(承前)
Ⅱ近代日本の思想と文学
- 文学と政治の駆け比べの意味転換(国勢と文学はかけ離れていたが、政治の走路が「民間」的な文学にぐっとすり寄ってきた)と、文学に対する「論理的構造を持った思想(マルクス主義)」の切り込み(プロレタリア文学の誕生)と、この二つの軸が「台風(マルクス主義とコミュニズム)」の基本構造を形成している、しかもこの二つの軸は「政治は、より正確にはプロレタリアートの立場に立つ政治は、科学の意識的適用である」という命題によって内面的に離れがたく結合されていた(p89)
Ⅲ思想のあり方につて(講演記録)
- インテリという等質的な機能で結ばれた層が存在しないということは、文学者、社会科学者、自然科学者それぞれがいわば一定の仲間集団を形成し、それぞれの仲間集団が一つのタコツボになっている、こういう事態として現れています(p142)
- ただ、日本の特殊性はどこにあるかというと、ヨーロッパですとこういう機能集団の多元的な分化が起っても、他方においてはそれと別の次元で人間をつなぐ伝統的な集団や組織というものがございます、例えば協会、クラブとかサロンとかいったものが伝統的に大きな力を持っていて、これがコミュニケーションの通路になっているわけです(p143)
コメント
こういう記述にも西欧は日本より優れているという意識が垣間見られる
- ただ、日本の場合注意しなければならないことは、現在の日本全体としては必ずしもクローズド・ソサエティではない、それどころか日本全体としては、世界中に向って開かれている、タコツボ化した集団がインターナショナルに外に向って開かれているということ、そういう所ですからいわゆるナショナル・インタレストというものが、ハッキリした一つのイメージを国民の間には結ばないのは当然であります(p146)
- 数年前に吉田首相が全面講和を唱えた著名な学者のことを曲学阿世という言葉で罵倒したが、その学者を知る人はそれからもっとも遠いことは明らかでした。ところが日本のオールド・リベラリストの人々の少なからずが、その吉田さんの言葉にひそかに、あるいは公然と喝采をおくった、そういう人たちの現代日本についてのイメージは、自分たちが圧倒的な力を持つ進歩的勢力に取り巻かれているというものだが、実は進歩派の論調は一、二の総合雑誌でこそ優勢だけれども、現実の日本の歩みは大体それと逆の方向を歩んできた、吉田さんに喝采した人たちはマイノリティどころかマジョリティーの上にあぐらをかいていることになるわけです(p148)
コメント
吉田首相の曲学阿世発言は言い過ぎだろうが、結局、吉田首相の判断が正しかったことは明らかであろう、学者が自分の信念で理想論を言うのは問題ないが、現実を無視した理想論は国家を危うくするのは今も昔も同じでしょう
- 戦前の日本では、こういうタコツボ化した組織間の間をつないで国民的意識の統一を確保していたものが天皇制であり、特に義務教育や軍隊教育を通じて注入された「臣民」意識でした、戦後は、共通の言語、共通のカルチャーを作り出す要素としては何と言ってもマスコミが圧倒的な力を持つということになります(p150)、ただ、マスコミによる驚くべき思考や感情、趣味の画一化、平均化が進行している、民間放送がいくつできても放送内容はどれも大体同じものになってしまう(p151)
コメント
マスコミの驚くべき思考の画一化は丸山氏の指摘するとおりでしょう、しかも、マスコミ、特に新聞は自分たちの信ずる主張を振り回すだけで、それとは異なった見方があることを読者に紹介しない、世論誘導してるといわれても仕方ないでしょう
(続く)