「いじめ」に関して、最近娘の周辺であったことを記す。
娘は要領いいために、中学時代からどのグループにも属さず、うまく立ち回ってきたことと、性格自体が男っぽいため気にしない性格のため、いじめられなかった。まあむしろ相手にもさほどされなかったと言っていいだろう。4~5人でサバサバしたグループになっていた。
娘の中学時代の友人が娘と違う高校に行って、今2年だが、いじめに遭い続けている。それは同じ中学から上がった別のグループの一人の女が「あの娘、中学から変だったの」とみんなの前で指して言った時から始まったらしい。徹底無視の仕打ちが一年。
とかく女はつるまないと生きて行けないらしく、ラジオで以前、女子大などは始めのミーティングの3秒でグループが決まり、そこで漏れると大変と言っていた。つまり「集合の中の自分の確認作業」なのであろう。すなわち、みんなと一緒が安心で、その確認作業を瞬時で行う生き物に見える。日本の女特有との声も聞いた。経験からもそのように見える。
つまり、先の友人は、そこでつまはじきにされただけでなく、完全無視の仕打ちを、たった心ない一言で全員から受けているのである。教師の目には「行動がない・事件性がない」からいじめには映らない訳で、親が相談に言っても、「そんなことありません」の一点ばりだそうだ。結局2学期から学校に行けなくなり、精神病院に入院した。私が親なら、その一言を言った女の親に怒鳴り込んでいるだろう。そしてそれ以上の仕打ちを子供が受けるだろう。今教師は何を思っているのだろうか。指導力ってなんだろう。
我が娘は、時折、わかっていたので、時間あるときは会うようにしていたが、娘いわく「中学の時と変わんないよ。ただ高校では一人ぼっちみたい。」鈍感な娘と敏感な友達の違いか…。
私達の70年代くらいにもあったが、それは汚いや貧乏がいじめにあった時代で悲しい時代だったが、今や考え方や生活スタイルの相違がいじめの対象であり、これはこれで違う意味で重く悲しい。
「心ない一言が人生を奪う。」親はすべて意識していなければいけない。自分の子供はいじめの加害者でも被害者でもないと考えるのは大きな間違いで、少なくとも被害者でない限り、加害者である可能性は大きいのである。逆に被害者になっていたら、加害者側になることはほとんどないのが今の「いじめの構図」だ。
話しは変わって、息子は小学生の頃、運動ができず、そのくせ大人びていたため、いじめに遭った。親の教育にも問題あったと感じている。ただ、人に迷惑をかける子供ではなかったのは先程の論の通りである。「中学に行きたくない」(小学校持ち上がりのため)と息子が言い、当時県初の中高一貫校に応募、20分の1のくじ引きの後2分の1の入試に合格していなければ、今の息子はいないだろう。(その中高一貫校の問題は古いブログにある)
とかくいじめは無くならない。考えれば当たり前で、いじめと言うのは差別化作業。資本主義も弱肉強食内の差別化作業。つまり資本主義社会である限りいじめも無くならないものなのである。
生きにくい疲弊した社会になったと今回の娘の友人の話しを聞いて感じた。「かわいそう」と言うのも軽すぎ、手を差し延べる手段も見当たらず、涙するしかない私である。
会社組織や政治、宗教にまで存在する「いじめの構図」。根深い日本の社会の闇の部分なのである。
(写真は9月23日付けブログの添付忘れ)
娘は要領いいために、中学時代からどのグループにも属さず、うまく立ち回ってきたことと、性格自体が男っぽいため気にしない性格のため、いじめられなかった。まあむしろ相手にもさほどされなかったと言っていいだろう。4~5人でサバサバしたグループになっていた。
娘の中学時代の友人が娘と違う高校に行って、今2年だが、いじめに遭い続けている。それは同じ中学から上がった別のグループの一人の女が「あの娘、中学から変だったの」とみんなの前で指して言った時から始まったらしい。徹底無視の仕打ちが一年。
とかく女はつるまないと生きて行けないらしく、ラジオで以前、女子大などは始めのミーティングの3秒でグループが決まり、そこで漏れると大変と言っていた。つまり「集合の中の自分の確認作業」なのであろう。すなわち、みんなと一緒が安心で、その確認作業を瞬時で行う生き物に見える。日本の女特有との声も聞いた。経験からもそのように見える。
つまり、先の友人は、そこでつまはじきにされただけでなく、完全無視の仕打ちを、たった心ない一言で全員から受けているのである。教師の目には「行動がない・事件性がない」からいじめには映らない訳で、親が相談に言っても、「そんなことありません」の一点ばりだそうだ。結局2学期から学校に行けなくなり、精神病院に入院した。私が親なら、その一言を言った女の親に怒鳴り込んでいるだろう。そしてそれ以上の仕打ちを子供が受けるだろう。今教師は何を思っているのだろうか。指導力ってなんだろう。
我が娘は、時折、わかっていたので、時間あるときは会うようにしていたが、娘いわく「中学の時と変わんないよ。ただ高校では一人ぼっちみたい。」鈍感な娘と敏感な友達の違いか…。
私達の70年代くらいにもあったが、それは汚いや貧乏がいじめにあった時代で悲しい時代だったが、今や考え方や生活スタイルの相違がいじめの対象であり、これはこれで違う意味で重く悲しい。
「心ない一言が人生を奪う。」親はすべて意識していなければいけない。自分の子供はいじめの加害者でも被害者でもないと考えるのは大きな間違いで、少なくとも被害者でない限り、加害者である可能性は大きいのである。逆に被害者になっていたら、加害者側になることはほとんどないのが今の「いじめの構図」だ。
話しは変わって、息子は小学生の頃、運動ができず、そのくせ大人びていたため、いじめに遭った。親の教育にも問題あったと感じている。ただ、人に迷惑をかける子供ではなかったのは先程の論の通りである。「中学に行きたくない」(小学校持ち上がりのため)と息子が言い、当時県初の中高一貫校に応募、20分の1のくじ引きの後2分の1の入試に合格していなければ、今の息子はいないだろう。(その中高一貫校の問題は古いブログにある)
とかくいじめは無くならない。考えれば当たり前で、いじめと言うのは差別化作業。資本主義も弱肉強食内の差別化作業。つまり資本主義社会である限りいじめも無くならないものなのである。
生きにくい疲弊した社会になったと今回の娘の友人の話しを聞いて感じた。「かわいそう」と言うのも軽すぎ、手を差し延べる手段も見当たらず、涙するしかない私である。
会社組織や政治、宗教にまで存在する「いじめの構図」。根深い日本の社会の闇の部分なのである。
(写真は9月23日付けブログの添付忘れ)