「………」
「なんだい、気が狂ったとでも」
「いいや、狂人の夢というには筋が通っているし、おまえが狂っていないことは、見ればわかるからな」
「わかってくれたなら、よかったよ。というわけで、あそこにある石だが」
「塔の中に祭壇があり、中央に石、か。供物に囲まれていて、そのうえ薄暗いのでよくわからぬが、やはりおまえの石とおなじものらしいな」
「夢が過去の事実を訴えているものだとすると、いま、あの塔に願をかけている者たちも、多かれ少なかれ、似たような運命に見舞われるかもしれないというわけだ。これは、なんとか止めねばならぬな」
「夢でみた光景が『事実』ならば、だ。ちがう可能性もあるわけだろう。おまえを疑うわけではないが、よくできた夢を、事実とかん違いしている可能性もあるわけだ。おまえは俺とちがって、夢想家なところがあるからな。
現実に似た夢を見ても、すこしもおかしくないかもしれない。それを事実と思い込んでいる可能性は?」
「完全には否定できないけれど、子龍、思い出さぬか。この石を持っていた老夫婦。よそに女をつくり、まったく家庭を顧みない夫と、耐える妻。そこへ、石を持った旅人があらわれ、妻に石を与える。とたん、夫は家に戻ってくる。
しかし、代償を払うこととなった。子供たちはみな死んでしまい、家門も傾いた。夫婦の本質は、和合し、家を守り立て、守って行くもの。しかし、石を持っていたがために、子供たちの命を奪われ、家の財産も奪われた。
死んだ夫人は、うすうすと、石の力に気づいていたのではなかろうか。旅に出たいと言っていたのは、もしかしたら、わたしと同じように、塔の夢を見ていたからかもしれない」
「憶測だ。逆に、夫婦の死というものから、おまえが想像をたくましくして、作り出した話かもしれない」
「では、この石が、捨てても捨てても、わたしのもとに戻ってくる理由は?」
「…………」
「ほら、思いつかないだろう? 夢が事実である可能性のほうが高い」
「その石を貸してみろ」
「かまわぬが、また捨てるのか?」
「そうではない」
「あ」
「いま、なにをした? 額に石を当てるなどという真似をして! もしや、石に願いをかけたのではあるまいな?」
「石をめぐる夢が、事実であるかどうかの実験だ。もし、俺に異常がなにもなかった場合は、この旅は嚨西で終わりにする」
「異常が起こった場合は?」
「石を壊し、成都に戻る。どちらにしろ、おまえは怪異にふりまわされ、劉玄徳の軍師という立場を忘れてはならぬ。
捨てても捨てても戻ってくる石のことは、たしかに異常で気味がわるいが、かといって、それを理由に、危険な旅を続ける意味はないはずだ」
「言いたいことはわかった。しかし、聞かせてくれ。なにを願ったのだ?」
「教えない」
「そこで意地悪を言うかね」
「拗ねるな。聞いたところで楽しい願いではない、ということだ。叶ったら叶ったで、旅は終わりだな」
「ますます気になる。なにを願った」
「だから、秘密だ。さて、本題に戻るぞ。この石は」
「あっ! また投げるか!」
「われながら、いい場所に飛んでいったな。祭壇の中央にまるで吸い込まれるように飛んでいったぞ。すごいな、内も外も、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。これに紛れて、俺たちも逃げるぞ」
「ええい、まるで子供のころに、一族の廟の供物を遊びで盗んだときのような。待て、そんなにつよく手を引っ張るな!」
「へえ、おまえも、意外にやんちゃな子供だったのだな」
「弟に誘われて、つい。あとで姉からものすごーく叱られたのだ。二度と盗みなんぞしないと、心から誓ったね、って、そういう話をしている場合じゃないぞ!
混乱なんてものじゃない。みな、奇跡が起こった、石が増えたと大喜びしているではないか!」
「そう思わせておけばよい。ほら、じきに朝陽が完全に空にのぼる。そのまえに、村を出るぞ!」
※
「なんだ、さっきから、手ばっかり見て。もしかして、痛かったのか?」
「いや、痛くはなかったよ」
「では、なぜ手を見ている」
「いまさらだが、不思議だな、と思ったのさ。子どもの頃から、屋敷に閉じこもりの暮らしをしていて、遊び相手といえば弟くらいなものだった。徐州が危なくなって、父が死に、叔父のところに引き取られたわけだけれど、そのあいだもあとも、だれかと手をつないだことがあったかな、と思い出していた」
「ふうん? おまえの家は、すこし変わっているからな。姉君や、乳母どのや、おまえの偏屈じいやは、手を引いたりしなかったのか」
「それは一回や二回はあったと思うけれど、みんな叔父が死ぬ前だ。そのあとだよ。ほら、よく親しい人間同士で、腕を組んだり、手をつないだりして歩くだろう。わたしはそういうことは出来ない人間だったからな」
「徐軍師や崔州平どのや、白まゆげの君は?」
「うん、たしかに仲は良かったけれど、みんな思慮ぶかいというか、わたしの癖を知っていたから、必要以上に体に触れようとしてこなかった。子龍、ひとつ聞きたいのだが」
「まじめな顔をして、なんだ」
「わたしの手は、引っ張りたくなる手か?」
「藪から棒に、なにかと思えば……ふつうの手だ」
「これはわたしの印象だが、あなたはよく、わたしの手を引く。嫌ではないから、いままで気にしてこなかったけれど、手を引いて、楽しいのかな」
「楽しいとか、楽しくないという話ではなくて、単におまえを牛みたいに引っ張っていかなくちゃいけない場面に遭遇するときが多い、というだけさ。
ほら、たとえば、こんなときだ。
雨が降ってきた。これだから山の天気は当てにならぬ」
「あんなに晴れていたのに」
「しかも山の一本道で雨とはな。ちょうどいい、あそこの岩肌にくぼみがある。あそこまで走るぞ、と、こういうときに手を引くことが多いのだ!」
「ああ、そうかい。解説ありがとう。要するに、わたしがとろいということだな」
※
「ひどい雨だ。ここから先が、また土砂崩れで、通行止めなんてことにならなければよいな」
「そうしたら、成都に帰ろう」
「わたしはこの旅を楽しんでいるのだけれど、あなたがそうではないようで、ほんとうに残念だよ、子龍。成都にやり残した仕事でもあったのか?」
「そういうわけではない」
「なら、なぜ。こうして二人だけでいろいろと語り合う時間がこんなにあるなんて、荊州にいたときのようだ。あのときは、ほかのことで大変なこともあったけれど、やはりいまほど忙しくなかったからな。
臨烝から桂陽も何度も往復したし、孫夫人のことで、あれこれ相談もしたな」
「早いものだな。年数で数えたら、それほど昔でもないのに、ひどく昔の話のように思える」
「主公とお会いして、軍師になってから、毎日がどれも忘れがたいものばかりのものになった。こうして、ゆっくりした時間を持つのはいい。
わたしは、やはり働くのがすきなのだね。のんびりしているよりも、あれこれと悩んで頭を働かせたり、あなたに愚痴を言ったり、相談したりするのが好きらしい。
前にも言ったかな。ときどき、あなたが、わたしの人生のはじめから、ずっと一緒にいるのではないかと錯覚するときがある。実際はちがうわけだけれど、もしかしたら、生まれる前から、なにか縁があったのかもしれないな」
「おまえは、ほんとうに夢想家だな」
「おや、嫌かな」
「嫌ではないけれど、どうしてこう、そういう言葉がぽんぽんと、臆面もなく出てくるのやら。こう言っちゃなんだが、おまえに『ひとに触れられることが怖い』という奇癖がなくて、そこいらの男と変わりがなかったら、とんでもない遊び人になっていただろうな」
「ほーお。このわたしが好色漢になっていたかもしれないと、本人を前にして言うか」
「おまえの『言いたいときに言っておく』の真似だ。男であれ、女であれ、おまえに毎日のようにそんなふうに直言で口説かれたなら、だれであれ、気持ちがぐらぐらと揺れまくって、変な方向に考えが向かう」
「なんだ、変な方向って」
「言葉のままだ。気にするな」
「いいや。気にする。なんだ、どういう意味だね」
「気にするなというのに……誰か来るな」
「話を逸らすな。おなじ雨宿りにきた旅人だろう……ではないようだな」
「気を抜くな。これは偶然ではなかろう」
「あの赤毛の男だな」
つづく……
「なんだい、気が狂ったとでも」
「いいや、狂人の夢というには筋が通っているし、おまえが狂っていないことは、見ればわかるからな」
「わかってくれたなら、よかったよ。というわけで、あそこにある石だが」
「塔の中に祭壇があり、中央に石、か。供物に囲まれていて、そのうえ薄暗いのでよくわからぬが、やはりおまえの石とおなじものらしいな」
「夢が過去の事実を訴えているものだとすると、いま、あの塔に願をかけている者たちも、多かれ少なかれ、似たような運命に見舞われるかもしれないというわけだ。これは、なんとか止めねばならぬな」
「夢でみた光景が『事実』ならば、だ。ちがう可能性もあるわけだろう。おまえを疑うわけではないが、よくできた夢を、事実とかん違いしている可能性もあるわけだ。おまえは俺とちがって、夢想家なところがあるからな。
現実に似た夢を見ても、すこしもおかしくないかもしれない。それを事実と思い込んでいる可能性は?」
「完全には否定できないけれど、子龍、思い出さぬか。この石を持っていた老夫婦。よそに女をつくり、まったく家庭を顧みない夫と、耐える妻。そこへ、石を持った旅人があらわれ、妻に石を与える。とたん、夫は家に戻ってくる。
しかし、代償を払うこととなった。子供たちはみな死んでしまい、家門も傾いた。夫婦の本質は、和合し、家を守り立て、守って行くもの。しかし、石を持っていたがために、子供たちの命を奪われ、家の財産も奪われた。
死んだ夫人は、うすうすと、石の力に気づいていたのではなかろうか。旅に出たいと言っていたのは、もしかしたら、わたしと同じように、塔の夢を見ていたからかもしれない」
「憶測だ。逆に、夫婦の死というものから、おまえが想像をたくましくして、作り出した話かもしれない」
「では、この石が、捨てても捨てても、わたしのもとに戻ってくる理由は?」
「…………」
「ほら、思いつかないだろう? 夢が事実である可能性のほうが高い」
「その石を貸してみろ」
「かまわぬが、また捨てるのか?」
「そうではない」
「あ」
「いま、なにをした? 額に石を当てるなどという真似をして! もしや、石に願いをかけたのではあるまいな?」
「石をめぐる夢が、事実であるかどうかの実験だ。もし、俺に異常がなにもなかった場合は、この旅は嚨西で終わりにする」
「異常が起こった場合は?」
「石を壊し、成都に戻る。どちらにしろ、おまえは怪異にふりまわされ、劉玄徳の軍師という立場を忘れてはならぬ。
捨てても捨てても戻ってくる石のことは、たしかに異常で気味がわるいが、かといって、それを理由に、危険な旅を続ける意味はないはずだ」
「言いたいことはわかった。しかし、聞かせてくれ。なにを願ったのだ?」
「教えない」
「そこで意地悪を言うかね」
「拗ねるな。聞いたところで楽しい願いではない、ということだ。叶ったら叶ったで、旅は終わりだな」
「ますます気になる。なにを願った」
「だから、秘密だ。さて、本題に戻るぞ。この石は」
「あっ! また投げるか!」
「われながら、いい場所に飛んでいったな。祭壇の中央にまるで吸い込まれるように飛んでいったぞ。すごいな、内も外も、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。これに紛れて、俺たちも逃げるぞ」
「ええい、まるで子供のころに、一族の廟の供物を遊びで盗んだときのような。待て、そんなにつよく手を引っ張るな!」
「へえ、おまえも、意外にやんちゃな子供だったのだな」
「弟に誘われて、つい。あとで姉からものすごーく叱られたのだ。二度と盗みなんぞしないと、心から誓ったね、って、そういう話をしている場合じゃないぞ!
混乱なんてものじゃない。みな、奇跡が起こった、石が増えたと大喜びしているではないか!」
「そう思わせておけばよい。ほら、じきに朝陽が完全に空にのぼる。そのまえに、村を出るぞ!」
※
「なんだ、さっきから、手ばっかり見て。もしかして、痛かったのか?」
「いや、痛くはなかったよ」
「では、なぜ手を見ている」
「いまさらだが、不思議だな、と思ったのさ。子どもの頃から、屋敷に閉じこもりの暮らしをしていて、遊び相手といえば弟くらいなものだった。徐州が危なくなって、父が死に、叔父のところに引き取られたわけだけれど、そのあいだもあとも、だれかと手をつないだことがあったかな、と思い出していた」
「ふうん? おまえの家は、すこし変わっているからな。姉君や、乳母どのや、おまえの偏屈じいやは、手を引いたりしなかったのか」
「それは一回や二回はあったと思うけれど、みんな叔父が死ぬ前だ。そのあとだよ。ほら、よく親しい人間同士で、腕を組んだり、手をつないだりして歩くだろう。わたしはそういうことは出来ない人間だったからな」
「徐軍師や崔州平どのや、白まゆげの君は?」
「うん、たしかに仲は良かったけれど、みんな思慮ぶかいというか、わたしの癖を知っていたから、必要以上に体に触れようとしてこなかった。子龍、ひとつ聞きたいのだが」
「まじめな顔をして、なんだ」
「わたしの手は、引っ張りたくなる手か?」
「藪から棒に、なにかと思えば……ふつうの手だ」
「これはわたしの印象だが、あなたはよく、わたしの手を引く。嫌ではないから、いままで気にしてこなかったけれど、手を引いて、楽しいのかな」
「楽しいとか、楽しくないという話ではなくて、単におまえを牛みたいに引っ張っていかなくちゃいけない場面に遭遇するときが多い、というだけさ。
ほら、たとえば、こんなときだ。
雨が降ってきた。これだから山の天気は当てにならぬ」
「あんなに晴れていたのに」
「しかも山の一本道で雨とはな。ちょうどいい、あそこの岩肌にくぼみがある。あそこまで走るぞ、と、こういうときに手を引くことが多いのだ!」
「ああ、そうかい。解説ありがとう。要するに、わたしがとろいということだな」
※
「ひどい雨だ。ここから先が、また土砂崩れで、通行止めなんてことにならなければよいな」
「そうしたら、成都に帰ろう」
「わたしはこの旅を楽しんでいるのだけれど、あなたがそうではないようで、ほんとうに残念だよ、子龍。成都にやり残した仕事でもあったのか?」
「そういうわけではない」
「なら、なぜ。こうして二人だけでいろいろと語り合う時間がこんなにあるなんて、荊州にいたときのようだ。あのときは、ほかのことで大変なこともあったけれど、やはりいまほど忙しくなかったからな。
臨烝から桂陽も何度も往復したし、孫夫人のことで、あれこれ相談もしたな」
「早いものだな。年数で数えたら、それほど昔でもないのに、ひどく昔の話のように思える」
「主公とお会いして、軍師になってから、毎日がどれも忘れがたいものばかりのものになった。こうして、ゆっくりした時間を持つのはいい。
わたしは、やはり働くのがすきなのだね。のんびりしているよりも、あれこれと悩んで頭を働かせたり、あなたに愚痴を言ったり、相談したりするのが好きらしい。
前にも言ったかな。ときどき、あなたが、わたしの人生のはじめから、ずっと一緒にいるのではないかと錯覚するときがある。実際はちがうわけだけれど、もしかしたら、生まれる前から、なにか縁があったのかもしれないな」
「おまえは、ほんとうに夢想家だな」
「おや、嫌かな」
「嫌ではないけれど、どうしてこう、そういう言葉がぽんぽんと、臆面もなく出てくるのやら。こう言っちゃなんだが、おまえに『ひとに触れられることが怖い』という奇癖がなくて、そこいらの男と変わりがなかったら、とんでもない遊び人になっていただろうな」
「ほーお。このわたしが好色漢になっていたかもしれないと、本人を前にして言うか」
「おまえの『言いたいときに言っておく』の真似だ。男であれ、女であれ、おまえに毎日のようにそんなふうに直言で口説かれたなら、だれであれ、気持ちがぐらぐらと揺れまくって、変な方向に考えが向かう」
「なんだ、変な方向って」
「言葉のままだ。気にするな」
「いいや。気にする。なんだ、どういう意味だね」
「気にするなというのに……誰か来るな」
「話を逸らすな。おなじ雨宿りにきた旅人だろう……ではないようだな」
「気を抜くな。これは偶然ではなかろう」
「あの赤毛の男だな」
つづく……