)。 
この机上演習(シミュレーション)には、超新兵
器の存在を全く考慮していないのではないか、と
しか思えません(研究員に新兵器情報は与えてい
ないので、当然か)。
つまり意外裡の要素が幾らでもあり、日独伊で、
英・ソを屈服させ、アメリカを世界の孤児と化し,
十分に、お釣りが出るほどの講和が、早々と米国
と結ばれた筈なのです(米国民の戦争反対意向も
あり。当然ルーズベルトは失脚です)。

返す返すも、ソ満国境とインド洋の重要さを無視
し、南進論(*)1本に絞ってしまった事が残念
でなりません。この背景は繰り返しますが、戦争
指導の上層部に、ビッシリと敵国スパイ網が形成
され、これに誘導され南進し、長期戦(消耗戦)
に持ち込まれてしまった、に尽きるようです。
一例として、スパイ網のひとつに「ヨハンセン・
グループ」があるそうです。これは、吉田反戦の
意味と言われています。本当ならば戦後、吉田茂
が何故、突然登場し、総理大臣として君臨できた
のか、の理由も分かろうと言うものです。
更に言えば、奥はもっと広く、ルーズベルトやチ
ャーチル、(特に)日本海軍上層部は皆、フリー
メーソンのお仲間。及びヒットラー(90代で南米
で客死は事実のよう? メルケルはヒットラーの
娘?)やスターリンもロスチャイルドの孫と言わ
れ、第二次大戦は、壮大な茶番劇と言われていま
すが、ここまで踏みいるのは、私のような浅学非
才の輩では到底無理なので、言及は避けます。

(*)当初、日本が南進論で目指した地域は、
 ・アメリカ領フィリピン。 
 ・仏領インドシナ(ベトナム、カンボジア、
   ラオス等)。 
 ・イギリス領ボルネオ島。 
 ・オランダ領東インド(インドネシア)。
 ・イギリス領シンガポール、マレー(マレーシ
   ア)。
 ・タイ。
 ・英領ビルマ(ミャンマー)。
などでしたが、現実は、更に南太平洋の奥深く、
敵国オーストラリア近辺のソロモン諸島<ガダル
カナル島(ガ島)など>まで、戦線を大々拡張し
兵站が思いっきり延びた所(豪州に近いアメリカ
有利、日本は大不利。兵法の基本にも大いに反す
る!)での戦闘に明け暮れてしまい、当然のよう
に、艦船・航空機・兵員・燃料・武器・糧食の多
くを失い、国力はガタガタになってしまいます。
米豪遮断を目的とし、ガ島に飛行場を建設する訳
ですが、アメリカは初めは黙視し、イヨイヨ飛行
場が完成する間際に、大軍を上陸させ奪取してし
まいます(ここに、ガ島を巡る壮絶な戦いが始ま
る次第)。そもそも、ラバウルから1000kmも離れ
た、こんな僻地に、飛行場を作ろうとしたのは誰
なのか! 南進論すらブッ飛ばす大愚策(当初、
ソロモン諸島など南進論には無かった。それがい
つの間にか!)を企画立案したのは一体誰か? 
勿論、スパイ網に汚染された海軍首脳によってで
す。兵站不利のガ島海域に深入りすること無く、
早々と撤退しておけば、まだ救われたものを! 

終章に当たり、私にとっては、正直、このタイト
ルは荷が重かった! ブログ記載の動機は、12/8
の開戦記念日に、相変わらず多くのマスコミなど
が、「日本は無謀な戦争をした!」と片づけてい
る事に、「少し違うのでは無いか」「決してそう
ばかりでは無かった」との思いからでした(⑧の
開戦時の海軍戦力比を改めて見て下さい。これな
ら無謀でもなんでもなく、開戦の決意も十分納得
出来ますし、無謀と言うなら、ハルノートなどで
日本を挑発した米英こそ、無謀であるに決まって
いるではないですか! それが、一体どうして負
けてしまったのか? それこそが大疑問と言うも
のです)。もし、そんな現状に一石でも投ずる事
が出来たとするのなら、私の望外の喜びとする所
です(汗!) 
以上、10回にも亘って、お付き合い下さり、厚く
御礼申し上げますm(_ _)m 


【日独伊の楽勝!⑨ <大陸打通作戦>】

2018-04-10 20:28:16 | 日記

<日本軍が如何に強かったか、の一例です>  
負け戦となっている1944年4月、インパール作戦
にワズカに遅れて、<大陸打通作戦>が実施され
ます(4/17~12/10)。
目的は、この年、制空・制海権は完全にアメリカ
に奪われ、南方からの資源輸送が覚束(オボツカ)
なくなりました。シーレーンがズタズタにされた
訳です。この打開策として、華北(北京)から、中
国大陸を縦断し雲南省を経由、仏領インドシナま
でを結んでの壮大な「陸のシーレーン構築」(南
方資源を陸路、釜山まで運び、そこより、米潜水
艦からの防御を固くして玄界灘を渡り九州へ)で
す。及び、本土空襲を狙う、中国大陸にある「ア
メリカ空軍基地の壊滅」です。
当初、日本の支那派遣軍50万(関東軍とは別。最
終的には100万まで膨らむ)、中国軍300万が中国
各地で激突し、結論を言えば、精強な日本軍の圧
勝で作戦は大成功でした。しかし、この時、既に
マリアナ諸島が落ち、サイパン島からの本土爆撃
が本格化する訳で、目的の半分は無意味なモノと
なりました。
然しマ~、とにかく日本軍は強く、敗戦1年前時
点での大作戦も目を見張る程です。なお、支那派
遣軍精鋭100万は、終戦を中国大陸で迎えました
が、降伏調印式で、名将、岡村寧次総司令官(大
将)は、「何で連戦連勝の我が軍が、負かした相
手に降伏しなければならないのだ」とエラく立腹
し、もう一戦を覚悟したそうですが、陛下のご意
向であると聞き、直ぐに鉾を納めたそうです。


サテ、①に記載した<勝機1.2.3>に付いて
書いてみます。

<勝機1>ソ満国境で、関東軍は特種演習(関特
演)を実施しました。70万を動員しての大演習で,
スターリンは、本当に日本が攻めてくるのでは無
いかと、冷や汗を流したそうです。現実にも、演
習に見せかけての『対ソ武力発動』を前提とした
作戦準備行動で、陸軍健軍以来の大動員でした。
しかし、華々しい大演習も、当初の意気込みは何
処へやら、終われば撤収してしまいました。世上
言われるように、戦争方針で、北進論(ソ連を攻
撃し欧州戦線での独伊を支援する)が後退し、南
進論<仏領インドシナから、東南アジアの資源
(石油、スズ、ゴム等)地帯を攻略>が優勢にな
った事です。結果として、スターリンを安堵させ
ると共に、独伊を大いに落胆させました。
改めて言うまでも無く、ここは、何としても北進
論を実行し(併行して、東南アジアの資源地帯を
攻略。それだけの戦力は十分あり)、独伊を支援
し勝たせることに全力を挙げるべきでした。日独
伊三国同盟は、軍事同盟なのですから当然のこと
でしょう! 独伊の勝利は、密接に日本の勝利に
関わってくるのですから尚更です。南進論の実施
により、日本の勝機は大いに失われました。

<勝機2>北アフリカのエルアラメイン(英領エ
ジプト)攻防戦では、海軍は紅海の入口付近を哨
戒し(以前述べたように、余裕をもって可能でし
た)、英軍への物資輸送を断固、阻止し、ロンメ
ル軍団を背後から支援すべきでした(場合によっ
ては、軽空母あたりを紅海に入れ、英軍基地を空
爆することも有りだった? もし、そんなことが
起こったら、英軍は大パニックに陥り、ロンメル
軍の士気は大いに上がったことでしょう)。しか
し、日本は何もせず、英米輸送隊はフリーパスで
モントゴメリー軍への支給を続け、ロンメル軍は
敗退に追い込まれました。結果的に、イタリアの
早期降伏へと繋がります。

<勝機3>スターリングラード攻防戦こそは、第
二次大戦の帰趨を分けた大決戦でした。
この局面では、ソ連への物資揚陸地、イランの軍
事施設を叩くことこそが肝要でした。勿論、米国
と大衝突しますが、この地は、アメリカからは遙
か遠隔の地であり、制空権を握る日本海軍との戦
いで、アメリカの勝ち目はありません。膨大な物
資がソ連に届かなければ、幾ら、シベリア軍団を
スターリングラードに投入しようとも、ソ連の敗
退は自ずと明らかです(貧弱な装備のままでは、
優秀なドイツ機甲化師団に適いません)。
日本は悠々と、イラン陸揚げを阻止出来たのに、
ここでも何もせず、結果的に、独伊を見殺しにし
たのも同然です。

<勝機1.2.3>を俯瞰すれば、本当に、日本
は、『為すべき事は全くせず、どうでも良い、ツ
マラナイ事には全力注入』と言う愚かさです。改
めて、勝てる戦争を自ら毀損し破滅していった、
とも思えます。『度し難し』(救いがたい)との
仏教用語は、正に日本の戦争指導者にこそ相応し
い、と言えるでしょう! 誠に情けないこと限り
なし、です(>_<) 
                 <続く>