アスカのブログ!

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『朽ち果てた先祖墓所(;_;) 初墓参の記』

2014-02-24 18:53:45 | 日記

 

『最近、アマゾンで「フィルム スキャナー」な
るものを求めました(送料共5,980円)。面白
いように、古いネガ写真をPCに取り込め、とっ
ても便利です(^-^) 
初めて先祖の墓に詣でた時のネガが見つかりまし
たので、早速、2012年09月07日付け、「陰徳あれ
ば陽報あり」より、木脇の墓に関する部分を抜き
出し、加筆修正のうえ改めてここにアップ致しま
す』。

祖母の話によりますと、代々医系の木脇一族は
『 家訓 』として、とにかく、【 医は仁術 】
を実践し、善行・積善に努めたそうです。
祖母が父の木脇良(つまり、私の曾祖父)に連れ
られ県内を歩くと、文節様(曾々祖父。戒名は
『法雲院文翁道節居士』)の孫が来た、と各地で
大歓迎された事を、つい昨日のように語ってくれ
たものです。木脇文節の墓は何故か、日向市細島
と宮崎市佐土原の2カ所にあります。
大学1年の夏、ひとりで初めて、夢にまで見た母
方の故地・宮崎に赴き、祖母の細々とした記憶を
頼りに、やっとの思いで2つの墓所を探し当てま
した。写真にあるように細島の文節の墓は、墓石
の一部が欠けており、佐土原の墓は草むらの中に
打ち捨てられておりました(*_*) 

昼の細島に続き夕刻は、佐土原の、既に廃寺とな
った墓地に踏み込みましたが、背丈ほどの夏草が
ボ~ボ~と繁り、どこが道やら墓石やら分からず
じまいの荒れようでした。
クモの巣やヤブ蚊と戦い、倒れた墓石を踏み超え
ながら(踏んで初めて墓石と分かる)しばらく進
みますと、一番奥の方、夏草の頭越しに、スック
と起立する大きな石碑が見えて参りました。
これが子供の時から聞かされていた、懐かしい先
祖の墓に違いないと思った瞬間、まるで、「そう
だよ!」 と言わんばかりに、丸く大きな真紅の
夕陽が、この墓石をバァ~! と朱色に照らし始
めたのです(この感動は今でも忘れられません)。
何れも、苔むし倒れ朽ち果て夏草に覆われた、
文節たち祖先の墓石と初めて対面した際は、線香
の煙と共に哀れを催し、般若心経を唱えながらも、
しばしの落涙を留めることは出来ませんでした
<まさに、「夏草やツワモノどもの夢の後」の情
景>。と同時に、俺は木脇の一員なのだ、との強
い自覚が沸々と湧いて来たのも確かです。 

写真1枚目「先祖代々之墓」の左脇にあるのが文
節の墓です。高さは約1m程あるので、「先祖代
々」の石碑は優に3mは超えるでしょうか? と
にかく圧倒されるほどの巨大さでした。
でも、最早、この光景を目にすることはありませ
ん。25年ほど前、遠縁の爺さんが、この有様は
忍びない、と供養のうえ、撤去してしまったから
です。
木脇の偉功の残り香を伝える物は、もう、この写
真しか無い上に、その木脇氏も父系はとうの昔に
絶家し、母系の私を以って、実質、オシマイと相
成ります(*_*) <偉功とはオコガマシイですが、
木脇良は、日本に博士号が制定(明治20年)さ
れる10年前に、ドイツで医学博士号(ライプチ
ヒ医大)を授与されましたので、一応、日本初の
博士と言うことで・・・(汗!)>

2枚目は、細島の文節の墓。
3枚目は、木脇城跡


『冬富士で【九九九死に一生】を得た!』(下)<遺書>

2014-02-23 17:50:53 | 日記
その後の冬富士は、浪人時代に1度、大学1年次に1度。無論、
3度目以降は本格的革製登山靴、ピッケル、8本爪の冬用アイゼ
ンを装備です<でも、日比谷図書館で、操作法を読むだけの相変
わらずの素人ぶりですが(~_~;) >。 しかし、どちらも、悪天
候や高山病に阻まれ登頂できずじまいでした(*_*) 
浪人時代には、早朝、家を出るとき、何時ものように母が見送りの
ため起きており、その際、「机の中に手紙を入れてあるから」と告げ
ますと、一言、「行かないでおくれ」と申しました。しかし、親の言うこ
となど聞かない私の性格を知っており、そのまま黙って送り出してく
れました。
手紙とは、もちろん【遺書】です。「もし、遭難しても、決して救助活
動などしないで欲しい(なぜなら、救援作業に莫大な費用がかか
り、家が破産してしまうから)」 と言うことを書いていたと思います。
私は、何故、こんな事を続けるのかと言えば、子供の時から意志
薄弱で<未だに(*_*) >、その上、ひどいドモリでした。何かの本
で、精神を鍛えれば治ると知り、それやこれやで以降、冬富士始
め、色々な山を単独行したわけです(北岳だけは友人と)。そのお
陰かどうかは分かりませんが、ドモリに関してはすっかり治ってお
りました(^-^)
それどころか、唯今は全くのおしゃべりです(爆)

そして最後の冬富士は、大学3年の3月。この時の私は運動部
(空手部)や鎌倉の禅寺で鍛えられていたためか(汗!)、気力・
体力とも一番充実しており、快晴の中、先頭きって快調に登頂し
ておりました。
あとわずかと言う、頂上直下の本8合目に着いたとき、下の方から
「助けてくださ~い!」と私を呼ぶ声があり、何事かと8合目まで降
りますと、二人ずれの一人が足を骨折して動けない、と言うのです。
やむなく、5年ぶりの頂上を諦め、彼を救助することにし、次々と登
って来る人に声をかけ、15名ほどが救助に協力してくれることに
なりました。
その間、骨折者の友人が、スノーボート(ボードではありません)
を取りに5合目佐藤小屋に向かっておりました。しかし、何時間待
っても音沙汰がなく(便利な携帯なぞ無く)、どうしたのだろうと私も
降りていきますと、その人は6合目でスノーボートを背負いながら
ヘタばっておりました。
そこで私と変わりましが、今のような軽い炭素繊維製ではなく、その
重いこと重いこと! ボートを横にして背負うのですが、強風にあお
られフラフラし、後ろから、「すいません、すいません」の声を聞きなが
ら、空気の薄い8合目に担ぎ上げたときは、私の肉体までもがフラ
フラになりました(苦笑)
スノーボートに骨折者を乗せ、15名程が後ろからロープを引っ張
りながら8合目より直接、吉田大沢を降りることになりました。
下って直ぐに、人が倒れておりました。そこには手足が操り人形のよ
うにバラバラの方を向き、頭はパックリと割れ脳みそが出ておりました。
脈を取ると、無論ありませんでしたが、まだ生暖かでした。と言うこと
は、滑落直後とわかります。そして、顔を見た瞬間、愕然としました。
何と!、前夜、佐藤小屋で隣に寝ていた人で、しばらくオシャベリも
していた人物だったのです! 改めて、冬富士の恐ろしさを確認す
るとともに、人の運命の不思議さも思い知らされました(このときの
富士山も、第2回ほどではありませんが、荒れ気味で、数名は死ん
だはずです)。

先ず、生きている人の救助を優先せねばならず、遺体はそのままに
し(山梨県警により、翌日収容されたそうです)、全員、身を引き
締めて下りました。しかし、氷雪の急斜面でのスノーボートは想像
以上に重く(こんな経験は、全員初めて)、皆、ノケ反りながら歯
を食いしばって頑張り、やっとの思いで、無事、5合目小屋にたどり
着きました。 
その中の一人から「アスカさん大丈夫ですか? 顔色が真っ青です
よ」 と言われましたが、正直、精も根も尽き果てた! とはこのこと
でしょう。 そこで一服後、皆と別れ、又、ひとり疲れた体にむち打ち
ながらトボトボと暗闇の道を富士吉田駅まで歩いて行きました。
その何と言う苦しかったこと! 
後日、骨折者から感謝の手紙が届き、残念ながら骨折した足は凍
傷のため切断、とありました。でも生きられて本当に嬉しい! ともあ
りました(^-^) 

結局、私の冬富士単独登頂は、5度のうち、頂上に着いたのは高
校時代の2度だけとなります。でも目的が、精神力を鍛えるための
登山でしたので、ワタシ的には、これで良しと致します(((^-^)))

以上で、冬富士単独登頂話を全て終わりと致します。
【九死に一生】でなく、【九九九死に一生】と書いた意味をご理解下
されば幸いです。


<3年ほど前、何十年ぶりかで初めての夏富士登山を行いました
(大阪からですので、富士宮ルート)。ご来光にも恵まれ、大変
 快適でした。機会があれば、又、夏富士を登りたいと思います>

 <凜とした明治の祖母>

2014-02-22 15:17:08 | 日記




【 母方の祖母の写真をご披露します^^; 

この際ついでに、2013年03月26日付け『華族女学
校&坊や&小せがれ』の中から祖母に関する部分
を抜き出し、少し加筆のうえアップすることに致
します 】

祖母には11人の孫がいます。その中で、何故か、
ひとり 私だけがとても可愛がられました。又、
ずいぶんと躾けられ、 教え諭してもくれました。
ものごころついてから、祖母が亡くなるまで、私
のことを「坊や!」 と呼んでおりました(汗!)
年に4~5回ほど叔父の家から我が家に来るとき
は(各、1ヶ月ほど滞在)、お土産として、多く
の伝記物や偉人伝を持参してくれました。いつも
一緒に寝ており、私が眠りに入るまで、それはそ
れは沢山の寝物語をしてくれたものです。
熱心な信心家でもあり、春夏秋冬やすむことなく、
毎朝5時になると、私の脇でピタッ! と正座し
(無論、目覚まし時計や冷暖房などありません。
祖母に限らず、明治の女性は本当に意志堅固と思
います)、同じお祈りを30分ほど唱えておりま
した。
内容は 『坊やは神の子ホトケの子、いつもお父
さんお母さんに孝行し、世のため人のため、ムニ
ャムニャムニャ・・・』 と言うもので、子供な
がらに、いつの間にか頭に刷り込まれてしまいま
した(笑)<三つ子の魂 百までも、かな?> 

神の子ウンヌンはおとぎ話としても、この世では
随分と辛い体験(修行?)をさせられてしまった
のは確かです(苦笑)。ただ私が、未だに 『志』
モドキを失わないのは、この祖母の薫陶のお陰と
思っております【おバアちゃん 本当に有り難う!  
何も恩返しできず、ホントにごめんなさい! グシ
ュン (;_;) 】。
昔、祖母に、前回の富士登山で記した 「お守り」
の話をした際は、我がことのように喜んでくれた
のを思い出します。88才で逝った祖母の命日は、
奇しくも私の誕生日でした。何か過去世から続く、
天命のようなものを感じられずにはおれません。
最近、とみに残念に思うことは、この祖母の生き
様を語り継ぐ子供(自分の子に限らず)が、私に
はいないことです(*_*) 

<写真説明:私は、如何にも明治女性に相応しい、
 この凜とした祖母(60代)の写真が大好きで
 す。日頃ダラけている私も、この写真を見るた
 びに、何かシャキッ! とする思いです。
 2枚目は80歳の祖母>


『冬富士で【九九九死に一生】を得た!』 (中) <走馬燈>

2014-02-21 17:22:57 | 日記



突風が容赦なく襲いかかる中、ようやく吉田大沢
を抜け尾根に取り付く事が出来ました。その一瞬
の安堵感による気の緩みか、足を滑らし、ついに
恐れていた滑落を始めてしまいました。それは冬
山 超初心者の私ですら、「ああ、俺の短い人生も
ここで終わるのだ!」 と、直ちに理解できるもの
でした。
と、その瞬間、突如、頭の中を、グルグルぐる!
っと、16年の人生で出会った懐かしい人々、思い
出深い経験などが回り始めたでは有りませんか!? 
これが、世に言う、死に直面した際に起こると言
われる 『走馬燈のように!』 現象なのか、と分
かった時、幸運にも滑落は止まってくれたのです
(知らないうちに、4本爪のアイゼンが、氷の斜
面を必死に蹴っていたようです)。 その際、右
手は無意識にズボンのポケットをシッカリと握り
しめておりました。そこには、 敬愛してやまな
い祖母からもらった「お守り」があったのです。

恐る恐る立ち上がり、その後も氷雪の尾根を慎重
にヘバりつくように一歩一歩登りつめて行きまし
た。途中、オシッコをするときなどは、右手・両
足の3点で斜面を支え、うつ伏しながらしたもの
です。不用意に立ち止まったまますれば、アッと
いう間に大沢に吹き飛ばされてしまう危険がある
からです。また飲食に適した場所なぞあろう筈も
無く、ほとんど飲まず食わずでした。

渦巻き逆巻き荒れ狂う烈風の中、死の恐怖と戦い
ながら、何度も何度も 「もはや生きては帰れな
い、俺はここで死ぬのだろう!?」と、不思議と
覚悟は出来ておりました。
ただ、「天が我を必要とするなら、俺は必ず生き
て帰れる。だが、天が必要としないなら、間違い
なくここで死ぬ!」 とも思っておりました<こ
の項の下書き中、まざまざと当時の厳しい状況を
思い出し、何故か、クックック!と、しばしの嗚
咽を禁ずることは出来ませんでした(*_*) >。
標高が上がるにつれ足元の氷も堅さを増し、いち
いち蹴り込まないとアイゼンが食い込まず、その
ため体力も相当 消耗しておりました。

登頂を始めて6時間ばかり、昼12時頃、フラフラ
になりながらヤットの思いで頂上の白山岳に辿り
着きました。
そこの東屋(あずまや)には、二人の慶大山岳部
の山男がおりました。彼等と目が合ったとき、ま
るで幽霊でも見たかのように、驚きのマナコで暫
し私を見つめておりました。
そして、「君! どこから来たの?」 「ハイ、こ
の尾根を登ってきました」、と応えると、改めて
「え~ホント! この悪天候の中をピッケルも無
く、屏風尾根を!?」 と、再び信じられないもの
を見たかのように、唖然としておりました(私の
知る限り、この日、屏風尾根を登った人は誰もお
りません)。

東屋で、ようやく昼食にありつき、その際、ミカ
ンの缶詰は半分凍ってガサガサと音を立て、水筒
もほとんど氷状態でした(この時、手足の半分も
白くなり、ガチガチの凍傷にかかっておりました。
有り難いことに、後遺症などはありませんが。で
も、危ないところでした)。
下山を始める彼等に同行を願い出ると快諾され、
まずは一安心と言うところです(こんな心強いこ
とはありません)。 吉田口頂上を経由しての下山
中(本来、このコースを往復の予定だった)、彼
等は「あのときは子供が突如、湧いてきたかのよ
うに現れたので、本当にビックリしたよ!」と語
っておりました。私は童顔のせいか、初め小学生
に見られてしまったようです(苦笑) 
8合目で、完全装備の彼等は吉田大沢を下るという
ので、ピッケルのない私は同道できるワケも無く、
ここで別れました。幸い、この頃には悪天候も大
分治まって来ており、怖い目に遭う事もなく、無
事、5合目の森林限界地点まで戻りました<もし、
当時の二人のお方が、縁あってこのブログをお目
にした際は、改めて御礼申し上げますm(_ _)m >。

重いリュックの肩への食い込みに耐えながら、そ
れより、暗闇の中をひとりトボトボと5~6時間歩
き、富士吉田駅(今は富士山駅と改名)に到着し
ました(冬期は当然、バスなど有りませんので。
駅から1合目まで約12km)。 夜遅く、ようよう帰
宅でき、全身をドット疲れが襲ってきたのを、今
さらのように覚えています。

翌朝の新聞を見て、私は卒倒しました! ナント、
安全と言われる、冬富士定番コースである吉田口
ルートで、登山者が3名も死んでいたのです!
(マスコミの大ニュースとなりました)。
軽装備で熟達者コースを登った私が助かり、安全
なコースを取った冬山完全装備の山男が、突風に
飛ばされ3名も滑落死した! 
この、あり得ないほどの現実! 
この時ほど、生かされてしまった運命的自己につ
いて、つくづくと考えさせられたことはありませ
ん。精神世界や不思議現象に興味を持ったのはこ
の時からです。
(続く)


<今月14~15日にかけ、山梨県全域に大雪が
 襲い、富士山でも遭難があり、救援隊が向かっ
 たそうです。その場所とは、何と1合目! 以
 下は、その際ネットから拾った声です>
・冬富士はプロの登山家でも侮れない恐ろしさだ
 と聞いたぞ!
・冬の富士山は死の山 !
・独立峰だから冬の期間は相当厳しい状況になり、
 ヒマラヤのチョモランマとかに登る隊が訓練に
 行くとか聞くよ。強風で吹き飛ばされて亡くな
 った事故とかもあったし。


<添付写真説明 1枚目。コース図(およそこん
 な感じ)>
A:赤丸点→大沢の真ん中で、屏風尾根コースを
  決断した所。黄色丸点は滑落場所。
B:屏風尾根コース
C:白山岳頂上
D:吉田口頂上
E:吉田口ルート
F:吉田大沢

<添付写真説明 2枚目>
当日は、写真のように、山も里も一面の銀世界で
した。