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【日独伊の楽勝!⑧ <海軍戦力比!>】

2018-03-30 20:33:40 | 日記

前回、イギリスが、「強大な日本帝国(事実です
よ!)に宣戦布告などするでしょうか?」と書き
ましたが、ここで、太平洋・インド洋に於ける、
開戦時の日米英の海軍戦力を見てみましょう。

海軍戦力(太平洋配備、1941年時点) 
        日本  米国  英国
戦艦      11    9    2 
大型航空母艦  8    3    0 
重・軽巡洋艦  41   24    8 
駆逐艦     129   80    13 
潜水艦     67   56    0 
です。
如何でしょう? 
それが、真珠湾攻撃で、米戦艦8隻が沈没。2日
後には、英戦艦2隻撃沈で、大型艦で比較すると
ザッと日本は、米英の3~5倍の戦力! 正に、
両海洋を睥睨(ヘイゲイ)するほどの戦力と言え
るでしょう!  
それだけで無く、武器は優秀<世界最大の18イン
チ砲や16インチ砲搭載艦を多数保有、酸素魚雷、
戦闘機・艦爆機・雷撃機など。しかし、暗号解読
された事と電探(レーダー)配備遅れは最大の痛
手>、兵は勤勉なうえ不惜身命<本当に、現場
(前線)は最強>。練度も極上(世界一と言って
も過言ではありません。この練度は今日の自衛隊
にも引き継がれています。世界の軍隊が認める所
です)。軍歌に『月月火水木金金』がありますが,
休日返上(土日が無い)で猛訓練を行っていたサ
マを表しています。
この戦力なら、連合艦隊を太平洋・インド洋と二
つに分けても、お釣りが来るほど圧倒的です(実
際、セイロン沖海戦でイギリスを破ってからは、
英東洋艦隊は、アフリカ東岸のマダカスカルやケ
ニヤ基地に逼塞してしまいます。日本が負け戦に
なってから、また出てきた次第)。にも関わらず,
何故、これほど惨めな敗戦を迎えてしまったので
しょう!? まともに考えれば真実、信じられな
い程です。
偏(ひとえ)に、軍部及び戦争指導部の愚鈍さ! 
に尽きるのですが、加えて、政界・軍上層部に配
置された敵スパイ網の巧妙な存在を無視出来ませ
ん。結局、日本は、隠れたスパイの思惑通りに誘
導され、次々と泥縄式の戦術を繰り出し、当然の
ように自滅して行った次第です(防諜の貧弱さに
負けた!)。

⑥に、「多数の敵国スパイ工作(ソ連のコミンテ
ルン等)により、日本の上層部が、かなり汚染さ
れてしまったことに尽きる」と書きました。1935
年第七回コミンテルン(国際共産主義組織)大会
でのスターリン演説は、
「ドイツと日本を暴走させよ! しかし、その矛先
を祖国ロシアに向けさせてはならぬ。ドイツの矛
先はフランスと英国へ、日本の矛先は蒋介石の中
国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと
日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだ
からせよ。日、独の敗北は必至である。そこで、
ドイツと日本が荒らしまわって荒廃した地域、つ
まり、疲弊した日・独両国をそっくり共産主義陣
営にいただくのだ」(Wikiより)と、言われてい
ます。事実かどうかは分かりませんが(論争中),
事態は、ホボこの様に展開していったのは間違い
ありません。また、コミンテルンのスパイ網は、
ルーズベルトの周辺にもハワされていたのですか
ら<ソ連のスパイであったハリー・ホワイトが、
ルーズベルト政権下で財務次官補として、ハル・
ノートの草案作成に携わり、「それは日本に開戦
を決意させた」、と>、敵ながら見事としか言い
ようがありません! 
日露戦役は明石元二郎大佐などが、欧州で八面六
臂のスパイ活動を繰り広げ(工作資金は今のお金
で、400億円~1兆円とか?)、大国ロシアに勝て
ました。果たして今次大戦では、一体、日本は世
界でどのような諜報活動を行っていたのでしょう
か? まず、功績を聞いたことがありませんので
殆ど皆無に近いと思います(惨敗です!)。これ
には、明石大佐など先人達は草場の陰で、サゾ、
嘆いているに違いありません。
繰り返して結論を述べれば、日本は、防諜・諜報
活動に弱く、折角の大戦力を所持しながらも(大
和など、折角の18インチ砲を一発も撃っていない
のでは無いか? 馬鹿!としか、言いようがあり
ません)、生かすこと無く敗れ去ったと言う事で
しょう(*_*)
                 <続く> 


【日独伊の楽勝!⑦<超新兵器を持つ日本!>】

2018-03-16 20:15:39 | 日記

日本が対米戦争を始めたのは、ABCD(米・英
・支・蘭)包囲網での経済封鎖(石油・クズ鉄な
どの禁輸)と、ハル・ノート<満州・支那・仏印
からの全面撤退、日独伊三国同盟破棄、汪兆銘政
権(日本の傀儡)切り捨て等、とても日本が飲め
ない要求>により、追い詰められた為と言われて
いますが、実際には、この間も東条内閣は必死に
対米戦争回避に動いていたワケです(開戦にあた
り、東条は「陛下に申し訳ない」と泣き崩れたと
か無いとか?)。

ここで、ABCDと言いますが、C(支那、中国)
D(蘭、オランダ)は、あって無きが如し。B
(英国)も欧州でドイツに押しまくられている現
状からは、ほとんど考慮の必要は無し。結局、A
の米国一国な訳です。
当時全国民がこぞって、戦争絶対反対で固まって
いた米国に、宣戦布告無き攻撃を加えてしまい、
格好の参戦理由(リメンバー・パールハーバー)
を与えてしまったのですから、日本は本当に【ア
フォ!】としか言いようがありません。前回、記
したように、日本上層部に、ビッシリと配置され
たスパイ網の結果です(これにより、東条内閣も
誤判断に引きずり込まれた!)。
独伊は、真珠湾攻撃を知ってサゾ仰天したことで
しょう! 何しろ、アメリカという強大な国が、
相手側に付くわけですから(恐らく、日本の『馬
鹿がぁ~!』と絶叫したに相違ありません)。仕
方なく日本に追随して対米宣戦布告するハメに。
ここに全世界を巻き込んだ第二次世界大戦がスタ
ートするわけです。

私見として、日本は、「ハル・ノート」など、頭
から無視すれば良かったのです。この間、石油を
求めて、チャッチャカ・チャッチャカ、あるいは
粛々と、インドネシア方面に軍を進めれば良いの
です(ソ連への牽制は忘れずに)。
当然、英蘭からは、抗議と、場合によっては宣戦
布告を受けるかも知れません。でも、宣戦布告す
るのは、日本では無く英・蘭(既に本国はドイツ
により消失)ほうで、果たして英国が、ドイツと
死闘を演じている最中、更に、強大な大日本帝国
(繰り返しますが、事実ですよ!)に宣戦布告な
どするでしょうか? されたらされたで、遠慮無
く堂々と戦端を開けば良いだけの話です。 
米国民にとっても、聞いたことも無いであろうイ
ンドネシアの石油地帯の紛争など、北半球の裏側
の出来事で、到底、日本への宣戦布告は有り得な
い(日本への布告は、又、独・伊への布告でもあ
る)。本当に、なんで、こんな基本中の基本が理
解出来なかったのだろうと、今でも不思議です。
本来「ハル・ノート」とは、その程度のものにも
関わらず、首脳部は『カァ~!』と頭に血が上り,
過大視すると共に短絡思考に落ち行った。つまり
は戦争指導層の胆力の無さ、及び、戦略と全般予
測が存在しなかった<『カァ~!』の都度、泥縄
の戦術を立案?>、即ち、ルーズベルトやチャー
チルのように、シッカリと戦略を構築する英雄が,
日本はいなかった、と言う迄のお話しでしょう。

緒戦に於ける日米戦ですが、ここにルーズベルト
の誤算がありました。
日本側同調者との共同作戦により、見事に日本は
ハメられ、真珠湾攻撃をしてしまいました(この
時、ルーズベルトやチャーチルは、側近達と祝宴
の大歓声をあげたと言われています)。
この後、①の年表にあるように、戦線は移行・拡
大していくわけですが、連合国側の大誤算は、思
いも寄らない日本軍の強さでした。それは、凡そ
想像を絶する程と言っても過言ではありません。
海軍ひとつとっても、本当に向かうところ敵無し
で、正に破竹の勢い! 皆様はこれを可能にした
のは、一体何だとお思いでしょうか? 
答えは、イチ戦闘機に過ぎない【零戦(艦上戦闘
機)】の存在なのです(陸軍も名機【隼:ハヤブ
サ】あり)。
開戦から1~2年は、それこそ、優秀なパイロッ
トと相俟って全くの無敵状態でした<ゼロ戦1機
で、数機の敵機を撃墜したと言われるほどです。
重い爆弾類を積む艦攻機など、ゼロ戦にとって、
格好の餌食です。アメリカ空軍では、1機同士の
戦い(空中戦:ドックファイト)は絶対避けるよ
うに、とのお触れも出る始末です>。
例えば、空母同士の決戦を考えてみましょう。
日米共に、艦上爆撃機(爆弾)・雷撃機(魚雷)
が敵空母に襲いかかります。これらを守る為、敵
空母上空まで付いて行くのが支援戦闘機としての
『ゼロ戦』です(アメリカは、グラマンF4Fな
ど)。又、味方空母にも敵機が襲いかかります。
これから守るのも、掩上戦闘機<掩護(えんご)や
空中哨戒を行う航空機>としての『ゼロ戦』なの
です。敵空母上でも味方空母上でも、敵、掩護戦
闘機をバタバタ打ち落としたのが『ゼロ戦』と言
う図式です。
これが続けばどうなるかと言えば、艦攻機による
敵空母攻撃が容易となり、味方空母は限りなく安
泰というワケなのです。つまりは、『ゼロ戦』の
お陰で、制空権を取れるわけで、結果、制海権も
モノに出来る次第。太平洋での海洋決戦で、制海
権を握ることは、もう、勝ったも同然です! よ
って空母部隊を擁した、大和・武蔵(他、戦艦や
巡洋艦)による、アメリカ西海岸(サンディエゴ
軍港も含む)への18インチ砲による、一斉艦砲
射撃や空爆、他にも、パナマ運河破壊作戦も考え
られます。恐らく自国が、建国以来、一度も戦場
となったことの無い米国民には、パニックが襲う
事でしょう! 西部から東部への避難や、日本と
の講和を求める意見も出てくるかも知れません。
実際、伊号潜水艦による、ショボくれた砲撃が3
度ほど行われ、それ際も、パニックを引き起こし
たくらいです→日系人、強制隔離の一因に。
その後、幾らでも有利な和平交渉が出来たに違い
ありません! この『ゼロ戦』の存在を、ルーズ
ベルトは把握していなかった風なのです<開戦ま
で、日本も必死に秘匿したタマモノ(例えば国民
は、大和・武蔵の存在を戦後、初めて知った程で
す)。故に開戦後、零戦が颯爽と登場した際は、
米英に恐慌が走ったそうな>。この存在(【ゼロ
戦】と言う超新兵器)に気づかなかった事は、ル
ーズベルト(アメリカ諜報網)の大失策と言える
でしょう。
ただ折角、最優秀な戦闘機を擁しながらも、馬鹿
げた運用により(例えば⑤に記したように、往復
2000kmも一人で飛ばしたり)、その能力を生か
し切れなかった事は、返す返すも残念なことでは
ありました。

陸軍に関しては、1939年5月に有名なノモンハン
事件がソ連との間で勃発しています(この時、辻
政信参謀は、強力な敵戦車に対して、火炎瓶など
を持たせた日本兵に肉弾攻撃させています。本当
に酷い話です)。戦後も60年近くは、日本軍ボロ
負けと喧伝されていましたが、ソ連が崩壊し、ロ
シアとなってから、秘匿文書が公開され、ノモン
ハン事件のソ連側全貌が明かされました。
結果、ソ連側も多大な損害を出しており、判定は
5分5分、死傷者数ではソ連側の方が多かった為、
実質、日本の勝ちとの話も出ています。
陸上戦では、明らかに日本の負けなのに、何故、
5分5分かと言えば、優秀な航空機(97式戦闘機)
により、制空権を日本側が握っていたからと言わ
れています。
日本の強さを改めて知ったスターリンは、関特演
以降も、スパイ・ゾルゲの情報で確信を得る迄、
シベリア軍団を欧州に移動出来ませんでした。陸
軍も負けたと思っていたので、同様、北進論(独
伊が渇望した、満州からのソ連侵攻策)を躊躇さ
せてしまった面もあるみたいです。
この件は、又、後述してみます。
                 <続く>


【日独伊の楽勝!⑥ <上層部にスパイが!>】

2018-03-08 22:26:47 | 日記

前回、兵站思想の欠如が日本敗退の理由と述べま
したが、要は、特に海軍には、兵站、通商破壊、
拠点撃破<基地・港湾施設・航空施設破壊(航空
機・滑走路など)、備蓄弾薬・燃料タンク破壊、
兵舎破壊・・・>、と言う思想が著しく欠けてい
たのです。求めていたのは艦隊決戦至上主義で
(何か、武士道精神のマイナス面が出ているみた
い)、敵空母や戦艦の撃破のみのようでした。実
際、そのほうが、政府・海軍内でも、国民向けに
も大変受けが良かったからなのでしょう(輸送船
を攻撃しても殆ど評価は得られなかった)。
しかし、『勝つ』と言う視点からは、徹底して、
通商破壊、拠点撃破こそが重要であるのは、常識
過ぎることです。艦隊決戦など二の次でしょう! 
何しろ自国の軍港が機能しなければ、燃料・弾薬
の補給すら出来ないのですから。拠点壊滅して後,
余裕を持って敵艦隊と対峙すれば良いのです。

当然のように、南雲指揮下の機動部隊は、パール
ハーバーを襲いましたが、目指す敵空母2隻は無
く(スパイの通報により、事前に湾外に避難して
いた)、ルーズベルトの策謀により、湾港にずら
りと並べられたオンボロ戦艦を含む8隻を撃沈し
て、意気揚々と引き上げてしまう!(実際、攻撃
搭乗員や参謀からの港湾施設再攻撃を具申される
も、南雲は無視してサッサと日本に帰投)。
肝心要の港湾施設は無傷のままでした。もし戦艦
など無視して、真珠湾の軍港施設を徹底して破壊
しておけば、米海軍は西海岸のサンディエゴ軍港
までの後退を余儀なくされ、少なくとも半年間、
太平洋での活動が大幅制限されたと言われるだけ
に、その後の珊瑚海海戦:1942年5月8日(史上初
の航空母艦同士の決戦)で、引き分ける事も無か
ったし、ミッドウエーで大敗北を喫する事も無か
った筈です。又、その後のガダルカナルでの悲惨
な敗退やアッツ島の玉砕もなかったでしょう。
戦争屋ルーズベルトが折角、日本側内通者と仕組
んだ、精緻な日本軍誘い込みシナリオも、真珠湾
施設破壊なら緒戦で破綻してしまった次第。結果
的に、いわゆる太平洋(戦争)は米国にトテツモ
ナイ重荷となってノシ掛かかってきた訳です。
馬鹿げた真珠湾攻撃を、もし、評価出来るとすれ
ば、港湾施設破壊の一点のみでした<でも、絶好
の機会なのにしなかった(>_<) >。

17年6月のミッドウエー海戦で虎の子の空母4隻
と優秀なパイロットを多数失い、制空権を奪わ
れ、徐々に衰退の道を歩み始めたのはご承知の通
りです。
何故、こんな事になってしまったのかと言えば、
戦争前からの多数の敵国スパイ工作(ソ連のコミ
ンテルン等)により、日本の上層部が(近衛首相
を始め戦争指導部→近衛は昭和20年12月16日、自
殺していますが、あるいは知りすぎた男として消
されたのかも?)、かなり汚染されてしまったこ
とに尽きるのです。
何と言っても、海軍は目も当てられない程の酷さ
で、山本五十六司令長官(*)<アメリカに武官
として赴任中、どうせ、ハニートラップにでも引
っかかったんでしょう>、米内海軍大臣は、ルー
ズベルト同様、フリーメーソンに入会していたの
は真実のようです。山本の作戦行動・足跡を見る
限り、十分に首肯できるところです。米内に関し
ては、阿南陸相が終戦日の自決に当たり、介錯の
副官に向かって「米内を切れ!」との有名な逸話
(?)が残されています。側近の宇垣中将(連合
艦隊参謀長)や栗田中将(**)、野村駐米大使
(海軍大将)も疑わしい限りです。

潮目のミッドウエー海戦では山本は、空母部隊の
遙か後方600kmの所で、大艦船に囲まれ、エアコ
ンの効いた戦艦大和に鎮座し、左ウチワで観戦
(別名、大和ホテルと言う)→つまり、虎の子の
空母を丸裸状態で敵の前線に放置。当然のように
空母を失い大敗北を喫した後は、国での大非難が
恐かったのか、日本に帰らず、そのままトラック
諸島にトンズラ! ミッドウエー島攻略を名目に
した、実質は自国の空母部隊壊滅を狙った、山本
の作戦と睨んでいます(トンズラも含め、スパイ
の面目躍如)。
そう思えば、空母艦上の二度に渡る兵装換装(魚
雷と爆弾の交換)なども良く理解出来ようと言う
ものです。このテンヤワンヤしている最中に、敵
機動部隊に襲われ(運命の5分間と言われる。こ
れとて山本が、敵に暗号で空母位置を知らせた、
又は、偵察機乗員にワザと誤報を打電させた、と
勘ぐれるほどの偶然の5分間です)、これからの
太平洋・インド洋海戦で必須の、虎の子空母4隻,
及び、優秀なパイロット(養成には多大な時間と
コストが掛かります)、航空機を多数失ってしま
いました(山本の罪は正に万死に値する!)。
これでは、陸軍がどんなに頑張っても勝てるわけ
はありません。陸軍にも、怪しげな人物がいます
が、海軍に較べれば、ず~とマシと言うべきでし
ょう。陸海軍の連携は最初から惨憺たる有様で、
これで良くも4年も戦争継続出来たものと感心す
らしてしまいます。
宣戦布告書を、ワザと1時間遅らせたアメリカの
日本大使館員も同罪です。このため、不意打ちを
食らわした卑怯者! との烙印が未だに、日本に
押されています。本来、全員、切腹モノなのに、
不思議なことに戦後、彼等は野村大使始め、外務
省で大出世を遂げています(こんなところにも答
えは出ているようです!)。
                <続く>

(*)ヤコブ モルガン著、『山本五十六は生き
ていた』1994/12月 太陽出版刊 が実に詳しい。

(**)「レイテ湾口 謎の反転」で有名。囮(お
とり)部隊となった小沢艦隊の決死の犠牲の上に,
漸く湾口に辿り着く。折角、戦艦大和(武蔵は途
中沈没)を率いながらも、湾内に蝟集した膨大な
敵輸送船団やマッカーサーを目前に反転、見逃す
ことに! 戦後も死ぬまで口を閉じ真相を明かさ
なかった(→無論、スパイとなれば当然のこと)。
更に、驚くべきは、この事実を共同作戦の陸軍に
は伝えず、そうとは知らない陸軍はレイテ島や、
フィリッピン本島で大敗北を喫するハメに。


【日独伊の楽勝!⑤ <インド洋の重要性>】

2018-03-04 22:11:33 | 日記

欧州戦線に於けるドイツ快進撃を横目に見ての日
米開戦にあたり、本来、日本の主力戦場は、『イ
ンド洋』そのものでした。そんなことは、チョッ
ト地図を見るだけで、中高生にも分かる理屈で、
陸大・海大出身のエリート参謀に分からぬ筈はあ
りません。しかし、そうは成らず、戦線はミッド
ウエー島からソロモン海域(ガダルカナル島)に
移ってしまいました。そのような力学(後述)が
働いたから、としか言いようがありません。
1941.12/10 マレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の
華、戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウエールズ
を轟沈し、英艦隊の主力を撃破!(この報を聞い
て、チャーチル首相は泣き崩れたとか?) 翌年
2/7より、難攻不落と謳われたシンガポール要塞
(守備兵、約13万人)を山下兵団(3.6万)が、
わずか1週間で攻略<同じく、ロンドン亡命中の
仏ドゴール将軍(後の大統領)は日記に、「陥落
は、長い歴史である白人植民地主義の終わりを意
味する」と記述したそうです>。
これで、インド洋方面への海路が開けました。
何故、インド洋が重要か? この海は、連合国側
の主要な兵站ルートの上、主敵、アメリカからは
最も遠隔地だからです。例えば、ここで艦船が損
傷すれば、遠く、ハワイまで修理に戻らねばなり
ません(補給も修理も休養も全て)。実際、珊瑚
海海戦では中破した空母『ヨークタウン』を真珠
湾で緊急修理し、ミッドウエー海戦に投入してい
ます)。もし、海戦が珊瑚海でなく、遠いインド
洋だったなら、『ヨークタウン』が真珠湾に戻れ
たかどうかも分からず(途中には要衝を押さえた
日本軍や連合艦隊が待ち構えているので!)、ミ
ッドウエー海戦に投入など凡そ不可能だったこと
でしょう!(これだけでも、日本がミッドウエー
で勝てた可能性大) 
アメリカにとって、これほど不利な海域もありま
せん(敵の不利な地を戦場とするのは、兵法のイ
ロハだと思いますが・・・)。
アメリカの武器貸与法による、ソ連への支援物資
の上陸地は、イラン(当時、北はソ連軍、南はイ
ギリス軍の進駐を受け、半独立状態)方面が実に
7割を占めています(他、北極海直行コース、ア
リューシャン列島添いにウラジオ陸揚げ)。援蒋
ルートの入口にして、北アフリカ戦線での英国軍
への輸送路(アフリカ東海岸添い→紅海経由→エ
ジプト揚陸)でもあるのです。第二次大戦に於い
て、インド洋が、どれほど重要な海域か、お分か
り頂けたでしょうか? 
4月5~9日にはセイロン(現在はスリランカ)沖
海戦があり、英空母ハーミス他を撃破し、以降、
東洋艦隊はアフリカ東岸のマダカスカル島やケニ
アの港に撤退します。
もし、この時、連合艦隊を二分し、半分(それで
も、もの凄い戦力!)をインド洋に遊弋させ、睨
みをきかせておけば、連合国側は全くのお手上げ
状態で、蒋介石もスターリンも、北アフリカ戦線
の英軍(モントゴメリー将軍)も、み~んな干上
がってしまったわけです。

①で記した、独伊からのヤンヤの参戦要請(シベ
リヤ軍団の満州釘付け策や、欧州戦線への関与、
紅海封鎖など)も良く理解出来ると言うものです
<後日譚として、独伊は当時の情勢から、勝てる
戦争をハナから無視した日本の姿勢を、戦後も長
く恨んでいたそうな。当然でしょう!>。
後のガダルカナルやインパールや、どこもかしこ
もですが、日本軍にはそもそも通商破壊(有名な
のは独、Uボートによる輸送船団攻撃)や兵站
(食糧、補給、整備、修理、管理運用・・・)と
言う概念が著しく欠如しており(代わりに精神力
ばかりが強調されていた)、それは余りに惨めで
寒気がする程です(例えば、日本は輸送船団に少
数の護衛しか付けなかったり。よって米潜水艦の
格好の餌食となりました。反対に、日本の潜水艦
は、大物の空母や戦艦ばかりを狙い、商船には殆
ど無関心でした)。結局、この概念希薄が敗戦に
繋がった、と言っても過言でありません(と、私
は確信しています)。
一例として、もしガダルカナル方面に飛行場を作
るなら、ラバウル基地(南方の最前線で一大拠点)
から凡そ1000km(東京ー屋久島間)のガ島では無
く、中間の500km当たりに飛行場を建設すれば良
かったのです! 
1000kmと言えば、ラバウルから、敵襲を警戒しつ
つ、緊張し放しでの片道2~3時間。そこで(残り
の燃料を計算しつつ)敵と空中戦の死闘を演じ、
又、同じ距離を帰ってくるのですから、ゼロ戦パ
イロットにとって、一体どれほど過酷だったか!
(ここにも兵站概念の無さが露呈しています) 
それが連日の出撃なのです!(*)   
もし中間点なら、余裕を持ってアメリカに対処出
来、負けるはずは無かったのです。何しろ当時、
世界最先端の艦上戦闘機グラマンF4Fですら、
ゼロ戦に全く歯が立たなかったのですから(英、
スピットファイヤーも同じ)。つまり制空権は日
本に有り、このことは、海上決戦に於いても如何
に重要であるか、論を俟ちません。
ガ島がアメリカに奪われたのなら、兵法・兵站の
観点からも、そんな1000kmの先の小島などサッ
サと放棄してしまえば良かったのです!!!
さすれば、日本に有利な海域を選んでアメリカと
闘い、ガ島(餓島)の悲劇など起こりようも無か
った訳です。
                 <続く>

(*)ゼロ戦にトイレはありません。と言うこと
は、用便は機内で済ませます。そのため、命の綱
である落下傘は、実質、トイレ代わりだったとの
こと。又、戦後も暫くはヒロポンという覚醒剤が
流行りました。これは日本軍が開発し、飲むとポ
ンッ! と覚醒するので、常時、パイロットに支
給されたそうです(無論、恐怖心を和らげる為、
特攻隊にも)。