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「木脇氏・陰徳あれば陽報あり」

2012-09-07 12:05:11 | 日記





 <今後の記載予定>
ブログの更新が思うように進みません。 
当初、内外の政治・経済について、隠されたこと
も含め色々書いていくつもりでしたが、ある尊敬
する人から、ホントの事を書き過ぎると無用な摩
擦を呼ぶ,と助言され,以降、控えるようになりま
した。このため更新もママならない訳です(*_*)  
それで、無難な先祖の事などを書きまして、一応、
父方の変わった先祖話(笑)は記載済なので、今
後は母方の先祖の『木脇氏』の話を記していこう
と思います(敬愛して已まない祖母から、ナゼか
私にだけ伝えられた一族の物語)。
その伏線として、「明治の偉人:池田謙斎」「佐
土原藩と島津貴子さん(清宮内親王)」「日露戦
争時の桂太郎首相」「世にも不思議な、決してあ
り得ない奇跡の出会い」等を順繰りに書いていく
つもりです。
主に、曾祖父に関わるお話です。

木脇氏は、代々、佐土原藩(薩摩藩筆頭分家)の
御殿医頭(殿様の侍医長)の家系でした。ルーツ
は、西暦1198年、源頼朝より、日向(宮崎)の地
頭に任じられた伊豆の豪族・伊東(工藤)氏で
(八男が日向赴任)、後年、島津氏との抗争に敗
れ、島津の軍門に下りました(今も木脇城の遺跡
あり)。同族の伊東氏が、江戸期末まで宮崎南部
の飫肥(オビ。現在の日南市)伊東藩として存続
しました(明治期、子爵に)。
祖母の話によりますと、木脇一族は『 家訓 』と
して、とにかく【 医は仁術 】を実践し,善行・
積善に努めたそうです(後年、日経新聞 「私の
履歴書」 に、人間国宝の野村万蔵氏が、金もな
かった3才の時、『木脇先生に無償で命を助けら
れた。正に現代の【赤ヒゲ】です』、との掲載あ
り)。
私の小学生時分には、祖母が、父の木脇良(つま
り、私の曾祖父)に連れられ県内を歩くと、文節
様(曾々祖父。戒名は『法雲院文翁道節居士』)
の孫が来た、と各地で大歓迎された事を、つい昨
日のように語ってくれたものです。
文節の墓は何故か、日向市細島と宮崎市佐土原の
2カ所にあります。大学1年の夏、ひとりで初め
て母方の故地宮崎に下り、祖母の細々とした記憶
を頼りに、やっとの思いで2つの墓所を探し当て
ました。
何れも苔むし倒れ朽ち果てた、文節たち祖先の墓
石と初めて対面した際は、線香の煙と共に哀れを
催し、般若心経を唱えながらも、しばしの落涙を
禁ずることは出来ませんでした<正に、「夏草や
ツワモノどもの夢の後」の情景>。 
私が適当に察するに、文節より2~3代前の先祖
が、恐らく、悪業をやらかしたのでは無いか、と
想像します。このため、子孫への余殃(ヨオウ:
祖先の悪事の報いとして7代子孫にまでも祟る災
難)を恐れ、以降の先祖は善行を尽くしたのでは
なかろうか、と? <故人曰く、「陰徳あれば陽
報あり。積善の家には必ず余慶あり、積不善の家
には必ず余殃あり」と>。

その木脇氏も母系の私を以って実質、オシマイと
相成ります<もしや私が7代目で、余殃の完成
か?(爆)>。 
父系は既に絶家しており、ゆえに、今のウチに、
木脇の記録を留めておかねば、誰知ることなく、
歴史の彼方に追いやられ埋没してしまいます。こ
れは、残された最後の子孫としての私の義務であ
り責務です。
あと何年生きられるか分からず<当人は、90まで
カクシャクとしてピンピン生きるつもりですが、
寿命ばかりは誰にも分かりません(笑)>、です
ので、先祖の遺徳を一番良く知る私が、記録保持
に努めなくてはならないと思っています。
当人とすれば、有終の美を飾って幕引とせねば、
あの世で、一族に顔向けできない道理です(笑) 
後世、歴史の好事家が、ドイツのライプチッヒ医
科大学あたりで,木脇の業績を発掘してくれるか
も知れません。ここでの記述はその一助にでもな
れば、との微かな期待でもあります。
つまらない話かも知れませんが、今まで歴史に登
場しなかった、明治初年の「万里の波濤を越えた」
お話でもありますので、しばらく、お付き合い下
されば幸いです
 
マ~ こんな話を綴っていくつもりです。
実は、秋田の姉に、木脇の歴史をブログに記すつ
もりだ、と話したところ、余り自慢話はしない方
が良いわよ、と釘をさされてしまいました。私と
しては、その点も十分踏まえ、事実を淡々と記し
ていければ、と思います<もし、自惚れ話と受け
取られてしまいましたら、お許しの程 m(_ _)m>。
又、祖母の手持ち資料は今次大戦でことごとく灰
燼に帰し、わずかな写真くらいしか残っておらず
<その中には、東京・本所緑町(国技館の近く)
の邸内の池で、釣りをしている書生さんの面白い
写真なども>、全ては祖母から聞いた記憶であり、
正確さに欠けるかも知れません。その点、ご了承
下さい。

ついでに、母の戒名(あの世での正式名)は「華
明院仁慈脇光大姉」と言いますが、「脇光」の脇
は無論、木脇一族を、光は、俗名:光子から取り
ました<母の遺言で私が命名しました(^_^;)  
親族からは結構、好評です(妹夫婦からも付けて
欲しいと言われてますw)。でも、坊さんが知っ
たら怒るだろうな~(爆) 同じく、遺影も希望
通り、母の20才の写真を用いました>。
なお、木脇一族の特長は、中年以降、瞼のしたに、
クッキリとクマが出来ます。あまり、かっこ良い
ものではありません(笑)


写真1枚目は母の葬儀写真。

2枚目の「木脇氏先祖代々之墓」の、左脇にある
のが文節の墓です。高さは1m程あるので、「先
祖代々」の石碑は優に3mは超えるでしょうか? 
とにかく圧倒されるほどの巨大さでした。
でも、最早、この光景を目にすることはありませ
ん。25年ほど前、遠縁の爺さんが、この有様は忍
びない、と供養の上、撤去してしまったからです。

3枚目は、邸内の池で、釣りをしている金田一耕
助さんです。冗談です。書生さんです(笑)。


<後記1>
この項に関し、新たに加筆修正し、2014-02-24付
け日記に、『朽ち果てた先祖墓所(;_;) 初墓参
の記』としてアップしておきました(木脇城跡の
写真も)。

<後記2>
木脇文節は、大阪の適塾(阪大医学部の前身)出
身と分かりましたので、その旨、2014-05-18付け、
<大阪の『適塾』で嬉しい発見!>と、記しまし
た。