昭和20年3月10日 東京大空襲で東京全土が焦土と化しました。
我が家も例外にもれず、焼けてしまいます。
この時の東京荒川区の我が家には、疎開先もなく両親と私・二人の妹の5人が住んでいて、この火災に遭遇してしいます。
この大火災のときに、我が家に火事の炎が迫ってきたので、親父の命令で私は二人の妹を連れて3人で。
両親を家にのこしたまま、親父の指示した隅田川の川岸に、真夜中にとぼとぼと歩いて避難しました。
当時のこと、食べるものも、飲み物も何も持っていません。
14才 私
11才 次女
8才 三女 この三人だけでで10日の朝を、隅田川の岸で迎えます。
まだ、まだ熱風が空を覆っていて、時々三人の頭の上を吹き渡ります。
また、空から新聞紙や布の燃えカスが飛んできます。
どういう訳か、私たちが避難した場所には、他の人たちは誰も避難してきません。
後で判ったことですが、私たちの避難場所の300メートル上流の橋の上に避難した人が数人この火災で亡くなっています。
また、隅田川には沢山の人々が、火災の熱風に耐えかね、隅田川に飛び込んで亡くなっています。
勿論、道路の上にも焼け焦げた大人の死体を、何人も見ています。
親父の言う。避難場所の指示が正しかったことがわかります。
《この辺のことは、「60年前の戦争体験 14 空襲の焼け跡に戻る。」に書いてありますのでご覧下さい。》
家に戻ると、東京が一面の焼け跡になって、どこまでも見通せるようになってました。
辛いが、我が家は焼けてしまって跡形も残っていません。
しかし、焼けた我が家の10メートル程先から奥のほうの家が焼け残っています。
両親に聞くと、「10日の夜明けとともに、北の強風が嘘のように収まり、静かな南風に変わって、我が家は焼けてしまったが、火事は収まった。」と言うことでした。
両親は、火事がだんだん近くに迫ってくる中、家財や仕事の道具類を二人で一生懸命にリヤカーに積んで運びだし、燃え残った近所の家の近くに出したといいます。
後で、「焼け跡整理」に親父の仕事道具が大変役にたちます。
どんな道具があったのか並べて見ましょう。
① スコップ 大小五本
説明しますと「先の尖がっていて土を掘るもの二本。」
「先が四角になっていて、砂などを掬うもの。大と小二本」
② ツルハシ
③ ゲンノウ
④ かなづち
⑤ ノコギリ
⑥ スパナ
⑦ 釘抜き
⑧ 釘
⑨ ハリガネ 太いもの と 細いもの
⑩ リヤカー
⑪ 自転車 2台
その他 ロープ数本 仕事用バケツ二個 など
まだ、まだ有ったと思いますが、60年以上昔のこと、今この場ではこれ以上は思い出しません。
しかし、焦土と化した東京の焼け跡整理には、この道具類が大きな戦力になります。
近所の人が、我が家に見えて「実は家が半分焼けてしまったのですが、崩れ落ちそうで、危ないので壊して貰えませんか。」「材木類は処分して頂いて結構です。」
また、ある家庭では、「焼け跡の水道が吹き出していて止まりません。何とかならないでしょうか。」
とか、我が家に助けを求めて来ます。
《人のいい親父は、金銭の話なしで引き受けてしまいます。》
さあ、忙しいぞ。親父は私に向かって「リヤカーに道具の○と△を積んで付いて来い。」と頼まれた家にむかいます。
焼けた家で壊したものは、柱や板、トタン類に仕分けして、リヤカーに積んで、まずは我が家の近くの広場に運びます。
これが、私の仕事です。
親父の命令は、広場で柱や板・トタンなどから、釘を抜いてから、丁寧に並べること。
雨が降ってもいいように、材木類は下にして、上にトタンを被せるておくみと。
釘やネジなど小さいものは、バケツなどの入れ物を探して入れ一箇所にまとめておくこと。
或る日雨がふりました。
私が「今日はゆっくり休めるなと思っていたら、親父から声が掛かりました。」
親父「おい、釘などの小物を入れたバケツを、玄関の土間に持って来い。」と言う。
なにをしようとしているのか。次回に。
我が家も例外にもれず、焼けてしまいます。
この時の東京荒川区の我が家には、疎開先もなく両親と私・二人の妹の5人が住んでいて、この火災に遭遇してしいます。
この大火災のときに、我が家に火事の炎が迫ってきたので、親父の命令で私は二人の妹を連れて3人で。
両親を家にのこしたまま、親父の指示した隅田川の川岸に、真夜中にとぼとぼと歩いて避難しました。
当時のこと、食べるものも、飲み物も何も持っていません。
14才 私
11才 次女
8才 三女 この三人だけでで10日の朝を、隅田川の岸で迎えます。
まだ、まだ熱風が空を覆っていて、時々三人の頭の上を吹き渡ります。
また、空から新聞紙や布の燃えカスが飛んできます。
どういう訳か、私たちが避難した場所には、他の人たちは誰も避難してきません。
後で判ったことですが、私たちの避難場所の300メートル上流の橋の上に避難した人が数人この火災で亡くなっています。
また、隅田川には沢山の人々が、火災の熱風に耐えかね、隅田川に飛び込んで亡くなっています。
勿論、道路の上にも焼け焦げた大人の死体を、何人も見ています。
親父の言う。避難場所の指示が正しかったことがわかります。
《この辺のことは、「60年前の戦争体験 14 空襲の焼け跡に戻る。」に書いてありますのでご覧下さい。》
家に戻ると、東京が一面の焼け跡になって、どこまでも見通せるようになってました。
辛いが、我が家は焼けてしまって跡形も残っていません。
しかし、焼けた我が家の10メートル程先から奥のほうの家が焼け残っています。
両親に聞くと、「10日の夜明けとともに、北の強風が嘘のように収まり、静かな南風に変わって、我が家は焼けてしまったが、火事は収まった。」と言うことでした。
両親は、火事がだんだん近くに迫ってくる中、家財や仕事の道具類を二人で一生懸命にリヤカーに積んで運びだし、燃え残った近所の家の近くに出したといいます。
後で、「焼け跡整理」に親父の仕事道具が大変役にたちます。
どんな道具があったのか並べて見ましょう。
① スコップ 大小五本
説明しますと「先の尖がっていて土を掘るもの二本。」
「先が四角になっていて、砂などを掬うもの。大と小二本」
② ツルハシ
③ ゲンノウ
④ かなづち
⑤ ノコギリ
⑥ スパナ
⑦ 釘抜き
⑧ 釘
⑨ ハリガネ 太いもの と 細いもの
⑩ リヤカー
⑪ 自転車 2台
その他 ロープ数本 仕事用バケツ二個 など
まだ、まだ有ったと思いますが、60年以上昔のこと、今この場ではこれ以上は思い出しません。
しかし、焦土と化した東京の焼け跡整理には、この道具類が大きな戦力になります。
近所の人が、我が家に見えて「実は家が半分焼けてしまったのですが、崩れ落ちそうで、危ないので壊して貰えませんか。」「材木類は処分して頂いて結構です。」
また、ある家庭では、「焼け跡の水道が吹き出していて止まりません。何とかならないでしょうか。」
とか、我が家に助けを求めて来ます。
《人のいい親父は、金銭の話なしで引き受けてしまいます。》
さあ、忙しいぞ。親父は私に向かって「リヤカーに道具の○と△を積んで付いて来い。」と頼まれた家にむかいます。
焼けた家で壊したものは、柱や板、トタン類に仕分けして、リヤカーに積んで、まずは我が家の近くの広場に運びます。
これが、私の仕事です。
親父の命令は、広場で柱や板・トタンなどから、釘を抜いてから、丁寧に並べること。
雨が降ってもいいように、材木類は下にして、上にトタンを被せるておくみと。
釘やネジなど小さいものは、バケツなどの入れ物を探して入れ一箇所にまとめておくこと。
或る日雨がふりました。
私が「今日はゆっくり休めるなと思っていたら、親父から声が掛かりました。」
親父「おい、釘などの小物を入れたバケツを、玄関の土間に持って来い。」と言う。
なにをしようとしているのか。次回に。