goo blog サービス終了のお知らせ 

アスカのブログ!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

<謹 賀 新 年>

2014-01-01 11:16:42 | 日記
 明けましてお目出度うございますm(__)m

 一昨年11月より、健康的老後人生を目指して(笑)、毎朝、
水シャワー・腕立て・乾布摩擦・室内自転車こぎ、の4点セット
を励行しています<足は第2の心臓とか? このせいか、子供時
代からの冷え性が取れ、足がポカポカしています(^-^) >。
 自他共に認める【意志薄弱】な私としては、「どうせ又、三日坊
主で終わるだろう」と、軽い気持ちで始めたのですが、1年以上も
続いてしまい、我ながらビックリです! 最近は何か「根性」のよう
なものが付いてきたようで、「今頃、根性ついてどうするんだ~!」
と、突っ込まれそうです(爆) 
 でも、それでも良いのです。 私は多分、元気に90以上生き
られると思いますが、こと「志」と異なり、実に不本意な人生を歩ん
でしまい、心中、誠に忸怩(ジクジ)たる思いでおります<生きて
いるのが恥ずかしい(*_*) >。 
 然し、この毎朝の4点セットを続ける限りは、来世、生まれなが
らの、頑張り屋の子供として好スタートを切り(笑)、今度こそ、
「志」を果たし、祖母との約束を成就できると夢想しております
<三界に亘る自因自果>。 
 この観点から、死が私を招くまで(涅槃像に見るように、不幸な
ことではなく、単なる転生に過ぎません)、4点セットを続けていく
つもりです(^_^;)  私の来世<来年ではありません(笑)>はジャ
ンプの世! 現世はステップです(^-^) 

それでは本年もどうぞ良いお年をお迎えくさい。 2014年元旦

---------------------------------------------------------
 (ついでに)
*ナマコの粉末で、すべての癌の95%は治る?(生体を延ばす
 癌は良き友!)
*エイズと言う病気は存在しない?
*フッ素や人工甘味料(アスパルテーム・アセスルファムK、等)
 は脳細胞を致命的に損傷?
*長生きしたけりゃ、自然塩を1日20g以上、シッカリ摂取!
*朝・晩、右手でお腹を時計回りに100回、左手で反対回り
 に50回。若返り・美肌のうえ、1週間で便秘が治る人も?
*中国には、既に漢民族は存在しない?
  
   各位 
                     アスカ、拝 

『冬富士で【九九九死に一生】を得た!』 (上)

2013-12-30 23:04:59 | 日記


高校2年時、11月の最終土・日にかけ、2度目の冬富士単独登頂を行いま
した。その1週間前、初めての冬富士登山は穏やかな快晴に恵まれ、キャラバ
ンシューズに4本爪の軽アイゼン(主に雪渓用)、ピッケル無しの夏用登山スタ
イルでも、快適に登頂できました。この2度目は、厳冬期直前の冬富士と言うこ
とで、多くの登山者で賑わっておりました。私も、第1回と同じ夏用軽装備の元
<と言うより、冬用登山装備のことなど何も知らなかった(大汗!)>、ルンルン
気分で登頂したわけです。ルートは前回同様、冬富士登山の定番である吉田口
ルート(夏も大賑いの比較的安全なコース)。
前夜、森林限界にある5合目小屋で一泊後、早朝、快晴の元、登頂を開始。
しばらく進むと、目の前の吉田大沢を10名ほどのグループが、真っ直ぐ山頂方向
に直登していたのを発見しました。私も、「なるほど、このコースなら吉田口ルート
への近道だ」と判断し、100mほど前を行く、彼らの後を追った訳です。

ひたすら1時間ばかり直登し、順調に高度を増していたのですが、何と! そこで
彼等はクルッと方向を変え下山を始めたではありませんか! 
冬山完全装備でピシッ!と身を固めた格好いいグループとスレ違いざま、彼等は
一様に怪訝な目で私を眺めながら、そのまま何も言わずに降りていきました(後
日わかったことは、彼等は大学の山岳部で、冬山訓練をしていたのです)。
このとき、私も初めてオカシイ! と胸騒ぎがし、元の吉田口ルートに行く道に引
き返そうと振り返りました。 

ガ~ン! ガ~~ン!! ガァ~~~ン!!!
私は現実を見たのです! そして、私の目前の運命も直ちに悟ったのです!!!
ソノあまりの氷の急斜面を改めて直視し、ピッケルも無く、4本爪アイゼンしか持
たない16歳の私の体は硬直し、足は恐怖の余り立ちすくんでしまいました!
折しも、早朝の好天は一転し、強風が吹き始めて来たのです(実は、この時の富
士山は数日前から全面結氷し、この日も厳冬期同様の悪天候となって、キバをむ
き始めていたのです)。
一木一草も無い、広大な吉田大沢に居続ける危険さは、冬山ど素人の私でも
十二分にわかることでした。
慎重に周囲を見渡すと、左手に吉田口ルート、右手に屏風尾根コース。そして
左へ2/3、右に1/3あたりの大沢の真ん中に私はいたのです。一刻も早く危
ない大沢を抜けるべく、近場の屏風尾根へとコースを取ったのは自然な成り行き
でした。しかし、この屏風尾根こそ、四方八方から烈風・突風が吹きまくり、冬富士
でも熟達者しか挑戦しないコースなどとは、当時、露ほどにも思いませんでした。
この後、地獄の試練が待ち構えていようとは、冬山初心者の私には分かるスベも
ありません!
(続く)

添付写真は、第1回登頂時の、6合目付近です。
この1週間後の2回目ではこの付近も氷雪で覆われた訳です。
(バックに見える雲上の山は、奥秩父連山)


【この1年間、拙いブログをお訪ね下さり深謝いたしますm(__)m 
 それでは、皆様もどうぞ良いお年をお迎え下さい。】
                             2013年12月30日

『母の写真』

2013-09-19 21:33:26 | 日記




どうにも更新が遅れて、我ながら叶いません(*_*) 
またまた延期で恐縮ですが、冬富士話は次回と言うことで、今回、母の
写真話を致します。

母はとにかく写真が嫌いでした。家族にも一切、写真を撮らせませんで
した。ある時、冗談交じりに、「お母さん! 何もないと、葬儀の写真も無
いよ~!」と言いますと、「20才のビワを持った写真(PFに掲載)を使っ
て欲しい」と言われ、仕方なく、実際にも用いたわけです。
先日、久しぶりに、母の遺品を整理していたら、お寺で撮った、東京にい
る初孫との一緒の写真が出てきました。母も、滅多に会えない孫なので
写真を撮らせたのだと思います。改めて、眺めてみますと、20才時とか
なりの時代差があるのですが、それほど変わっていないのには、息子な
がらに驚かされます。
余談ですが、私の若い頃は母ソックリと言われました(その上、童顔)。
高校の修学旅行は北海道一周でしたが、上野駅で解散となり、ホーム
で友達と立ち話していると、「アッ! アスカ君のお母さんが来た!」と言
うのでヒョイと振り返ると、本当に母と家族が迎えのためこちらに向かっ
ておりました。 「良く分かったな~」と言いますと、「アスカ君とそっくりな
んで直ぐ分かったよ」と言われたものです。

「写真の1枚目は、20才から58年後、即ち母78才の写真です。
 働き者で正直、そのうえ本当に優しい母でした<シンミリ!>。
 2枚目は20歳の母」


『因縁のミタマには【カミ】の印がつけてあるぞ』

2013-07-08 16:38:22 | 日記


(今回は都合により、前回予告の「烈風吹きまく冬富士で『九死に一生を
 得た』キョーレツなお話」を変更し、表題に切り替えます)


大本神話においては、東北に引退した神を「国祖ウシトラの金神(国常立
尊)」、同じく、南西に引退した妻神を「ヒツジサルの金神(豊雲野尊)」と
言い、それぞれ、【龍】と【鳳凰】の姿として描かれます。
ご承知のように、私の父は東北・秋田、母は南西・宮崎の出身です。
そして東京で、大霊道霊○術の師範(秋田の祖父の同僚)の引き合わせ
によって、両親が結ばれたわけですが(注1)、兼々(かねがね)、そのよ
うな表面的なことではなく、もっともっと奥深い因縁がある筈と考えており
ました<北と南で、当時でさえ2000km以上も離れており(今なら新幹線
で直ぐですが)、そもそも、東北弁と薩摩弁ではコミュニケーションすらまま
ならないはず。マッ、これは冗談ですが(笑) >。

ここで、最近、秋田の角昌呉服店の宣伝チラシは【カラーの鳳凰】であっ
たことに改めて気づいたのです(注2)。
考えてみれば、秋田の山深い片田舎の呉服屋フゼイが、宣伝ツールに、
よりによって、カラーの鳳凰を用いたことすら不思議極まります! 
然し、祖父はかなりの超能力の使い手です。神々の世界の造詣も深い訳
で、鳳凰を用いるにあたり、霊能的にも十分な考察を加えたことは間違い
ない所です(その上、この世に偶然は一切ない、のですから)。
つまりは母は、多くの縁談話があったにもかかわらず、父の姿(背景)に
鳳凰の資質を潜在的に感じ取り、その同質性から父を選んだのに相違な
い(霊的に或いは過去世の約束事として)、と自らのヒザを叩いて納得し
た次第です(笑)。 
<尚、父は、東京の慈恵医大病院で亡くなりましたが、その1ヶ月ほど前
から、母は泊まり込みで、ズ~ッと看病しておりました>



サテ、表題です。【日月神示(ひふみ神示) 紫金の巻 第04帖】 には、
「大掃除はげしくなると世界の人民皆、仮四の状態となるのぢゃ、
掃除終ってから因縁のミタマのみを神がつまみあげて
息吹きかへしてミロクの世の人民と致すのぢゃ、
因縁のミタマには☉や◎の【カミ】の印がつけてあるぞ、
仏教によるもののみ救はれると思ってはならんぞ、キリストによるものの
み救はれると思ってはならん、神道によるもののみ救はれると思っては
ならん、アラーの神によるもののみ救はれるのでないぞ、
その他諸々の神、それぞれの神によるもののみ救はれるのではないぞ、
何も彼も皆救はれるのぢゃ、生かすことが救ふこととなる場合と、小呂す
ことが救ふことになる場合はあるなれど。」とあります。

<意訳>
大掃除はげしくなると世界の人民皆、仮死の状態となるのです。
掃除が終ってから因縁のミタマのみを神がつまみあげて息吹きかへして
ミロクの世の人民と致すのです。
因縁のミタマには☉や◎の【カミ】の印がつけてあります。
仏教によるもののみ救はれると思ってはなりません。
キリストによるもののみ救はれると思ってはなりません。
神道によるもののみ救はれると思ってはなりません。
アラーの神によるもののみ救はれるのでもないのです。
その他諸々の神、それぞれの神によるもののみ救はれるというこでもあ
りません。何も彼も皆、救はれるのです。
生かすことが救ふこととなる場合と、殺すことが救ふことになる場合はあ
るのですが。 (~終末と太陽の検証~より)

私の体には子供の時から火傷の跡(印)のようなものあります。
3才以降の事はだいたい覚えていますが、火傷の記憶は有りません。
となると、0才~2才末迄となり、ヤケドの際は、ギャーと突然泣き叫ぶ
筈ですが、家族中、幼児の私の火傷は知らないと言います。
と言うことは、生まれながらの印となるわけです。
実は私の印も、◎印なのです。時にクッキリと、時にぼんやりと、現在ま
で変わることなく刻印(?)されています(私がこの印に、「何だろう~?」
とハッキリ意識したのは高校生の頃)。
ソ~して今日、この印は、ビックリするような不思議な一致点である、『エ
ッセネ派・軍神マルス・日月神示よる最後の一厘』(後日記載予定)とも
密接に絡んでくるワケです。
皆様も、次回の『九死に一生を得た』話によって、ナゼ私が冬富士で生か
されてしまったのか? も含め、その不思議なシンクロ性に驚愕される事で
しょう! <多分、そのハズ(笑)> 乞うご期待!


(注1) 2012-03-02付 「超能力者になった祖父」参照
(注2。写真再掲) 2012-06-03付 「紫根染(南部染)について」参照

<参考1> 
「日月神示」の原文を解読し、漢字仮名交じり文に書き直されたものは、
特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と言います。

<参考2> 古事記による神々の系図
http://www.os-bell.jp/keizu.pdf

『何度も死にそこなった、どうでも良いお話』

2013-05-08 22:04:04 | 日記
私の満2才の冬は雪国・秋田で過ごしておりました。
ヨチヨチ歩きでしたが、ある時、頭にズキンをかぶり、大人達の団らんの
場をひとり抜けだし、玄関の戸を開けて外に出た瞬間、突然、ドドド~ッ!
と言う音と共に、屋根の雪が一気に落下し、私は埋もれてしまいました
(この状況を未だ、微かに覚えています)。その後の記憶は有りません。
秋田の姉が知っているはずなので、いつか聞いてみようと思っています。
これが生まれて早々の、死にそこなった栄(ハ)えある第1回です(笑)

2度目は、東京の小学校に併設されていた幼稚園時代。
友達数人で、先生の目を盗み教室を抜け出し、氷の張った小学校の
プールに行き、そこで石投げをして遊んでおりました。プールの淵も氷が
張っており、私は足を滑らし、そのままプールにドボン! 気が付いたら、
養護室のベッドの上でした。無論、友達が先生を呼びに行ってくれ事な
きを得たわけ。
余談ですが、この幼稚園で、一泊の金沢八景(横浜)における海水浴が
ありました(母も参加)。 初日の浜で、先生が父兄や園児を前に、注意
事項などを話しているとき、私一人だけが突然走り出し、海に入っていっ
たものだから、先生や母は大いに慌てたとの話です(帰宅後大変叱られ
ました)。

3度目は、小学校2~3年次。当時、通学路の途中に竹の問屋があり、
店先には、いつも太い孟宗竹が何十本も立てかけられておりました。
登校時に、それがナンと一斉に倒れてきて下敷きになり、私の頭はコブ
だらけになってしまいました。幸い大事には至らず、店主は平謝りでし
たが、今なら、さしずめ、慰謝料のひとつかふたつは貰えたかも知れま
せん(笑)<店は過失傷害を問われるでしょうし>。
何より、私の頭が悪いのは、このせいだと、未だに恨んでいる3度目の
情けない体験です(爆)

4度目は高校2年の11月。冬富士で滑落し、正に「九死に一生」を得る
強烈な経験をしました(滑落中、「走馬燈のように」と言う神秘体験も)。
この話だけで長くなりますし、次々回ブログ(仮題『エッセネ派・軍神マル
スと最後の一厘』)にも大いに関わると思われるので、次回に。

5度目。以前からの「若い時分に肉体労働の経験を積んでおくべし」との
信念に基づき、大学卒業の翌年、失恋を契機に会社を辞め<大した会
社じゃ有りませんので(笑)>、半年間の季節労務者になり、冬の北海
道で炭坑夫として肉体労働に従事しました。
ある時、地底1100mのムキ出しの坑道の壁を背もたれにして座り込み、
昼食の弁当を広げていると、突然トロッコが暴走してきて、危うく轢き殺
される所でした。又、足元でゆるんでいた鉄のワイヤーが突如、ピーンっ
と引っ張られ、危なく大ケガをする所でした(場合によっては命までも)。
「怪我と弁当は自分持ち」とは、炭坑夫が共有する、 有名な格言の一つ
です(笑)

6度目以上、幾度も。
東京に戻ってからは、しばらく、「陸送」のアルバイトをしました(当時は
今と違い幾らでも仕事があり、新聞は求人広告で溢れていた)。東京の
卸店から地方の中古車店へ、車を自分で運転して運ぶワケです(帰路
は鉄道で)。日中は道路が混むので、いつも夜間に東京を出て、朝方、
現地到着です(青森、新潟、富山・・・など)。
長距離・ひとり・夜間運転、となりますと、途中、どうしても睡魔に襲われ
ます。実際、幾度となく危機的状況に見舞われました。
「山中のまがり道で危うく壁に激突しそうになったり」、「路肩を踏み外し
て崖から転落寸前とか」、「対向車と正面衝突避けられず! これで
人生オシマイだ~! 南無さん!」などなど・・・。
しかし、普通なら絶対に大事故間違いなし、否、即、あの世の住人、とな
るべき極限的状況下にあっても、ナゼか不思議と、ギリギリの所で奇跡
的に回避でき、一度も事故ったことはありません。

これら以外にも、沖縄西表島のジャングルを8時間掛けて単独縦断中、
何度も道に迷い、それはそれは恐ろしい体験をしたこと。同じく、福島の
西吾妻山でも、ひとり道に迷い、遭難一歩手前で助かったこと・・・・。

以上、私の人生の前半を振り返るとき、何とマ~ 今日まで無事に過ご
せてきたことか! まさに奇跡の連続としか言いようがないのです。
こんな経験・体験を幾度も致しますと、私は自然と「何者かに守られてい
る」、「これは試練だ」と密かに自覚するようになった次第です。


次回は、烈風吹きまく冬富士で『九死に一生を得た』キョーレツなお話。

≪警告! 呪文を掛けときました。怖いですよ(笑)≫ 

2013-03-29 12:33:57 | 日記
知人から、面白いブログです「一気に読ませて貰いました」とあり(汗!)、
その際、これだけの資料や写真が添付されていると、中には悪用して
『(木脇に)成りすます』輩も出てくるのではないか、と指摘されました。

確かに、その恐れはあります。
そのようなことがあれば、折角、掲載したブログ内容が不本意な結果を
招いてしまいます。例えば投資詐欺や結婚詐欺などで、被害者が出るよ
うな事にでもなれば大変です。
そこで、≪西洋密教≫による『悪用厳禁!の呪文』を掛けておきました。
悪用を考えている人は、その後、「災害・交通事故・破産・ホームレス・
一家離散・病魔・火事・盗難・投獄」等、多くの凶事に見舞われる恐れ
十分です。

ただ、私が念じて凶事を起こすのではありません(そんなことは致しま
せん)。 「赤ヒゲの善行」を逆手に取る輩(ヤカラ)への天の怒りが、
この呪文と相まって凶事を呼ぶのです。
「天網恢々疎にして漏らさず」なのです。
このこと、決して甘く見ないようお願いしておきます!?

『華族女学校&坊や&小せがれ』

2013-03-26 20:28:16 | 日記

番外編として、木脇一族にまつわる最後のエピソ
ードを述べておきます。

私はPFにあるように、お祖母ちゃんっ子で、と
ても可愛がられました。私がものごころついてか
ら、祖母が亡くなるまで、「坊や!」と呼んでお
りました(汗!) 年に4~5回ほど叔父の家か
ら我が家に来るときは(各、1ヶ月ほど滞在)、
お土産として、多くの伝記物や偉人伝を持参して
くれました。いつも一緒に寝ており、私が眠りに
入るまで、それはそれは沢山の寝物語をしてくれ
たものです。
熱心な信仰家でもあり、春夏秋冬やすむことなく、
毎朝5時になると、私の脇でピタッ!と正座し
(冷暖房などありません)、同じお祈りを30分
ほど唱えておりました。内容は『坊やは神の子ホ
トケの子、いつもお父さんお母さんに孝行し、世
のため人のため、ムニャムニャムニャ・・・』と
言うもので、子供ながらに、いつの間にか頭に刷
り込まれてしまいました(笑)<三つ子の魂百ま
でも、かな?>   
神の子ウンヌンはおとぎ話としても、この世では
随分と辛い体験(修行?)をさせられてしまった
のは確かです(苦笑)。ただ私が,未だに「志し」
モドキを失わないのは、この祖母の薫陶のお陰と
思っております。88才で逝った祖母の命日は、
奇しくも私の誕生日でした。

祖母の思い出話として、父に連れられ、桂太郎首
相の箱根の別荘に遊びに行った際は、小田原駅
(多分?)で待つ迎えの馬車には、前後に、騎馬
警官の護衛が付いていたそうです。
同じく、ベルツ博士の屋敷を初めて訪問した時、
夫人(日本人)が、赤い羽織を着用していたので、
とても驚いた、と話しておりました。それまでの
日本の婚姻女性は、赤色は内側の色で、決して外
には出さない色だからだそうです。
また中学生時分、「坊やネ、おバアちゃんが娘時
代、お国から、どうぞ華族女学校にお入り下さい、
とお誘いがあったのよ。だけど、お父さんが『恐
れ多い』、と断ったの。それで、本郷にある普通
の女学校に入学したの」と聞かされた事がありま
す(祖母の世代で女学校出は大変珍しいそうです)。
この『恐れ多い』ですが、実際は、爵位も無いの
に華族学校などに行ったら、いじめられるに決ま
っている、との親心で断ったのかも知れません。
既に中学生であった私は、さすがに華族女学校
(後の女子学習院)の意味するところは理解でき、
当時、「私の大好きなおバアちゃんが!?」と、
絶句するほどギョーテンした記憶があります。

「坊や」「華族女学校」などと記しますと、私は
サゾや良いところの「ぼんぼん」とお思いのこと
でしょう!
んが~皆様!? ギッチョンチョン(笑) 
事実は私は、無い無い尽くしの貧乏商家のシガナ
イ小せがれに過ぎません(このため、母は大変な
苦労をしました。乏しい家計をヤリクリし、自ら
の楽しみも犠牲にして、私と兄を大学まで出して
くれました。亡き母への感謝も決して尽きる事は
ありません!)。
あれから、早や何十年も経ちましたが、「なんで、
私みたいな男に、こんな尊い祖母や母を持てたの
だろう!?」と、未だに不思議でなりません。

祖母には11人の孫がおりますが、詳しく木脇氏
の物語を聞かされたのは、ナゼか私ひとりです。
現在、風前の灯火である木脇一族にとって(父系
はとうの昔に絶家)、私が何の準備もなくこの世
を去れば、『赤ヒゲとして善行を重ねた木脇の痕
跡』は永遠に途絶えてしまいます。
しかし幸い、ネットのお陰で、こうして、木脇の
歴史をブログに留めることが出来ました。甥・姪・
いとこ、又はその子供達が、何時の日か、このブ
ログを見て、木脇一族の正しい歴史を再発掘し、
顕彰してくれるかも知れません。
その手立てを残し得たことで、何か私の役目も果
たしたようで、まるで肩の荷をおろしたような安
堵感に浸っております(笑) 

そんな日が来るのを楽しみに、以上で木脇の話は
終わります。


『決してあり得ない! 世にも不思議なお話』

2013-03-17 10:08:48 | 日記


前回お話しした日経新聞「私の履歴書:野村万蔵氏」を掲載します。
若干、見づらいので、「木脇」に関わるところを抜粋してみます。

 『本所林町の貧乏暮らしの中で、私は4才の時ジフテリアにかかってし
まった。当時、ジフテリアは大騒動だったらしい(最悪1~2週間で死亡)。
問題は病院だが、金がないから入院治療など及びもつかない。治らなけ
ればそのまま死ぬしかなかった。見るに見かねた一人の医者が費用を出
してくれ、私は明治病院に入院でき、お陰で私は助かった。
医者は木脇良さんという。いわば「赤ヒゲ」のような人と言えよう。私財をは
たいて各界の人たちの面倒をみていた。本所かいわいに住む、桜間弓川
とか、力士・芸能人を贔屓(ひいき)にし、その人達が体調をこわすと、親
切に診療した上に、勘定はある時払いの催促無しであったと言う。木脇さ
んの世話になった芸能人・文化人は、ずいぶんいることと思う』。
ここで、明治病院とありますが、木脇医院のメインは外科、その上、ジフテ
リアは法定伝染病で隔離病棟が必要なため、大きな明治病院に入院し
たものと思われます。
しかし、この履歴書を改めて読みますと、万蔵氏も幼少時は本当に辛く苦
しい修行を積まれていたのですね!(ゆえに、大成されたワケですね。
昔の人はホントに凄~い!!!)

サテ、話は変わって15年ほど前に遡ります。
当時、池田君という<ホ~ら、やっと出てきましたよ(笑)>東京時代の友
人と、大阪の私のチッチャな会社で、一緒に仕事をしておりました(彼は現
在、札幌近郊で、環境調査会社の社長に)。
ある時、「アスカさん! 私の曾祖父は池田賢斎と言い、幕府出身の医
者で、明治3年、新政府よりベルリン医科大学に留学を命ぜられ、明治9
年に帰国しては、東京大学医学部を創設し、陸軍軍医監、宮中顧問官、
明治天皇侍医長<木脇の佐土原藩御殿医頭とは月とスッポン!(笑)>
などを歴任し、後に男爵になったのですよ」と言われました。
この余りに信じられないお話に、当然、私は卒倒せんばかりに驚愕したもの
です(ブログをお読みくださる皆様も、この情景を十分ご想像いただけること
でしょう!)。
怪訝な顔をする池田君に、「実はな~池田君!」と、木脇の話を致します
と、今度は池田君のオメ目がマン丸になってしまいました(笑) 
明治の初年時、ドイツはおろかヨーロッパ全土に於いても、日本人は皆無に
等しく、共に新政府から派遣された池田と木脇は、当然、面識・交流があ
るわけで、その曾孫どうしが130年の時空を越え、大阪の一隅で一緒に仕
事をする仲とは、これを『奇縁!』『決して、到底、ありえへん、世にも不思
議な因縁話!』と言わずして、何と申して良いのでしょうか!!!

後日、調べたところでは、池田と木脇は、それほど深い交流はなかったみ
たいで、これにはヤハリ、幕末~維新に掛けての無理からぬ事情が絡んで
いるようです(木脇と桂は同じ官軍仲間)。
ここで、再び佐土原藩に話を戻しますと・・・
武術も盛んな藩でした。薩摩示現流(剣術)の使い手も多かった為か、勇猛
果敢な戦いぶりは有名で、薩摩藩(官軍)1番隊として、真っ先かけて江戸
に進撃し、また、各地を転戦したわけです。その目覚ましい働きは、3万石
の小藩にも関わらず、「薩摩、長州、土佐、鳥取、大垣藩に次ぐ」と称讃さ
れたほどでした。
維新が成って、新政府からは多大な慰労金が下り(そのお金が留学費用
に)、また後年、藩主・島津忠寛公は伯爵に列せられ(この石高ですと、普
通は子爵)、準大藩なみの叙勲で報いたわけです。
つまりは、池田と木脇がドイツで邂逅したときは、敵味方に分かれて激しく
戦った戊辰戦争から、まだ6~7年ほどしか経っておらず、お互い、抜きが
たいワダカマリがあった事は、十分理解できる所です<但し、曾孫同士は
相変わらず良い友人関係ですよ(^-^)>。
余談ですが、母の国は島津の佐土原藩(官軍:勝ち組)、父の国は盛岡の
南部藩(賊軍:負け組。よって廃藩置県の際、陸中花輪は岩手県より秋田
県に割譲される)。私は、当然、勝ち負けの真ん中生まれで、気質も、北国
秋田(艮:ウシトラ)と南国宮崎(坤:ヒツジサル)の真ん中。生国もホボ真ん
中の東京生まれ。これも奇縁といえば奇縁のようで、道理で(自称)バラン
ス感覚が良いわけだ(爆)。

<以上、「明治の偉人:池田謙斎」参照>

『木脇良太郎』と『薩長ウハウハ時代』

2013-02-26 21:18:51 | 日記
前回、『鶴城遺芳』の表紙を載せました。
気づいた人もおられるかも知れませんが、留学生8名のローマ字名中、
Ryotarou Kiwaki(Ryo Kiwaki)とありますね。
つまり、本名は木脇良で、通称を木脇良太郎と言うわけです。
この本名に付け足した「太郎」とは何でしょうか? 
そうです、首相「桂太郎」の太郎なのです。
桂太郎は若い時分、駐在武官として、ドイツに留学しておりました。その
同じ時期、木脇もドイツに留学したわけです。改めて申すまでもなく、明
治の初年、北半球の裏側にあるドイツ国に於いて、日本語を話す日本
人は一体、如何ばかりでありましょうか? 当然、指折り数えて、としか居
りません。
ここに、共に大志を抱いた同じ日本の若者として、長州・薩摩の仲の悪
さを超え、武人・文人の境界をも跨ぎ、桂と木脇は遙か異国の地で刎頸
(ふんけい)の交わりを結んだのです。木脇は、親友から二字を貰って良
太郎とし、以降、死ぬまで、この通称を用いたわけです。

そうして彼は、米国で3年、ドイツで5年の医学研鑽を終え、明治11年、
8年ぶりに故国の地を踏みました。その際は、ライプチッヒ医科大学で
医学博士の称号を得ておりました<当時小学生であった私は、祖母か
ら盛んに「ドクトル・メディチーネ」と聞かされましたが、何のことかサッパ
リ分かりませんでした(笑)。 尚、日本で、法・医・工・文・理、5種類の
博士号が制定されたのは、明治20年となります>。

サテ、明治11年の時代の空気は一体如何なるモノだったのでしょう!? 
それは明治新政府のもと、官民挙げて、どん欲に(或いは、涙ぐましい程
に)西洋文化の吸収に務め、文明開化に勤しんでおりました。一環として、
大金をはたいてまで、外国から多くの指導者を招ヘイしたわけです(ベル
ツもその一人)。
俗謡に言う、「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」「嫁に
やるなら末は博士か大臣か」のハシリです。

ご承知のように、明治時代は、別名、薩長藩閥政治と言われるように、薩
摩・長州出身者は、無条件に出世できる時代でした(薩長にとってはウハ
ウハ時代)。
この日本中を覆う時代雰囲気のなか、最新西洋医学のメッカ・ドイツにて
医学博士となり、欧米事情に通じた(英・独語にも堪能)薩摩出身の木脇
が帰国したワケです。このことが、どれほど当時の日本医学界にインパク
トを与えたかは、想像に余りあります。
彼は望めば何処までも栄達できる恵まれたポジションにいた訳で(加えて、
桂太郎と言う政界・陸軍の大立て者をバックに持つ)、実際、明治新政府
は、「初代日赤院長」のポストを木脇の為に準備しておりました。

んが~! 皆様!? 
木脇は、一見、妙な人で、「ワシは窮屈な宮使いはゴメンじゃ!」とノタまっ
て(笑)、その席を、後輩の橋本綱常(後に子爵。幕末の志士、橋本左内
の弟)に譲り、当人はサッサと民間の医師になってしまいました(このため、
歴史に名を残す事は有りませんでした)。
その後、山形県立病院長、栃木県佐野病院長、福島県郡山病院長、など
を経て、東京の本所・緑町(国技館近く)にクリニックを開設したわけです。
(後年、北里柴三郎など、ドイツ留学する若者達が、多数、留学情報を得
るため、木脇を訪問したそうです)

木脇は、無名のイチ市井人にすぎませんが、一族の遺訓を守り【医は仁術】
(現在は死語のようですが)を実践した人物です。「貧しい人からは一銭のお
金も貰わなかったのよ。また、お相撲さん達のタニマチ(支援者)だったの」、
とは祖母の話です。
その証明と言っては何ですが、昭和53年2月4日付け、日経新聞「私の履
歴書」に、故・野村萬蔵氏(人間国宝。芸術院会員)が「木脇先生に無償で
命を助けられた。いわば『現代の赤ヒゲ』です」と、感謝を込めて紹介してお
ります<尚、お孫さんは、現在、映画や舞台で大活躍の、ご存じ野村萬斎氏
(最近、萬蔵を襲名)>。(後掲)
この記事を読み、早速、母に見せたとき、「ああ、おバアちゃんの言っていた
ことはホントだったのね~」と、大変喜んでいたことを思い出します。

(続きは後日。次回「世にも不思議なお話」を以て木脇シリーズはオシマイ)

「佐土原藩・清宮内親王・木脇 良」

2013-02-06 17:19:57 | 日記




むかし、宮崎県の中程に、薩摩藩・筆頭分家としての「佐土原藩」という
小藩がありました。幕末の戊辰戦争に於いては官軍・先鋒(とても名誉
なこと)として、真っ先に江戸に駆け上りました。
石高は3万石と大したことはなく、又、分家ではありますが、その実力は
なかなかのモノがあったようです。それは、時代が下がり、昭和の御世
にあっても、今上陛下の妹君である清宮貴子内親王の降嫁先が「佐土
原藩」で有ることからも、ご理解できるでしょう。夫の島津久永氏は香淳
皇后(昭和天皇妃。本名:良子様)の従兄弟で、今上陛下のご学友です 
(尚、常陸宮の華子妃殿下は、津軽・弘前藩主の子孫)。
この時は、宮崎・鹿児島、両県あげての大祝賀ムードだったと報道され
ております。

サテ、維新が成就し明治新政府は、功績のあった諸藩に慰労金を贈り
ました。使い道は自由です。 佐土原藩も受領し、そこで、英邁な藩主
(島津忠寛公)は、そのお金を、次の時代を背負う人材育成のために使
いました。具体的には、藩内の各分野から俊英8名を選抜し、アメリカに
6~7年、留学させることにしたのです。明治維新の翌年と翌々年にかけ
て2班に分かれて送り出しました。
正に画期的な出来事であり、大藩でも為し得なかった壮挙にして、当時
の教育界に衝撃を与えました。かの岩倉具視が54名の留学生を引率
した、明治5年の米国留学よりも早かったのですから。

木脇良(祖母の父)もその一人で、明治3年7月、25才の若者はアメリカ
で医学研鑽すべく、大いなる志を抱き、勇躍、太平洋の波頭を越えてい
きました。しかし3年後、木脇だけは、明治新政府の依頼(or指示)により、
西洋医学のメッカ、ドイツ(当時はプロシア)のライプチッヒ医科大学(明治
近代医学の師、ベルツ博士はこの大学出身)に留学することとなり、今度
は大西洋を渡ったのです。

ここに『鶴城遺芳』なる冊子があります(祖母からもらいました。鶴城とは、
佐土原の城を鶴城と称していたから)。終戦直後の昭和24年、佐土原町
の有志が米国留学80周年を記念して、発刊したものです。
その木脇良の項には、「幼にして穎悟、神童の称あり、明治3年米国に留
学し、それよりドイツに渡りて医学を研鑽す。同11年に帰朝。 尚、解剖
学の権威にして、当時『木脇の解剖図』は特に着色に依りて解説し、大に
日本の医学界に認められたものである・・・」と記載されています。
ここに『木脇の解剖図』とは、帰朝4年後の明治15年(16年の鹿鳴館より
早くに)に発刊された『解剖全書』(木脇著)を指します(この書は昭和の初
め頃まで日本中で使われていた、とは祖母の話です)。
又、この『遺芳』の発行時は、まだ戦後のドサクサ時代であり、東京にいた
祖母の所には何の連絡もありませんでした。祖母は「もし私の所に問い合
わせがきていたら、色々お話出来たのに」と大変残念がっておりました。

 (以下、続く) 

 <写真は渡米前、浅草公園の写真館で撮ったもの。向かって右が木脇>